山口組「奥ノ院」で何があったのか  2018.12.17 現代ビジネス

中野  太郎 元五代目山口組若頭補佐

 

思えば私の人生は、ずっと生き地獄である。

かつてはヤクザとして。現在は脳梗塞の後遺症がある不自由な身体で。

墓場どころか、地獄まで持って行こうと決めていたことがいくつかあった。

しかし、これらのことを話さないうちは死ねないと、今さらにして思い始めた。

不自由ではあるが、身体が動くうちに、ここに記しておこう。

 

 山口組史上もっとも怖れられたヤクザ、中野太郎。口癖は「そんなもん、いてもうたれ!」。「喧嘩太郎」「懲役太郎」の異名をもつ武闘派ヤクザが、5代目山口組渡邉芳則組長の素顔と同宅見勝若頭との確執、さらに「宅見勝若頭襲撃事件」の舞台裏について明かした衝撃の書悲憤』が話題だ。中野氏の語る「真相」とは――。

現在の中野太郎氏

「まだか? まだか?」

私、中野太郎と「中野会」について、読者の皆さんが知りたいことがあるとすれば、宅見勝若頭射殺事件をおいて他にはないだろう。

平成9(1997)年8月28日、午後3時20分ごろ。兵庫県神戸市内の「新神戸オリエンタルホテル(現・ANAクラウンプラザホテル神戸)」4階のティーラウンジ・パサー

ジュで、5代目山口組の宅見勝若頭(当時61歳)が4人組の男たちに頭や首などを

撃たれ、流れ弾が隣席の歯科医師(同69歳)の後頭部に命中した。

同じ青色系の作業服、帽子姿の男たちは外に待たせていた乗用車に乗って逃走した。宅見若頭は搬送先の病院で1時間後に、歯科医師は6日後に亡くなっている。

 

あれからもう20年以上になる。

この事件は、設立から100年あまりを経た山口組の歴史の中でも、最も注目された

もののひとつだろう。この事件がなければ、私は今ごろどこで何をしていた

だろうか……。このように考えたことがないかといえば、ウソになる。

 

「まだか? まだか? はようカシラ(若頭)を……」

事件の一年くらい前のこと。毎日のように、私のもとへ「5代目」から

電話がかかってきていた。5代目山口組・渡邉芳則組長である。

 

「喧嘩太郎」「人斬り太郎」と恐れられた男の苦悩

 頻繁に電話がかかってくるようになったのは、私が京都・八幡市内の理髪店で

会津小鉄の者たちの銃撃を受けた直後からであったと記憶している。5代目はいつも

苛立ちを隠さず、私たち2人は、ときには何時間も、「この件」で話し込んだ。

私は正座をしたまま、電話の向こうの5代目の声に耳を傾けた。直接会って話すことも少なくなかった。当代の前では、私はいつでもどこでも、何時間でも正座していた。それが当代への礼儀だからだ。顔の見えない電話でも同じことである。

当時は、携帯電話や自動車電話の使い勝手が今ほどはよくない時代でもあり、

移動中に連絡があった時などは、公衆電話ボックスに駆け込んでかけ直すことも

珍しくなかった。

5代目の「望み」は、ただひとつだった。「とにかくはよう、カシラの……」

命(タマ)を殺(ト)れ、ということである。

自他ともに認める「5代目の親衛隊帳」である私にしか、5代目はこんなことを

頼めなかったのだと思う。このことを初めて言われたのは、いつだったか。

今となっては、思い出せない。それなりに衝撃ではあったが、それと同時に

「やっぱりなあ」という思いも同じくらいあったことは覚えている。

だが、「喧嘩太郎」「人斬り太郎」と呼ばれ、「そんなもん、いてもうたれ」が

口癖の私ではあっても、簡単に「ハイわかりました」と言える話ではない。

なぜ、そこまでの憎悪が生まれたのか

宅見勝は、5代目山口組の若頭として組を差配する、組長の女房役であり、

事実上の山口組のナンバー2である。そのような者を狙うなど掟破りもはなはだしく、私だけではなく中野会の存続に影響する。そして、事実そうなってしまった。

「宅見は、病気でもう長いことないと自分で言うてますし、引退も考えてますやろ? ほっといても死にますわ」私は静かに言った。

 

 

 中野太郎氏は宅見若頭射殺事件により、山口組から破門、絶縁処分を受けた

だが、5代目は私を見据えて言った。

「……あかん、今や」
「…………」
「今、トるんや」
「…………」

なぜ、5代目はそこまで宅見を憎むようになっていたのだろうか……。

たしかに宅見は難儀な男ではあった。宅見が関与したと言われる事件は少なくなく、その一方でスマートな「経済ヤクザ」と評され、カタギ衆とも親交があった。

だが、たとえば、山一抗争の発端となった一和会に対する「義絶状」を書いたのも

宅見である。山一抗争については拙書『悲憤』でくわしく述べるが、「義絶状」が

一和会の者たちを激怒させたことは周知の事実である。「義絶状」など出さなけ

れば、竹中正久4代目が撃たれることもなかたはずだ。とはいえ5代目の真意は、

私にもわからない。当時の宅見は末期のがんを患っており、すでに引退の準備を

していたのも事実である。わざわざ危ない橋を渡る必要があったのかどうか。

ただ、5代目は、宅見から「5代目山口組にしてやった」というように言われるのが

たまらなかったようではあった。

これも事実でないとは言わない。5代目山口組組長の候補者を選ぶ際に、

「若くて経験が不足している」と異を唱える親分衆も少なくなかった。

そうした不協和音を調整できるのは、宅見をおいて他になかった。

だが、それをいつまでも恩着せがましく言われたら、腹も立つというものだ。

「あのガキ、なめやがって……」いつもそう言っていた。

また、カネの問題もあったと思う。「経済ヤクザ」として名をはせたわりに、

5代目に対してはケチくさいことを言っていたようだった。

 

< 中野太郎氏のベールに包まれた半生、そして宅見事件の知られざる

深層については、『悲憤』において余すところなく語られている―― >

 

   

 中野太郎氏のベールに包まれた半生と宅見事件の知られざる深層が語られている

 

渡辺会長が、なぜそこまで宅見若頭を憎んでいたのか?

分からなければ聴けなかったの?そんな雰囲気じゃない?

そこまで、しつこく憎む理由を知りたかったですが・・・。

なぜ、このホテルのラウンジでこんな事件を起こそうと思ったのか分からない。

抗争事件は、民間人を巻き来ないようにしてほしかった 物申す おばあちゃん

この事件で歯医者さんが流れ弾で亡くなったのは、許されるべき事じゃない  パンチ!パンチ! 星

 

 

「宅見勝射殺事件」最後の生き残り・中野太郎元会長の生涯

 2021.01.27 07:00    女性セブン

 

「山口組若頭射殺事件」の現場(当時、写真/共同通信社)

               若頭射殺事件の生き残り・中野会長の人物像に迫る

                       (写真は事件の現場。共同通信社)

 

 1997年8月28日、神戸オリエンタルホテルのラウンジで五代目山口組ナンバー2の宅見勝若頭が射殺された。民間人1人が犠牲になったことに加え、当時はニュースで凄惨な事件現場が映し出されていたため、今なお多くの人の記憶に残っている事件だ。最後の生き残りであり、真相を知る男・中野太郎元会長は20年以上沈黙を続け、ついに帰らぬ人になった。フリーライターの鈴木智彦氏が、中野会長の生涯に迫った。

 * * *
 1月10日、元中野会会長・中野太郎が亡くなった。84歳だった。2003年に脳梗塞で緊急搬送され、以後、リハビリ生活を続けていたという。後遺症で苦しむ中で

行なわれた聞き書きを元に、2018年には自叙伝『悲憤』(講談社)を上梓したが、

警察の内部資料と見比べると出生地から異なっているなど事実誤認が多い。

記憶は曖昧で明瞭に話せなかったに違いない。

 

 警察の内部資料によれば、中野会長は静岡県田方郡伊東町(現伊東市)で出生し、長崎県の小・中学校を卒業した。高校進学後すぐに中退し、大阪に出ている。

そこで世話になったのが、澄田寿三・澄田組組長(二代目山口組若頭)だった。

直後、1959年に殺人事件を起こして懲役8年となり、出所後、澄田組長の紹介で

三代目山口組若頭の山本健一・山健組組長を訪れた。

1969年6月、山本組長と親子盃を結び、山健組の組員となる。

 

 後年、山健組一門きっての武闘派と評された中野会長には、この頃すでに「喧嘩

太郎」という異名があった。とにかくすぐにキレた。暴力団の喧嘩に怪力や技量は

必要ない。相手より先にリミッターを解除し、加減なしの暴力を振るった側が強い。中野会長の暴力性を見込んだ親分の山本組長は、のちに山口組五代目となる渡辺芳則の守り刀になるよう命じ、中野会長は渡辺五代目の組織である健竜会の相談役と

なった。渡辺五代目にとっては怖く、うるさい先輩が目付役になったため、

警察は渡辺五代目がこの人事を嫌がっていたと分析している。

 

 1978年、中野会長は20人あまりの若い衆を引き連れて健竜会を離脱、

中野会を旗揚げした。山本組長の死後、渡辺五代目が山健組二代目になると、

山健組舎弟頭に直った。1989年の山口組五代目体制の発足後は、山健一門を離れ

直参に昇格、1990年7月に若頭補佐に就任した。

 

 この頃、武闘派・中野会は絶頂期を迎えていた。首都圏を始め全国に進出すると、地元の処分者や不満分子を吸収して勢力を拡大した。暴力イメージは一人歩きし、

幻想さえ生んだ。中野会長の自宅に、逆鱗に触れて斬り殺された若い衆の死体が

いくつも埋まっているという荒唐無稽な噂さえ流れた。

一方、五代目山口組内部では、クーデターが画策され、水面下で五代目降ろしが

進んでいた。骨肉の争いである山一抗争(1984~1989年)に終止符を打ち、

関係者を説得、渡辺五代目を担ぎ上げたはずの宅見勝若頭が、その首謀者だった。

うるさ型の中野会長もクーデターに誘われたが断ったという。

すると1996年7月、自宅近くの京都・八幡市内の理髪店で、中野会長は会津小鉄会系のヒットマンたちに銃撃された。不穏な空気を察知して、理髪店は事前に

強化ガラスへと替えられていたため、中野組長に銃弾は届かなかった。

ボディガードも拳銃を携帯しており、実行犯の2人が返り討ちにあって射殺された。

 

 襲撃の1か月半後には大阪・梅田の路上で中野会長の盟友で、「サージ」こと

生島久次氏が射殺された。殺害時はカタギで、肩書きは不動産会社社長ではあっても、図抜けた経済力を持った元極道で中野会に復帰するといわれていた。

 

 生島氏の殺害を知った中野会長は怒り狂った。そしてその約1年後、新神戸

オリエンタルホテル(現・ANAクラウンプラザホテル神戸)のティーラウンジで、

宅見若頭が射殺される。6日後、巻き添えになった歯科医も亡くなった。

 

 犯行が中野会長の指示だったのか、『悲憤』では核心に一切触れられていない。

ただ、京都で自身が襲撃された直後から、渡辺五代目が何度も宅見若頭の殺害を催促してきたと記されている。クーデターを察知した渡辺五代目は、中野会長に「宅見若頭を殺せ」とせっついていた。中野会長はあくまでその代行をしたと述べるが、渡辺五代目の要望を拒絶する実力があった。殺害を決めたのは中野会長自身だったろう。

 

 当時は防犯カメラの性能が低く、真犯人が判明するのに時間がかかった。

その渦中、中野会長は『週刊文春』の取材に応じ、自分たちの犯行ではないと

シラを切った。通常、暴力団であってもここまで真っ赤な嘘はつかない。

質問に返事をせず、はぐらかし、逆ギレしても、事件が自分たちの犯行なら

「やっていない」とは明言しない。

 

 事件後、いったんは破門処分となっていた中野会長は、真犯人の確定する直前に

絶縁処分となった。犯行の総指揮をとった若頭補佐は、翌年の7月、ソウル市内の

マンションで変死し、中野会による口封じが囁かれた。

 

 報復のターゲットが確定すると、宅見若頭の弔い合戦に執念を燃やす山口組は、

容赦なく中野会に攻撃を仕掛けた。1999年9月、中野会ナンバー2の山下重夫若頭が

麻雀店で撃ち殺され、2002年4月にはナンバー3の弘田憲二副会長が、ヒットマンの

乗ったオートバイと沖縄でカーチェイスを繰り広げた末に射殺された。

それでも中野会は報復をせず、存続し続けた。暴対法による指定団体にもなった。

 

 2005年7月、渡辺五代目が引退を表明すると、その翌月、中野会長も自身の引退と中野会の解散を発表する。その後、司忍六代目組長体制が発足すると、2015年8月に追い詰められた山健組一統は山口組を離脱。かつて中野会長が殺した宅見組と手を

組んで、神戸山口組を結成した。分裂から5年以上経つが、六代目山口組との抗争は

いまだ終結する見込みがない。

 

 現代の抗争の主は情報戦で、ネットを駆使して攪乱情報が氾濫している。

だが、中野会長のおかげで、真っ赤な嘘にも耐性がある。

そういう意味では心から感謝している。

 

 

「山口組若頭射殺事件」 

最後の生き残り・中野太郎元会長の死   2021.01.20  週刊ポスト

 

 1月10日、中野太郎・元中野会会長が世を去った。84歳だった。

2003年に脳梗塞で緊急搬送され、以後、リハビリ生活を続けていたという。

引退後は暴力団社会とは一線を引き、特段の影響力があったわけではないが、

暴力団社会ではそれなりに話題となった。

 

 山口組在籍時から、中野会は武闘派暴力団の代名詞だった。

その名が一般社会にも知れわたったのが1998年8月28日、神戸市内のホテルで

五代目山口組の宅見勝若頭が射殺された事件だった。

「“喧嘩太郎”と呼ばれたのは手が早いから。おまけに容赦がない。

こんな大胆な犯行は、中野会にしかできないと思った」

当時、捜査に当たった元マル暴刑事は、そう述懐する。

中野会長は犯行を認めず、週刊誌のインタビューにシラを切った。

しかし、ヤクザの報復にエビデンスはいらない。

事件発生から1か月で中野会関係者を狙って21件の襲撃事件が発生した。

 

 山口組を破門となり、実行犯が中野会関係者だった事実が判明すると、

絶縁処分に切り替えられた。中野会と山口組はより激しい抗争に突入した。

とはいえ、中野会は古巣の山口組を攻撃しない。中野会が一方的に撃たれ、

殺戮されたと表現するのが実態に近い。中野会ナンバー2の若頭は麻雀店で撃ち

殺され、ナンバー3の副会長は沖縄でヒットマンとカーチェイスの末に射殺された。

それでも中野会が報復せず、解散もしなかったのは、宅見若頭殺害が、

山口組トップである渡辺芳則五代目の意を酌んだものだったからといわれる。

 

 2005年7月、渡辺五代目が病気療養を理由に引退を表明すると、

中野会長も1か月後に引退し、中野会を解散した。

殺戮に明け暮れた男は病院のベッドの上で静かに逝った。

 

取材・文/鈴木智彦(フリーライター)

※週刊ポスト2021年1月29日号

 

週刊誌のインタビューではシラを切ったのに、警察の調べで実行犯は中野会関係者

だと分かったから報復をしなかった。渡辺会長の意を汲んで?

だから、渡辺会長が引退するとすると、合わせたように中野会長も引退したのは

分かりましたが、亡くなる前に真実を言ってほしかったですね ムキー おばあちゃん パンチ!パンチ!

 

被害者の歯医者さん、ご冥福をお祈りいたします。

 

今日、アメリカでトランプ氏が大統領選の演説で銃撃され、

トランプ氏の耳を貫通したとニュースを観ましたが怖いですね 叫びあせる

こんな事件が無いようにしてほしいです プンプン おばあちゃん 虹

 

 

いつもありがとうぼざいます。

 

最後までお読みいただきありがとうございました 愛飛び出すハート