山口組の奥の院で起きた本当のこと  溝口  敦    2021.07.02

 

自らを刺傷され、息子までが襲われる――。日本最大の組織暴力と

真っ向立ち向かい続けた溝口敦氏による、半世紀にわたった戦いの記録

『 喰うか喰われるか 私の山口組体験 』から注目章を短期連載。

宅見勝襲撃の一報を受けて

宅見若頭はその日、新神戸駅に隣り合う新神戸オリエンタルホテル4階の

ティーラウンジで総本部長の岸本才三、副本部長の野上哲男と談笑中に射殺された。

4人から成る襲撃犯グループは拳銃で宅見の頭に2発、胸部に5発の銃弾を

撃ち込んで宅見は失血死した。

 

           稲川会との親睦ゴルフに興じる宅見勝五代目若頭(撮影:眞弓準)

 

 この事件を知り、私は直感的に山口組内の犯行ではないかと思った。

このことは朝日新聞大阪版(97年8月29日付)に寄せた私のコメントに窺える。

〈 山口組の動向に詳しいルポライターの溝口敦さんは「 若頭を射殺するという

ことは、山口組に挑戦状をたたきつけるのと同じで、ほかの組による犯行とは

考えにくい。山口組内部には『 宅見のやり方は手ぬるい 』という声があり、

反発する傘下の組の犯行ではないか」と話している 〉

友人の毎日新聞社会部記者は、この記事を目にして「警察が何も言っていないのに、

溝口は内部犯行説を唱えている。大丈夫なのかと心配だったけど、

2、3日たつと、山口組系中野会の犯行と割れてきた。

溝口の見立ては間違いじゃなかったとホッとした」と、後で話してくれた。

 

 私は過去、宅見の系列を引く大原組の組員と覚しき者に左の脇背を刺されたり、

映画『民暴の帝王』で原作者の名前を外されたりしてきたが、だからといって、

宅見を憎たらしいとか、不倶戴天の敵とか思ったことはない。

だから宅見が殺されてバンザイとは思わず、単に「やっぱりな」と

自分が7年前に立てた見通しを誇らしく感じた。

刺される理由になった『 五代目山口組 』に、私は次のような事実を書いた。

他のメディアはたぶんこうした細かい事実を知らなかったか、知っていても山口組を憚って書かなかったかである。ちょっと長めになるが、引用させていただく。

 

                         五代目山口組最高幹部の面々(撮影:眞弓準)

 

〈 渡辺の五代目擁立、実現に力あったのは宅見勝、岸本才三、野上哲男の

三人である。彼ら、とりわけ宅見勝が新人事のリーダーシップを握った。

まず野上哲男がすでに88年暮の段階で、渡辺から組長としての発言をしないという

言質を引き出したとされる。つまり、首尾よく渡辺が五代目になった暁には組運営の権限を、われわれ執行部に任せてほしい、渡辺は年齢も若く、直系組長に上ってからの日も浅い、経験に不足しているから、当分の間、我々の働きを見守ってだけ

いてほしい、五代目の土台づくりは我々がする、と提案し、渡辺は諒承した。(略)

宅見勝は渡辺より4歳年長である。普通、組長より若頭が若い。また宅見の率いる宅見組では組長のほかに組長代行を置いている。そのためもあってか、宅見勝は最初、

組長代行の椅子を望み、渡辺に話を通した上、渡辺からそれを提案させたという。

組長代行が組長の権限の分与であることは渡辺にも分明だったろう。

だが、あえてそれを納得させ、第三者に反対しづらいよう、

渡辺に発言させるあたりに、渡辺―宅見の関係が如実に見てとられる。

しかし、この宅見の目論見は通らなかった。

「『渡辺という組長が健在でありながら、組長代行というのはちょっと……』と中西さん(一男現最高顧問)、小西さん(音松同顧問)が難色を示し『そういうことやったら、副組長でどうや』と妥協案を示した。宅見さんは即座に『副組長なら要らん。頭(若頭)でいいわ 』というんで、若頭に決定したという話です」(直系組長)

山口組の現在は若頭・宅見勝というより組長代行・宅見勝と見た方が

いっそうわかりやすい〉

渡辺が組長としての発言をしない期間は就任後5年と定められたようだが、

宅見は五代目体制が発足して8年たっても若頭を退任しようとはしなかった。

いくら渡辺が御しやすい相手であっても組長になって8年もたてば、

取り巻きもできるし、知恵を授ける忠臣も登場する。彼らが宅見勝の排除に動き、

渡辺の権限を回復、確立しようとするのは誰にでもわかることだろう。

 

中野太郎は忠臣か逆賊か

 

 つまり山口組の動向を正確に見ている限り、内部の人間が宅見を殺る

だろうとは推察できる。いったん渡辺を組長に立てれば、渡辺が親分になる。

宅見がその若頭に就こうと、渡辺の子分であることにかわりはない。だが、宅見は

親分に渡辺を立てることで、自分が山口組の実権を握れると考えていた。

渡辺の組長就任前、山口組対一和会抗争の継続を主張した竹中武(直系竹中組組長)は、尊敬できない渡辺との親子盃は飲めないと山口組を離脱したが、山口組、

なかでも宅見組から総攻撃を受け、組織は壊滅的なまでに切り崩された。

私はそのころ宅見と電話し、話がこの竹中武におよんだ。と、宅見は吐き捨てるように「武は単にバカなだけやないか」と洩らした。宅見の声音は今も耳に残っている。

宅見が中野会に射殺された後、私は竹中武に電話したが、その際、宅見の武への評価をはじめて伝えた。と、竹中武は「仲間に殺されて、どっちがバカだか」とつぶや

いた。私も同じように感じた。宅見勝は策士、策に溺れて自ら射殺を招いたのだ。

宅見襲撃犯が逃走用に使った車は兵庫県警の調べでほどなく中野会系中島総業から借り出した車と判明した。襲撃の現場に居合わせた岸本才三や野上哲男も「襲撃犯の

中に見た顔がある。たしか中野会の【枝の子】だったような気がする」と言い出し、山口組執行部でも「宅見襲撃は中野会の仕業」という説が定着した。警察はまだ中野会の犯行と断定できていなかったが、山口組は警察より前に中野会犯行説を打ち出し、幹部会は犯行から3日後の8月31日、中野会の中野太郎会長を破門処分にした。

 

      渡辺芳則五代目組長、宅見勝若頭と中野太郎若頭補佐(左端) 撮影/眞弓準

 

渡辺組長は中野の処分に反対した。もともと中野は山健組の出身である。山健組は

田岡一雄時代の若頭・山本健一が作った組で、その山健組で舎弟だったのが中野太郎だった。山健組で若衆をやりつつ健竜会を作ったのが渡辺であり、中野はその健竜会で相談役をつとめていた。つまり中野と渡辺は山健組の中で師弟の関係にあった

わけで、渡辺が中野を庇ったのは味方身びいきとして当然だった。

中野は、渡辺体制がスタートしてから中野会として直参(直系組)に取り立てられ、その後、若頭補佐に抜擢された。中野太郎が渡辺の傍近くに仕え、渡辺から宅見支配の打破を相談されたとしても不思議はない。しかも中野は96年7月に京都府八幡市の自宅近くの理髪店で散髪をしているとき、会津小鉄の襲撃を受けた。襲撃隊6、7人は車2台で理髪店に乗り付け、中野を銃撃した。店内にいた中野のボディガードが

応戦し、襲撃側の2人を射殺し、中野の安全を守った上、相手を返り討ちにした。

これに先立つ96年2月、山口組の若頭補佐の一人、山健組の桑田兼吉組長と、

会津小鉄の図越利次若頭、共政会(広島)の沖本勲会長の三人が互いに五分の兄弟

盃を交わした。もちろん各組織が公認した盃である。これで山口組と会津小鉄は

関係を強めたはずだが、にもかかわらず、なぜ会津小鉄は山口組の一員である

中野太郎を襲ったのか。図越利次若頭は、その夜のうちに山口組本部に出向き、

宅見若頭などに謝罪し、山口組と会津小鉄はあっさり和解した。中野は襲撃を受けた当事者にもかかわらず和解の蚊帳の外に置かれた。たまたま反撃して難を

逃れたといっても、いきなり物もいわず急襲する会津小鉄のやり方は許せまい。

中野のその日の行動を会津小鉄に教えたのは宅見ではなかったのか、

宅見が絵を描いた会津小鉄の襲撃だったのではないかと、中野は疑った。

しかも、この和解には3億~5億円が動いたとされる。

宅見はカネの処置を独断で行い、中野には1円も渡さなかったという。

思うに宅見若頭は、中野を渡辺もろとも葬り去る相手と考えていたのかもしれない。

当時、宅見が渡辺に対するクーデターをたくらんでいたという説も流れていた。

とすれば、中野が宅見を、殺しても飽き足らない奴と考えた可能性は否定できない。宅見を、自分と渡辺組長にとって絶対倒すべき敵と考えたはずだ。

しかし、山口組の執行部にとっては、中野は宅見という仲間を殺した大罪人である。仲間殺しの男を彼らの傍に置いてはおけない。執行部は渡辺組長の反対を押し切り、

9月3日、中野への処罰を破門から、永久追放を意味する絶縁に繰り上げた。襲撃隊が撃った弾丸の一発が関係のない歯科医に当たり、彼は病院に運ばれ、手当の甲斐なく死亡した。無関係の市民を巻き込んだ。山口組は恭順の意を表さねばならない、という奇妙な遵法意識がもたらした絶縁処分であり、渡辺はこれに抵抗できなかった。

中野へのこの絶縁処分で山口組は長い停滞期に入った。渡辺とすれば、体を張って

忠節を尽くした中野を山口組に迎え入れ、若頭にでも据えて山口組の経営を任せ

たいと考えていたはずだ。しかし、執行部はガンとして中野の復縁を認めなかった。執行部のあらかたは宅見派で固められていた。

山健組出身の若頭補佐に桑田兼吉がいたが、彼も宅見派に移った。

一説に宅見に覚醒剤の使用をつかまれ、宅見寄りになったとされる。

暴力団とはいえ、組長の権限は絶対でなくなっていた。

宅見亡き後、だれを次の若頭に据えるかという人事さえ以後8年間も決まらず、

空席のまま捨て置かれた。山口組は凪の海で漂流をはじめたのだ。

中野にすれば、山口組に戻らなければ宅見襲撃の意味がなくなる。

なんとしてでも復縁しなければならない。そのため、宅見殺しはうちがやったのではないとウソを吐き続けた。中野は98年3月、「週刊文春」でライター

須田慎一郎氏のインタビューに答え、うちは絶対宅見若頭を殺していない、

私は射殺の指令も出していないと公的にシラを切った。

中野は、取材を受ける者が絶対やってはならないミスリードを公然と行ったのだ。

以後、私のなかで中野は信用できない男と印象づけられた。

中野が浮上することは二度とないだろう。

宅見が殺された後、私が喰うべき相手は渡辺芳則に絞られるはずだとも感じた。

 

昨夜upしたブログにもありましたが、中野組長が理髪店にいる時に銃撃にあったと、

その店主は、不穏な空気を察知して、事前に強化ガラスへと替えられていたため、

中野組長に銃弾は届かなかった。そして、ボーディーガードも応戦して助かった。

本当に、九死に一生を得るとはこういうことを言うんですね プンプン パンチ!パンチ!

 

リミッターと、10年程前に占い師さんから来たメールに書かれていました 物申す パンチ!

 

宅見若頭は、ケチだと書かれていましたが、まさか和解金3~5億円を中野組長に1円も渡さなかったのは?蚊帳の外とは?それだけ邪魔な存在だったとしか思えない パンチ!パンチ!

 

仲間殺しの山健組と中野会

 

射殺事件からほぼ一年後、写真誌「FRIDAY」が宅見を射殺した実行グループの

首謀者とされる中野会若頭補佐(壱州会会長)吉野和利が韓国釜山に潜伏していると

実名、顔写真入りで報じた。私には同誌に親しい編集者がいたが、

その編集者から当時、直接、次のような話を聞いた。

「うちが吉野の韓国潜伏を報じた直後、中野会関係者と名乗る者から編集部に

抗議の電話があった。その男の言い分は、〈 宅見射殺は、中野会の犯行ではない。

だが、お宅の記事を見るかぎり、まるで中野会が殺ったみたいに書かれている。

こんな記事が出たら、吉野は殺されてまうやないか 〉というものだった」

 

※画像はイメージです。Photo by iStock

 

次の日(98年7月6日)の夜9時過ぎ、その男から「吉野が殺されてもうたやないか。どないしてくれんねん」という二回目の電話があった。ソウルで吉野の死体を最初に見た韓国人男性の報告は6日の夕方7時ごろだったというから、中野会関係者を名乗る男はそのわずか2時間後、編集部に電話をよこしたわけだ。男は吉野は殺されてしまうと言い、その通り、直後に吉野は死体で発見されて、男はその事実を報らせてきた。

編集者は死体写真を見たが、鼻から血が流れ出、口からは血混じりの泡を吹いて

いる、胸には青黒いうっ血斑が出て、どう見ても他殺死体だったと言った。

韓国の捜査当局は、吉野は病死だと発表したが、編集者は電話のやり取りから

中野会が口封じのために殺したと疑って、ひどく怯えていた。私も中野会は首脳に

不利益が及びそうなら、同じ釜の飯を食った仲間さえ殺すと見て、不気味に感じた。

実際、中野会と山健組には組員の不審死事件が多い。そのなかには捜査の結果、山健組系多三郎一家・後藤一男総長刺殺事件(2007年5月発生)など、仲間が仲間を殺したことが裁判で確定した事件もある。山健組は山口組のなかでもとりわけ仲間同士の殺人を屁とも思わないマフィア的な心情を持つリーダーが多いのかもしれない。

彼らには、どうせろくでもないことしかしていない組員を、煮て食おうと焼いて

食おうと、こちらの勝手といった自己蔑視の思いが強いのかもしれない。

 

ソウルで、変死で見つかった吉野は、どうみても病死ではないはず。

なのに、なぜ韓国の捜査当局は、病死だと断定したのか?

誰が見ても、この状況は殺されてとみるのが普通の考えだと思う ムキー おばあちゃん パンチ!パンチ!

 

そして、中野組と山建組の組員の不審真事件が多い=殺された パンチ!パンチ!

 

HEY!HEY!HEY!を観ていたら、よく浜ちゃんが大きな音のおならをするのが

多く、松ちゃんがよく突っ込んでいましたが、あの姉妹がさせたこと プンプン パンチ!パンチ!

 

宅見勝暗殺事件の終焉

 

翌98年10月には宅見襲撃犯の一員だった中保喜代春が兵庫県警に逮捕され、全面自供に追い込まれた。99年3月、兵庫県警は宅見若頭の射殺は中野会の犯行と断定した。しかし、それでも、中野会が山口組に復帰するのではないかという噂や観測が

消えることはなかった。そればかりか渡辺組長が事前に中野の宅見射殺に

了解を与えていたのではないかという噂が終始、流れていた。

 

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だが、その渡辺組長も05年7月、弘道会・司忍などに迫られて引退し、同年8月には、宅見射殺事件の最終責任者・中野太郎も中野会を解散、引退した。06年には襲撃犯の一員だった鳥屋原精輝の死体が神戸市六甲アイランドの貸倉庫内で発見された。

 

 

「宅見勝暗殺事件」――真相を中野太郎が激白

喰うか喰われるか 私の山口組体験 (6) / 終  溝口  敦    2021.07.03

脳に霧がかかったほうが勝ちなのか

こうして宅見射殺事件は終わったが、私は07年8月、療養中だった中野太郎を訪ね、インタビューした。03年1月、中野は脳梗塞で倒れ、言葉はやや明瞭さを欠いたが、不自由ではなかった。長身をベッドに横たえ、顔色はいい。

 

※画像はイメージです。Photo by iStock

 

「何でも質問してください。正直に答えますよ」と、中野は言った。
  
Q宅見若頭射殺事件に入る前のこととして、宅見若頭とは一緒にやっていけない

ような因縁があったのか。

中野「前年(96年)ごろ、こういうことがあったんですわ。宅見が私に会いたいと

言うてきたんです。で、会うと『カネあるでえ。あって邪魔なもんやなし、要るん

なら回すでえ』って。わしは『ふ~ん』言うて、話に乗らなかったんですわ。

そしたら『カネが要るなら、いつでも言うてくれたら、すぐ現金で、本部からトラックで運ぶからよ』って。結局、カネを出してでも、わしを仲間にしたかったんやな。親分(渡辺芳則組長)を放り出して新体制を作る考えをもっていたわけや

 

Qそれは渡辺組長に対するクーデター計画だったのか。

中野「そうや。宅見はわしを仲間に入れたかった。わしは言うたわけや。『どっちにしても親分についていく立場なんやから、オレにそんな話言わんといてくれ』って。

最後に、わし言うたわ。『悪いけどオレ断るわ。その話(クーデター計画)、オレに言わんかったことにしてくれ』って。そしたら宅見はプイッと立って、山口組本部の五代目がおるとこ、奥の院っていうんです、一番奥にあるからね、『中野、中野、

オレちょっと奥の院行ったら、あの野郎蹴っぺ返して(蹴っ飛ばして?)くるから、あんたはなんやかんや言わんといてや』って。『あんたの好きなようにしたらエエやん』って言うたら『ほんまあ?』言うたわ。したいんやったら一人でやったらええ。それ以上オレに言わんといてくれやって、わし言いましたわ

 

 中野の脳髄には霧がかかっているのか、言うことはどこかおぼつかない。

宅見がいきなり中野にカネを用立てると申し出る、あるいはこれから渡辺組長を

蹴ってくると言い出すなど、リアリティーを欠いているように思われるが、

たぶん100パーセントのウソではなかったろう。

 

この2人の会話を読むと、中野にあの三女が憑依しているのが分かりました。

そして、思考が低下しているのか? 中枢神経を触られているのか?

脳にもやっと私も感じたので分かります 物申す パンチ!

 

カネを貸すことで人を掌握する

中野が宅見と顔をつき合わせた96年は、すでにバブル経済が破綻し、日本経済は

「失われた10年」に入っていた。株や地上げを手掛けていた直系組長クラスは

軒並み損を抱えた。しかし、宅見だけは稲川会・石井進が91年に没した後も、

経済ヤクザの雄として自由に動かせる資金が1000億とも2000億ともいわれていた。

カネを貸すことで人を掌握するのは宅見の常套手段だった。

 

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また宅見死後の話だが、神戸市灘区の山口組本部、本家では意外にも暴力が横行していた。若頭補佐7人のうち1人は渡辺組長から謹慎処分を受けた上、胸部を激しく

蹴られて肋骨を折ったとされる。もう1人の若頭補佐も渡辺組長の機嫌を損じ、

指詰めして渡辺組長に詫びを入れたという。宅見の生前、宅見の力が優越して、

逆に渡辺組長に暴力を振るった局面は必ずしも絵空事ではなかったろう。

それだけ内部の空気は殺伐としていた。

 

Q宅見若頭の話を断ったから、理髪店の事件が起きたのか。

中野「ホンマの話です。(クーデターの誘いを)断ったら、散髪屋の事件が起きた。私もバカじゃないから、だいたいわかるわね。昨日今日の問題でもなかったから。『あんちきしょう、やってきやがったな』って。やられたらやり返すのがヤクザの

常套手段だから。わしは(宅見への返報を)せないかんねん」

 

Qその上、宅見若頭が中野会長に断りなく会津小鉄と手打ちしたわけか。

中野「あのね。手打ちのおカネがどっかへ消えてしもうたんですわ。

4億か5億あったと聞いてます。わしには1円もなしですわ」

 

Qそんなこんなで宅見若頭射殺事件を起こすわけか。中野会の若い人たちが

自分たちの考えでやったというわけか。

中野「まあ、そうなります。建て前はね」

最後に中野太郎は「こんな病気(脳梗塞)になるんやったら、

宅見の事件なんかやめときゃよかったなあ」と述懐したものである。

中野会や宅見組、宅見組から分かれ、直参に取り立てられた天野組

(天野洋志穂組長)などには、宅見事件の発生で人生を棒に振り、命を落とし、

獄に繋がれた者が何人もいる。だが、親分は療養中のベッドの上で

「やめときゃよかったなあ」とぼやいて済ませる。

親分―子分関係とは、現代日本社会のなかでつくづく不思議な遺物である。

渡辺外しのクーデター

しかし、翻って考えれば、宅見射殺事件は組織と人間とがぶつかり、

互いにつぶし合ったダイナミズムに満ちた事件だった。小利口さと愚かさが争い、

愚かさが組み入れた蛮勇が小利口さを滅ぼす。しかしそれで愚かさが勝ったわけではなく、愚かさはヤクザ官僚に取り巻かれて逼塞、これではならじと腹心の部下を

執行部に入れて自分のガードにしようとする。だが、愚かさは最後、官僚と新たに

登場した暴力派とのスピード競争に敗れ、組長という席を明け渡す。

 

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いまも宅見射殺事件の全容が明らかになったとはとうていいえない。いろいろな

見方や解釈が成立し得る。客観的に見れば、群盲象を撫でる状態を現出している

のかもしれない。しかし私が事実に近いのではと感じる説がある。

東京の事業家Cの唱える見方である。Cは山口組の首脳とも交際があり、

なるほどそう見ると、山口組の情況がよくわかるといった観点を含んでいる。

以下、あらあら要点を紹介しよう。

 

まず若頭・宅見勝は96年ごろ、渡辺組長を引き下ろすクーデター計画を

練りはじめる。当初、宅見のロボットだった渡辺が次第に我を出しはじめ、

言うことを聞かなくなったからだ。

「五代目外しのクーデターを言い出したのは宅見だ。それに乗った若頭補佐は

桑田兼吉(07年病没)、古川雅章(05年引退)、司忍(現、六代目山口組組長)の

三人だった。岸本才三は半身の構えで、宅見からすべての計画を打ち明けられては

いなかった。当初、宅見はこの計画に乗るよう中野太郎にも声を掛けた。だが、

中野は『この話は聞かなかったことにしてくれ』と宅見の誘いを断った。

宅見はこれにより中野太郎をこのまま放置していては渡辺にチクられる、

危険だと考えた。そこで宅見は会津小鉄に中野太郎を殺ってほしいとオーダーした。会津小鉄は、わが物顔で京都に進出してきた中野会に手を焼いていた。宅見からの

話は渡りに舟だ。これで山口組に貸しをつくれるって飛びついた。だが、

結果は中野のために返り討ちに遭い、かえって山口組にカネを運ぶことになった」

中野は理髪店事件時点で宅見の真意を察知した。宅見を除かないと、

自分が殺られる。こうなったら殺るか殺られるか、スピード勝負と考えた。

中野は襲撃隊を組んで下調べをさせ、ついに97年8月、宅見射殺を強行した。

 

1986年夏に男女友達4人で神戸の須磨に行き、その時、風が強く帽子が飛んでいき、拾ってもらったのを思い出しました。人間の証明のテーマ曲のPVに似ています 笑ううさぎおばあちゃん

オリエンタルホテルの外のガーデンで、一緒にお酒を飲んだり、

美味しい物を食べ、楽しく話をしていたことを思い出しました ニコニコ 音譜 

 

だから、そんなところで、あんな悲惨な銃殺事件が起きるなんて信じられません パンチ!パンチ! 

私も現時点、この視点の見方がしっくりきますが、もう少し深く掘り下げて

行こうと思います。その結果、どう結論が出るのか? 物申す おばあちゃん 虹  パンチ!パンチ! 星

 

渡辺の弱腰に腹を立て…

当初、山口組の執行部は中野に破門処分を下したが、このとき、より重い絶縁を

主張したのは倉本広文(98年病没)、古川雅章、桑田兼吉だった。

渡辺は、まだ中野会の犯行と断定されたわけではないと反対した。

こうしたことを伝え聞いた中野は渡辺の弱腰に腹を立てた。

 

パットを外した渡辺芳則組長(撮影/眞弓準)

 

渡辺は執行部の反対で中野を呼び戻せず、中野の復縁を模索しつつ、足元の

山健組の立て直しを考えはじめた。山健組を完全に自分の親衛隊にしなければ、

執行部に太刀打ちできない。そのとき山健組の組長だった桑田兼吉は宅見側に走り、まるで使い物にならない。渡辺の意中の人物は当時服役していた井上邦雄

(現、神戸山口組組長)だった。井上は中野と同じく大分県の出身で、

もともと中野の秘蔵っ子といわれた人物だった。

渡辺にとって桑田を井上にすげ替えるスピードが重要だったが、司や執行部側に

とっては、渡辺をすげ替えるクーデター計画のスピードが重要だった。

 

▼『 喰うか喰われるか 私の山口組体験 』は発売中。

WEBでは紹介しきれない衝撃のエピソードが満載です。

 

 

第一章 『血と抗争』を出す――短命に終わった「月刊“TOWN”」
第二章 山一抗争――プロライターへの船出
第三章 『荒ぶる獅子 山口組四代目』――竹中兄弟の侠気
第四章 「山健一代記」――渡辺芳則との食い違い
第五章 『五代目山口組』刊行と襲撃事件――緊張の日々
第六章 もうひとつのFRIDAY襲撃事件――『民暴の帝王』でおちょくる
第七章 同病憐れんだ伊丹十三――チャイナ・マフィアの根城に乗り込む
第八章 宅見勝暗殺事件――中野太郎との会話
第九章 渡辺芳則への嫌がらせ――『食肉の帝王』と『山口組経営学』
第十章 山健組は「事故体質」か――息子も刺された
第十一章 弘道会最高幹部との対決――「細木数子 魔女の履歴書」
第十二章 山健組に実質勝訴――差し出された和解金
終章 近づいた山口組の終焉――最期まで見届けるか

 

 

 

純ちゃんに嫌な事をしてこないで! 咳や嗚咽をさせないで、口臭を持って来ない、

体を動かしにくくしない、人の言葉を言わさない、人の感情を持って来ない。

体などを痛くしない。身体を暑くしないで、イレ関係も。脅さないで!  プンプン 爆弾

 

【ボートゲームの禁じ手】を使わないで!

いくつかのゲームには、ルールで定められた禁じ手が存在する。

禁じ手を打った(指した)場合、即座に負けとなるのが一般的である。

スポーツやゲームのように明確な規制で禁じられたものではなく、

「使うべきではない」とされる手法についても「禁じ手」と呼ばれることがある。

 

※このルールを違反した時点で、ゲームオーバー及びゲームアウト! プンプン

その技術を使わないで!

 

TV等の撮影でスタッフに付いて行って、ロケや取材等の邪魔をしないで ムキー パンチ!

束縛、嫉妬や執着、妬み、依存を止めて、人に嫌な事をしてこないで パンチ!パンチ!

人の後ろに憑かない憑依しない、余計なことを言ってこない。トイレ等禁止 プンプンパンチ!パンチ!

思考低下、頭を空っぽにしないで!仕事の邪魔や記憶障害にしない。目の錯覚、

老眼近視、他人に言われたことを人に言わさない。心の中に持って来ない ムキー爆弾パンチ!

ブログを書いている時邪魔しない!自分で考えて書いて。深夜に連絡してこないパンチ!パンチ!

負けず嫌いも程々に高圧的な態度禁止。口臭も。咳込まさない。毒舌禁止、

散財させないで、調子づかないで、無理強いしないで、優柔不断にしないで プンプン パンチ!パンチ!

乗り物関係を運転時は邪魔をしない。中枢神経を触って来ない。頭を重くしないで!

人の感情やパワーを抑えない、唇を痺れさせない。人をコントロールしないで パンチ!

マウントを取って来ない、過保護にしない! 耳を痛くしないで!あの母親のパワーが

胃の付に感じて、あの子が後ろに憑き、あの三女が遠隔でコントロールしてくるの

止めて!あの親子、両依存水晶を使って人を脅さない。個人情報保護法、

プライバシー侵害しない! 日本には言論や表現の自由がある ムキーパンチ!パンチ!パンチ! 

その力、仕事以外に使わないで人の為に使って、決して悪いように使わないで。パンチ!パンチ!

 

全責任は、お母さん達に取ってもらう。 もちろん本人にも取ってもらう!

あの長男、人のPCやスマホに侵入してきて、ハッカーのようにしてこないで パンチ!パンチ!パンチ!むかっ

長女のパワーを使わない! 上記に書いていることは、みんなのことを指す 物申す パンチ!パンチ!パンチ!

 

3つの約束やルール、個人的に約束した事、日本の常識は必ず守って。

アミューズ同様、みんなに対しても約束など厳守して パンチ!パンチ!パンチ!

( 私の言うことを聞く・命関係は打ち止め・引退関係・契約書など、反故にしない )

契約書を読んで!約束を破るとペナルティーが、母との勝負を忘れないでムキー爆弾パンチ!パンチ!パンチ!

 

 

いつもありがとうございます。

 

最後までお読みいただきありがとうございました 愛飛び出すハート