宅見勝さんといえば、山口組のフィクサーとして君臨したものの、
1997年に暗殺された伝説のヤクザです。
この記事では、宅見勝さんの伝説や資産、嫁や息子と娘、
渡辺芳則の命令でヒットマンに暗殺された事件をまとめました。
宅見勝のプロフィール
宅見勝(たくみ まさる)
生年月日:1936年6月22日
出身地:兵庫県神戸市
宅見勝、早くに両親を亡くして苦労を重ねた少年時代だった
宅見勝さんは、1936年6月に兵庫県神戸市で洋裁店を営む宅見家の第四子として
生まれて来ています。しかしながら、宅見さんが小学1年の時に父・春一さんが
亡くなってしまい生活が行き詰ったことから、宅見一家は母・関子さんの
実家がある香川県大野村に帰郷する羽目になりました。
折しも太平洋戦争が激化していた時代ということもあり、大野村に引っ越した
宅見さんは、現地の子供たちから「疎開もん」とイジメられるなど
辛い思いもたくさんしたようですね。
また、関子さんが農家の手伝いをしながら得る報酬では、子沢山な宅見家の
家計を支えることが出来ず、一家は赤貧の暮らしをしていたと言われております。
終戦後は叔母(母親の姉)を頼り、大阪府北河内郡田村村(現:四條畷市)に
引っ越すこととなった宅見家でしたが、宅見さんが中学2年の時に関子さんが
病死するといった不幸が続きました。その後は、叔母の家に引き取られることと
なった宅見さんは、中卒が当たり前な時代に大阪府立高津高校へ進学させて貰える
など何かと目をかけて貰っていたものの、居候の身の息苦しさから高校を中退。
知人の伝手を頼り、和歌山県和歌山市の歓楽街にある遊郭「浦島」で働くことと
なりました。
私、和歌山に住んでいますが、この事は初めて知り、ネットで調べたら、
たまに通る道路で、天王料理組合という看板は観たことがありますが、
まさか、あそこが遊郭で、今も3~4軒営業しているとは
宅見勝の経歴…若手時代から経済ヤクザとして
頭角を現していた宅見勝、駆け落ちがきっかけで
極道の道へ足を踏み入れていた
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「浦島」の従業員時代の宅見勝さんは、小間使いもこまめにやっていたことから、
遊女たちから可愛がってもらっていたようですね。そんな宅見さんにとって
転機となったのが、「浦島」の近所に住む女性・春子さんとの交際でした。
遊郭の従業員であった宅見さんに偏見のあった春子さんの両親たちが交際を
反対したことから、2人は1955年になると大阪に出奔をし結婚しています。
結婚後は、東住吉区にアパートを借りて暮らしていた2人でしたが、宅見さんの
就職先が決まらずに、貯金を切り崩す苦しい生活が続いたとか。その後、近所付き
合いが縁で土井組系川北組の面々と知り合うこととなった宅見さんは、川北組の
幹部だった岩名威郎さんに誘われて極道入りを果たすことになりました。
宅見勝、極道転身後5年で川北組のNo2に昇進していた
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極道入りした宅見勝さんは、シノギとして氷屋「南大阪水業」を開業していますが、川北組の威光もあり繁華街の飲食店から注文が殺到し経営は絶好調でした。
宅見さんは、その他にも若手組員を発掘しようと思い立ち、キャバレーに従業員と
して潜り込み、気の利くボーイを山北組に推薦するなど積極的に動き回っていた
ようですね。発掘した若手組員たちは「南大阪水業」で働かせて生活に困らない
ように配慮するなど、面倒見の良い兄貴分だった宅見さんは、気が付けば組内で
一大勢力を築くこととなり、1960年に山北組の若頭へ出世することになりました。
宅見勝、川北組解散後は福井組の組員となった
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順調だった宅見勝さんのヤクザ生活に暗雲が立ち込めたのは1962年のことでした。
大阪市西成区のシノギを巡り、山口組系菅谷組と山北組の間で抗争が起こり、
宅見さんは凶器準備集合罪で逮捕される憂き目となりました。
この時の逮捕騒動では、山北組の組長や組員が大量検挙されており、
山北組は解散を余儀なくされています。
山北組解散後は、飲食店からも手のひらを返されることとなった宅見さんは、
「南大阪水業」を廃業する羽目にもなったとか。とはいえ、1963年になると、
宅見さんの有能ぶりを聞きつけた山口組系福井組の福井英夫さんよりスカウトを
受けて極道の世界に復帰したため、宅見さんの不遇時代はごく短い間でした。
福井組組員となった宅見さんは、芸能プロモーターをシノギにすることを
思い立ち「南地芸能」を設立し、大阪・ミナミの繁華街の演歌師(流し)の
大半を傘下に収めることに成功しました。
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芸能プロモーターとしての宅見さんは、かなり有能だったようで、
繁華街のみならず地域の盆踊りやヘルスセンターに演歌師を派遣するなど、
仕事をどんどん開拓していくことになりました。
福井組時代も面倒見の良い気質は変わらなかった宅見さんは、「南地芸能」で
稼いだお金の一部を若手組員たちに融資し、自分のシノギを作ることを
奨励していたようですね。やがて福井組内部でも一目を置かれる大物と
なっていった宅見さんは、1965年に若頭補佐にまで昇進しています。
宅見勝、1966年に宅見組を結成していた
福井組でも順調に出世を続けていた宅見勝さんですが、1966年になると、
三重県鳥羽市にて宅見組を結成しています。
宅見さんが大阪から三重に拠点を移した理由については、四日市競輪場の
利権を狙ったのではないかと噂されていたようですね。その後、1971年に
福井組の若頭にまで出世した宅見さんは、大阪市中央区に拠点を変更し
山口組若頭・山本健一さんに急接近することになりました。
宅見さんが山本さんに接近した理由については、山口組の直参になるためだったと
言われており、宅見組は1977年に山口組の二次団体へと昇格しています。
宅見勝の伝説…フィクサーとして山口組跡目争いで暗躍した
宅見勝、大阪戦争では吉田芳弘の暗殺に貢献していた
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宅見勝さんは、1975年になると、今度は「大阪戦争」に巻き込まれています。
「大阪戦争」については、松田組系溝口組の賭場を山口組系佐々木組の
組員らが荒したことから始まった抗争となります。
「大阪戦争」は、松田組の三次団体である大日本正義団の幹部が山口本部事務所を
銃撃したことで激化していくこととなり、山口組内部では、ケジメを取るために
大日本正義団会長・吉田芳弘さんの暗殺計画が立てられることになりました。
「吉田芳弘暗殺事件」における宅見さんは、吉田さんの愛人が働いている
韓国クラブに通いつめ、吉田さんが韓国に潜伏しているとの情報や
帰国日程を入手し、暗殺の成功に多大な貢献を果たしたようですね。
宅見勝、竹中正久を山口組4代目に就任させた
フィクサーだった
「大阪戦争」終結後の山口組は、1981年に組長・田岡一雄さんが亡くなったうえ、
続く1982年にも4代目候補筆頭格だった若頭・山本健一さんが病死したことで
跡目争いが勃発しています。この頃になると、宅見勝さんは山口組の若頭補佐と
なり、執行部入りを果たしております。
山口組4代目争いについては、有力候補だった竹中組組長・竹中正弘さんが脱税の
罪で勾留されていたアクシデントもあり、当初は直系組長の大半が山広組組長・
山本広さんを支持していた状況でした。とはいえ、竹中派だった宅見さんが裏金や
シノギの譲渡といった買収工作を開始したことで山本派有利だった流れは一変する
こととなり、1984年に竹中さんが山口組4代目の地位につくことになりました。
その後、竹中さんの下につくことを嫌った山本広さんが脱退し、
一和会を結成し山口組と対立。
4代目に就任したばかりの竹中さんが暗殺される大事件が起こりますが、
抗争の激化により警察の取り締まりが強化され、シノギが成り立たなくなる
組員が続出したことで、宅見さんら山口組執行部は一和会との和解工作に
邁進します。最終的には、1987年になると、山本広さんの引退と
一和会の解散を条件に山一抗争が終結しています。
宅見勝、渡辺芳則を山口組5代目に就任させるも
逆恨みをされていた
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宅見勝さんは、山健組組長・渡辺芳則さんを山口組5代目に押し上げた
人物としても有名になっています。宅見さんが渡辺さん擁立に動いたのは、
山口組4代目・竹中正久さんが暗殺された直後からでした。
山口組5代目候補については、当初は組長代行に就任していた山口組系中西組組長・
中西一男さんを推す勢力が強く、若頭の地位にあったものの40代だった
渡辺さんは「若すぎて経験不足」と周囲から不評でした。
とはいえ、ここでも宅見さんがお金を使い山口組直系組長たちを買収していった
ことに加えて、山一抗争の和解交渉をまとめたことで渡辺派の勢力が拡大。
山口組5代目争いについては、1989年になると、中西さんに最高顧問の地位を
用意することと引き換えに、渡辺さんが組長に就任することになりました。
渡辺芳則体制下では若頭に出世し、名実ともに山口組のNo2に出世することとなった宅見さんでしたが、渡辺さんからは次第に目の上のたんこぶのように思われるようになっていき、晩年は殺意すら持たれる状況になっていたとか。
宅見勝の資産情報…バブルの寵児と言われた男だった
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宅見勝さんといえば、組員たちに「日経新聞を読む習慣くらいつけなあかんぞ」と
語っていた異色の経済ヤクザとしても有名です。
さらには、バブル経済に乗じて地上げや株取引といった表経済にまで進出した宅見
さんは、フロント企業(企業舎弟)との概念を一般化させた人物でもありました。
暴力団と密接な関係を持ち資金提供などを行うフロント企業(企業舎弟)を傘下に置き、検事出身の弁護士や仕手グループなど豊富な人脈もあり、バブル経済で最も成功した暴力団の一人となった。
そんな宅見さんの資産については、2000億円あったと言われております。
宅見勝の家族情報…嫁の他に愛人がいた
前述のように10代の頃に正妻・春子さんと結婚をしている宅見勝さんですが、
愛人もいました。宅見さんの愛人については、歌手・西城秀樹さんの姉であった
木本絵里子さんでした。
2人の馴れ初めについては、1970年代後半頃に宅見さんが絵里子さんの勤めていた
クラブ「朱雀」に足を運んだことをきっかけに、交際がスタートしたようですね。
絵里子さんに対して深い愛情があった宅見さんは、父方の叔母に頼み込み養子縁組
して貰い絵里子さんに宅見姓を名乗らせた他、死ぬまで愛人関係にあったとか。
初めて知りました、宅見勝さんの愛人が西城秀樹さんのお姉さんだったとは、
だからかな?サザンのLIVEにゲスト出演したり、YMCAの衣装がアメリカの星条旗
をモチーフで作られたり、セクシーな衣装も着ていたりしていましたが、脳梗塞で2度倒れたので朝起きたら、お水を飲んでいたのに亡くなってしまいました
宅見勝の子供情報…息子がミュージシャンになっていた
宅見勝、息子がミュージシャンになっていた
宅見勝さんは、1979年になると、愛人・絵里子さんとの間に宅見将典さんが
生まれています。
将典さんは、1999年にロックバンド「Siren」のドラマーとしてメジャ-デビュー
した後、現在は作曲家として活躍しているようですね。
宅見将典が提供した主なヒット曲
・DA PUMP「p.a.r.t.y. ~ユニバース・フェスティバル~」
・AAA「CALL」
・FTISLAND「Brand-new days」
・KARA「サンキューサマーラブ」
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元俳優の押尾学さん率いるロックバンド「LIV」のドラマーを務めていた
時期もあった将典さんは、「押尾学事件」にて押尾さんが逮捕された際に、
保釈金を肩代わりしたこともありました。
宅見勝、娘が鈴木杏樹説はガセだった
宅見勝さんには、女優の鈴木杏樹が娘だという噂も存在します。
しかしながら、1969年生まれの鈴木さんは、出身地が大阪箕面市(兵庫県神戸市
育ち)なため、その時期は三重県鳥羽市に拠点を置いていた宅見さんの娘である
可能性は低そうです。ちなみに、宅見さんには愛人・絵里子さんの連れ子だった
まりさんという娘が実在するとか。
宅見勝の最期・・・渡辺芳則の命令でヒットマンに
暗殺されていた
宅見勝さんは、1997年8月になると、新神戸オリエンタルホテルのティーラウンジで休憩を取っていたところ、山口組系中野会のヒットマンたちにより射殺されています。
「宅見若頭射殺事件」では、当時山口組若頭補佐を務めていた中野会会長・
中野太郎さんが絶縁されるなど厳しい処分が下された他、宅見組より報復を受けて
中野会幹部たちが殺害される事件が相次ぎました。しかしながら、後に中野さんが
カミングアウトした「宅見若頭射殺事件」の真相によると、中野会に宅見さんの
暗殺指令を出したのは、山口組5代目・渡辺芳則さんだったようですね。
宅見さんとソリが合わなかった渡辺さんは、宅見さんの力で山口組5代目に就任した
コンプレックスもあり、次第に宅見さんを憎悪するようになっていました。
そのため中野さんの元へは、事件数年前より渡辺さんから宅見さんの暗殺を
促す電話が頻繁にかかってきていたとか。
当時の宅見さんは、肝臓病の悪化により引退も考えていた時期だっただけに、
暗殺事件がなくても極道の世界から身を引いていた可能性が高い状況でしたが、
渡辺さんの積年の恨みが暗殺という結末を生んでしまったことになります。
宅見若頭は、病気が悪化して引退も考えていた時期なのに、
なぜ渡辺組長は、暗殺計画をして殺したのか分かりません。
中野組長も親父があんなことを言わなければと悔やんでいましたが・・・
宅見勝についてまとめてみると…
宅見勝さんに関しては、山口組の歴史に残る大物ヤクザだったものの、
山口組5代目・渡辺芳則さんの不評を被り、最期は暗殺という憂き目となりました。
宅見さんのご冥福を祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。
まさか山口組NO.2の宅見若頭が若い時に、和歌山の浦島の遊郭で働き、
結婚後、大阪で山口組に入り、亡くなったのは、神戸オリエンタルホテルで射殺。
全部、私に関わった場所なのが分かりました。
占い師の母が「気が付かなかったら、それまで」と言っていましたが、まさか、
ここまで私に関係ある事が多いとは、この言葉の意味が段々分かってきました
そして、神戸で生まれ神戸で射殺されて亡くなったのは偶然?
宅見組組長射殺事件 逃亡支援容疑で4人逮捕
財津被告も再逮捕へ
平成9年8月に指定暴力団山口組の最高幹部だった宅見勝・宅見組組長=当時
(61)=ら2人が射殺された事件で、16年近くにわたる逃亡後に殺人容疑などで
逮捕、起訴された元中野会(解散)組員、財津晴敏被告(56)の潜伏生活を支援したとして、兵庫県警暴力団対策課と生田署などは18日、犯人蔵匿容疑で、さいたま市
中央区、元中野会組員、吉岡正吉容疑者(69)を逮捕した。また、知人を介して
吉岡容疑者に支援を依頼したとして、犯人蔵匿教唆容疑で財津被告を午後に
再逮捕する方針。さらに、職業を偽って財津被告の潜伏先となった埼玉県狭山市の
アパートを借りたとして、詐欺容疑で、服役中の指定暴力団住吉会系組員、
五十嵐文夫容疑者(40)ら男3人を逮捕し、別の男(41)についても逮捕状を
取って行方を追っている。兵庫県警は事件から丸16年を目前にした今年6月、
潜伏先の埼玉県狭山市内で財津被告を逮捕。その後も、財津被告の長期にわたる
潜伏生活を資金面などで支えていた人物がいるとみて捜査を続けていた。
吉岡容疑者の逮捕容疑は22年4月〜今年6月、財津被告が指名手配されていると
知りながら、アパートを借りるよう手配するなどかくまったとしている。
捜査関係者によると、財津被告は22年2月ごろ、知人を通じて吉岡容疑者に
潜伏先を探すよう依頼したという。また、五十嵐容疑者らは22年3月、不動産業者に対し、東京都内の法人名を挙げ、「ウェブ関係の仕事をしている」と偽り、
狭山市のアパートを契約した疑いが持たれている。
2024年7月12日~14日にあった中森明菜イベントの時のMCで、最後の曲の前に
「私は、終わったら楽屋に帰れるんだ~!ざまぁ~みろ」と言ったとファンがXで
書かれていましたが、あの言葉は、本当は三女に言わされたんです
これは一部で本人しか分からないことですが、他にも言わされていると思います。
フィリピンの甥っ子から「ざまぁ~みろ」と言われたことがありました。
そんなこと言うような人じゃないのに。凄く優しく思いやりがある人なのに
明菜さんが、そんなことを言うような人じゃないです。
やさぐれているとファンから言われていましたが・・・
いつもありがとうぼざいます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました