越路吹雪「愛の讃歌」や加山雄三「君といつまでも」など数多くのヒット曲を
手掛けた作詞家の岩谷時子さん(本名トキ子)が25日午後3時10分、肺炎のため、
都内の病院で亡くなった。97歳だった。残した作品は3000曲を超え、女性として
初めてレコード大賞作詞賞を受賞。文化功労者に選ばれるなど、戦後の流行歌を
けん引した。葬儀・告別式は近親者のみで行い、後日お別れの会を開く予定。
岩谷さんは10年に音楽や演劇の発展に功労のあった人を顕彰する「岩谷時子賞」を創設。毎年4月の授賞式には毎回元気な姿を見せており、今年4月にも車いす姿で
登場した。あいさつこそしなかったが、笑顔で松任谷由実や中村勘九郎ら受賞者を
祝福した。都内に自宅を持つ岩谷さんだが、ここ数年は仕事場だった東京・千代田区の帝国ホテルで暮らしていた。その後、体調を崩して入院。
10月に入ってから容体が悪化したという。
39年に宝塚歌劇団出版部に入り、当時の男役スターだった越路吹雪さんと
親交を深めた。51年に越路さんとともに東宝文芸部に移籍。越路さんのマネジャー兼
作詞家として80年に越路さんが亡くなるまで30年近くコンビを組んだ。
岩谷さんは作詞家になるつもりはなかったが、ピアフの歌に日本語詞を付けることになり「あなたの燃える手で」の情熱的な歌詞で始まる「愛の讃歌」が誕生。
生涯独身の岩谷さんは「同志愛」で越路さんに寄り添い、「ラストダンスは私に」「サン・トワ・マミー」など海外のヒット曲を訳詞した。
詞を書く時には1つのドラマを頭に描いて取り組んだ。加山の「君といつまでも」で浜辺の若い男女を思い浮かべたように、ザ・ピーナッツ「ふりむかないで」、
ピンキーとキラーズ「恋の季節」、郷ひろみ「男の子女の子」など数多くの作詞を
手掛け、生涯で残した作品は3000曲を超える。ミュージカルにも造詣が深く、
「ジーザス・クライスト=スーパースター」「レ・ミゼラブル」「ミス・サイゴン」の訳詞を担当。ミュージカルブームの礎を築いた。
64年にザ・ピーナッツ「ウナ・セラ・ディ東京」、岸洋子「夜明けのうた」で
女性として初めて日本レコード大賞作詞賞、69年には佐良直美「いいじゃないの
幸せならば」でレコード大賞を受賞した。09年には文化功労者に選ばれた。
91歳の時に加山に新曲「逢えてよかった」を提供するなど、晩年まで現役作詞家
として大衆に夢と希望を与え続けた。
◆岩谷時子(いわたに・ときこ)1916年(大5)3月28日、ソウル市生まれ。
5歳で帰国し、神戸女学院大卒業後、宝塚歌劇団出版部に就職。「歌劇」編集長を
経て、51年から63年まで東宝文芸部に所属しながら、越路さんのマネジャー兼作詞家として活動。93年に勲4等瑞宝章。09年に岩谷時子音楽文化振興財団を設立。
岩谷時子(作詞家) 越路吹雪を支えた一途な愛…
会っただけで心酔した 産経新聞
岩谷時子 1916年3月28日~2013年10月25日
【 昭和歌謡の職人たち 伝説のヒットメーカー列伝 】
加山雄三の歌の数々を聞いた中学生の頃、作詞岩谷時子・作曲弾厚作という
コンビは、きっと仲のいい歌仲間だろうと勝手に想像していた。
後年、このコンビは越路吹雪さんの音楽ディレクターが加山さんも担当することに
なったのがきっかけだったと聞いた。
1965年の「君といつまでも」では「僕は君を死ぬまで離さないぞ いいだろう」のせりふを聞くと、夢のようなロマンチックな世界にたじろいでしまう。
66年の「お嫁においで」では歌詞中で「お嫁においで」とそのまま歌われたのは
初めてか。子供ながらに照れてしまったものだ。
68年には、ピンキーとキラーズの「恋の季節」が270万枚以上の大ヒツト。
郷ひろみのデビュー曲「男の子女の子」は72年のレコード大賞新人賞受賞。
ミュージュカルの訳・作詞でも華々しい活躍をされている。
その詞にはメロディーやリズムが含有されている。
神戸女学院大学を卒業後、宝塚歌劇団出版部に就職。タカラジェンヌの越路と
出会い、意気投合し、独立して歌手になりたいという相談を受けると、迷うことなく上京を決意し、東宝文芸部に所属しながら越路の付き人になり、越路が亡くなるまで支え続けた。
越路が52年、シャンソンショーで歌う劇中歌『愛の讃歌』を訳詞したのが作詞家
としての始まり。エディット・ピアフが50年に発売したフランスの楽曲だが、
オリジナルの詞にとらわれず、岩谷作品はいちずな愛を貫く女性を描いている。
それは岩谷さんそのものである。越路への情熱と身をていしての作品作りは
他に例を見ない。
僕は、残念にも岩谷さんと仕事する機会はなかったが、87年、東京・品川のホテルの喫茶店で話をさせていただく幸運に恵まれた、今までに会ったアーティスト、
作家とはまるで違い、業界独特の臭いを感じさせない人だった。
大作家になれば、どこか威圧感があるものだが、それがみじんもない。自然体そのもので、存在自体が上品であるが、包み込むような優しさと庶民性も兼ね備えていた。今までお会いした人の中で、これほどまでに会っただけで心酔したのは初めてだった。正直いって何を話したかもまったく覚えていない。生涯、純真性をなくされない素晴らしい人だった。
■篠木雅博(しのき・まさひろ)株式会社「パイプライン」顧問。1950年生まれ。渡辺プロダクションを経て、東芝EMI(現ユニバーサル)で制作ディレクターとして布施明、アン・ルイス、五木ひろしらを手がけた。徳間ではリュ・シウォン、
Perfumeらを担当した。2017年5月、徳間ジャパンコミュニケーションズ顧問を
退任し、現職。
作詞家の岩谷時子さん死去…97歳
「愛の讃歌」「君といつまでも」など多くのヒット曲を手掛けた作詞家・訳詞家で
文化功労者の岩谷時子(本名・トキ子)さんが25日午後3時10分、肺炎のため
都内の病院で死去していたことが28日、分かった。97歳。葬儀・告別式は近親者
のみで行い、後日お別れの会を開くという。死去の報を受け、加山雄三(76)ら
生前親交のあった多くの芸能人が、岩谷さんを悼んだ。
岩谷さんはここ数年、体調が思わしくなく、今年4月4日、岩谷時子賞の授賞式に車いす姿で登場したのが最後の公の場だった。
兵庫県で育ち、1939年に宝塚歌劇団に就職。越路吹雪さんと出会い、越路さんが
退団後、共に上京。マネジャーを務め、国民的大スターを公私で支え続けた。
自ら「同志愛」といい、越路さんの死まで30年以上も続いた関係は
何度もテレビドラマ化された。
そんな中で生まれたのが名曲「愛の讃歌」。仏歌手エディット・ピアフの歌に
岩谷さんが日本語詞をつけたもので、越路さんの日記などをモチーフに仕上げた。
これをきっかけに訳詞家、作詞家としても活動した。作詞家としては、当時の主流
だった七五調から、会話を思わせる言葉を並べた詞で新風を吹き込み、流行歌の
世界に大きな影響を与えた。また、「レ・ミゼラブル」「ミス・サイゴン」など
海外ミュージカルの訳詞も担当し、日本の演劇界の発展にも大きく寄与した。
岩谷さんを知る関係者は「優しい方。いつも温厚で怒ったところを一度も見た
ことがない。そんな人柄が詞に表れていた。男女の関係を描くにも、ギラギラした
ものでなく、どこか温かみがあった」と振り返った。
2009年には音楽界・演劇界の発展に寄与した人物、団体などを表彰する岩谷時子賞を創設。後進の育成にも目を向けていた。来月1日には歌手・小林幸子が横浜で開く
岩谷作品を歌うライブに、体調が良ければ出席する予定だった。
最後まで、夢と希望を送り出す心を持ち続けた。