[ 2020年12月25日8時39分 ]  日刊スポーツ

 作詞家で直木賞作家の、なかにし礼(なかにし・れい)さん(本名・中西礼三=

なかにし・れいぞう)が、心筋梗塞のため23日午前4時23分、都内の病院で死去したことが25日、分かった。82歳。旧満州生まれ。2012年に食道がんが見つかったが、先進医療の陽子線治療で克服。その後も旺盛な創作意欲を見せていたが、ついに帰

らぬ人となった。葬儀・告別式は後日、家族葬として行う。喪主は妻の由利子さん。

「天使の誘惑」などで日本レコード大賞を3度受賞した売れっ子作詞家で、作家としても「長崎ぶらぶら節」で直木賞受賞。多彩な顔を持ったなかにし氏が亡くなった。

親族によると、約1カ月前に都内の病院に入院。家族にみとられながら旅立った。

コロナ禍でもあり、葬儀は家族葬で実施する。親族は「家族葬は本人の意志でも

ありました」と説明した。

 

あふれ出る才能を数々の作品にしてきたなかにし氏は、7歳の時に敗戦で中国から日本に引き揚げた苦労人だった。18歳で家出をした後は道路工事などで生計を立て、その後、入学した立教大でシャンソンの訳詞を手掛けたのは学費稼ぎのためでもあった。

66年に「涙と雨にぬれて」で作詞家デビュー。以降、ヒットメーカーとして約4000作の作詞を手掛けてきた。経営者の顔も持ち、設立した芸能プロダクションが倒産

した際は、約2億5000万円の借金を作ったとも報じられた。それでも、89年に行った

作詞家生活25周年のパーティーでは「人生、山あり谷あり。難破しかけたこともあったが、皆さまのおかげでここまできた」と、大変だった過去さえ笑い飛ばしていた。

 

 最初の大病は1992年(平4)。54歳の時に心筋梗塞で心臓の5分の2が壊死(えし)した。12年には食道がんが判明。これは、放射線治療の一種、陽子線治療を

4カ月で30回受けて克服した。仕事復帰した後も3カ月に1度の定期検査を欠かさず、15年1月には作詞家・作家生活50周年記念のアルバム「なかにし礼と12人の女優

たち」を発売するなど、精力的に活動してきた。

ところが、同時期の精密検査で食道付近のリンパ節にがんの再発が判明。患部が臓器の密集部位なため、頼りにしていた陽子線治療は出来なかった。そこで手術を選択。当初は体に負担の少ない胸腔(きょうくう)鏡手術の予定だった、手術中に、

背中を大きく約25センチも切る開胸手術に急きょ変更した。術後、日刊スポーツの電話取材に「(92年の)心筋梗塞で心臓が半分ぐらい壊死しているから、心臓が長時間の全身麻酔手術に耐えられるかどうかだった。やれるところまではやったけど、患部をすべて取り切れなかった」と打ち明けた。今後のことは「主治医と対応を考えながらやっていくが、まずは治療に専念する。1日も早く復帰したい」と話していた。

その後、週刊誌「サンデー毎日」で小説形式の連載を行うなど、最後まで創作意欲を失わなかった。

 

 

「昭和」にこだわった希代のヒットメーカー 

なかにし礼さん死去 

 

           【第24回日本レコード大賞】「北酒場」でレコード大賞を受賞した細川たかし(後方左から作詞家・なかにし礼、作曲家・中村泰士)=1982年12月31日、帝国劇場

【第24回日本レコード大賞】「北酒場」でレコード大賞を受賞した細川たかし(後方左から作詞家・なかにし礼、作曲家・中村泰士)=1982年12月31日、帝国劇場

 

 

 昭和の歌謡曲を作詞家として彩り、作家としても数々の名作を世に送り出した

なかにし礼さんが、23日に亡くなった。希代のヒットメーカーが紡ぎ出した

作品には「昭和」という時代の高揚感と悲しみが見事に表現されていた。

その輝きは時代を超えて愛されている。

 

 昭和33年からシャンソンの訳詞を始め、菅原洋一さんの「知りたくないの」が

ヒットしたことや、付き合いのあった石原裕次郎さんのすすめを機に、作詞家に

転じたなかにしさん。手がけた作品は約4000曲を数え、ヒットは数知れず。

昭和の歌謡界を彩った。昭和が終わり、平成が始まった直後、転機が訪れた。

「昭和天皇のご大喪の礼をテレビで見ながら、戦うというか取り組む相手がいなく

なった虚脱感に覆われた」。産経新聞の取材に対し、なかにしさんはこう語り、

自身の活動を「戦後の苦労などを含め、昭和という時代への慈しみ、悲しさ、

憎しみや恨みを書きつづっていたことに気付いたんです」と振り返った。

 

 次の活動場所として選んだのは小説。「歌ではなく小説でしか書けないものを今、書いておきたい。それが使命ではないか」という思いに駆られた。

作詞家から小説家の頭に切り替えるため、夏目漱石やサマセットモーム、

ドストエフスキーの全集を繰り返し読んだという。

平成10年に初の長編小説となる「兄弟」を発売。戦後の混乱期を背景に破天荒で

破滅的な人生を歩む兄と、作詞家として成功した弟の愛憎をつづった自伝的小説で、13年の「赤い月」でも実母をモデルに悲惨な引き揚げの経験を描いた。

21年に産経新聞に連載した「世界は俺が回してる」では、戦後の高度成長期に

斬新なテレビ番組やイベントを仕掛けた放送マンの光と影を描いた。

活動分野が変わっても、昭和への強い思いは変わらなかった。

 

 自身のこだわりを貫きながらも、人気作を量産するのはさすがというほかない。

21世紀に入っても、今年10月に死去した筒美京平さんが作曲を手がけ、なかにしさんが作詞した「AMBITIOUS JAPAN!!」(15年)は、アイドルグループ、TOKIOの代表曲の1つに。24年には氷川きよしさんの「櫻」で日本作詩大賞を受賞するなど、ヒットメーカーぶりは晩年まで健在だった。

【補足】

 細川たかしさんは「また一人昭和の偉人が亡くなってしまい残念でなりません。天国でゆっくりお休み下さいと祈るばかりです。先生本当にありがとうございました」とコメントを出した。

 「時には……」を歌った黒沢年雄さんは、この日、自身のブログで「大恩人の

礼さんが…! 頭が混乱して…言葉が出ない…。中村泰士さん…なかにし礼さん…

次次と昭和の偉人が去って逝く…」(原文ママ)などとつづった。

 

 

なかにし礼氏が死去。「最後まで格好良く、激動の昭和から現代までを生き抜いてきた」と長男がコメント   

 

 

作家・作詞家のなかにし礼氏が12月23日、心筋梗塞のため逝去した。満82歳だった。

長男の中西康夫氏は「やりたいことや伝えたいことがまだまだあったと思うので残念でなりません。父の作品にはいつも父が伝えたいことが深く書かれていました。

その想いを感じていただきながらこれからも、父の作品と親しんでいただけれまし

たら幸いです。父は最期まで格好良く色気があっていい男でした。

激動の昭和から現代までを生き抜いてきた人です」とのコメントを発表した。

 

 なかにし氏は1938年、中国・黒龍江省生まれ。大学在学中よりシャンソンの訳詩を

手掛け、「知りたくないの」(1964年)のヒットを機に作詩家となる。

ヒットメーカーとして菅原洋一の「今日でお別れ」(1967年)や、由紀さおりの

「手紙」(1970年)、いしだあゆみの「あなたならどうする」(1970年)、

北原ミレイの「石狩挽歌」(1975年)、黒沢年男の「時には娼婦のように」

(1978年)、細川たかしの「北酒場」(1982年)など約4000曲の作品を創作。

黛ジュンの「天使の誘惑」(1968年)ほかで日本レコード大賞を3回、

同作詩賞を2回、またゴールデンアロー賞など多くの受賞歴がある。

 

 作家活動としては、1998年に小説『兄弟』を発表。明治から昭和初期の長崎の花街を舞台にした『長崎ぶらぶら節』(1999年)で第122回直木賞を受賞した。満州からの引き揚げ体験を描いた『赤い月』(2001年)は100万部に迫るロングセラーになり映画化もされた。著書は他に『てるてる坊主の照子さん』『夜盗』、『さくら伝説』『黄昏に歌え』、『世界は俺が回してる』、『夜の歌』など多くの作品を残した。

 

 なかにし氏は2012年に食道がんが見つかり陽子線治療を受けたが、2015年3月に

食道横のリンパ節に再発した。しかし懸命なる闘病の末、がんの再度克服に成功。

その時の思いは五木ひろしが歌った「VIVA・LA・VIDA!~生きてるっていいね!」(2018年)に綴られた。

「心のこり」や「北酒場」など、なかにし氏の作詞作品を歌ってきた細川たかしは、同曲を作曲した中村泰士氏が12月20日に逝去したことを踏まえて、「またひとり、

昭和の偉人が亡くなってしまい残念でなりません」とコメントした。

「なかにし礼先生の訃報を聞き、またひとり昭和の偉人が亡くなってしまい残念で

なりません。長い間闘病されていたと聞いていたので、今は天国でゆっくりとお休みくださいと祈るばかりです。先生とは私のデビュー曲『心のこり』を作詞していただいたのが最初の出会いでした。『私バカよね おバカさんよね』の冒頭の歌詞が

あまりにインパクトが強く、よくキャンペーンなどで子どもに『あっ、おバカさんが歩いてる』などと言われるほどでした。元々のタイトルが『私バカよね』でしたが、

デビュー曲でこのタイトルは可哀想だと先生が『心のこり』と付けてくれたんです。

その7年後、『北酒場』も先生の作品で私にとっての代表曲です。

先生本当にありがとうございました。心よりご冥福をお祈りしております」

また2020年、デビュー満20周年を迎え、なかにし氏の作詞作品「母」を歌った

氷川きよしは、「信じられない」と話した。

「突然の訃報を聞いて、まだ、信じられない気持ちです。なかにし先生は、すごい

偉い先生なのに、私のような若い人間の話を真剣に聞いてくださり、心を汲んで、『母』という詩を書いてくださいました。今年、こんな大変な世の中で、価値観や

人生観が大きく変わっていく時に、この『母』を歌わせていただくというのは、

自分の根幹、原点を見つめ直すためにも、本当に意味のあることだと思いながら、

今年一年、歌ってきました。本当に偉大な先生でした。なかにし先生からいただいた『櫻』『出発』『母』は、先生からの人生のメッセージです。なかにし先生の魂の

作品をこれからも大切に歌わせていただきます。先生、どうぞ安らかに」

なかにし氏の葬儀については、 故人の遺志により 家族 葬 にて執り行わられる。

新型コロナウイルス感染症の感染状況を見極めながら、後日、「お別れの会」が

行われる。

 

曲名を見ただけで、どんなに凄い作詞だったが分かります。

作家、作詞家やコメンテーターで活躍していたのが知っていたんですが、

まさか兄に、お金のことで悩まされていたとは知りませんでした。

「山あり、谷あり、難破しかけた時もあった」と、本当に悩まされえて、

乗り越えてこられたんだと分かりました プンプン おばあちゃん パンチ!パンチ!

 

 

なかにし礼が死去。家族の支えと心筋梗塞、食道がん闘病。嫁・石田ゆりのうつ病    

 

戦後の日本歌謡界を代表する作詞家であり、直木賞作家でもあるなかにし礼さん。

近年は二度もがんから生還し、仕事には復帰していましたが、2020年12月23日に

心筋梗塞のため東京都内で逝去されました。

これまでの闘病、そしてそれを支えた家族にも注目。

息子や娘、嫁の石田ゆりさん、孫について紹介します。

なかにし礼が逝去

1938年9月2日生まれで2020年は82歳を迎えた、なかにし礼さん。

しかし同年12月23日に心筋梗塞が死因となり、逝去されました。

2015年10月当初、担当の医師から、がんは完全に克服したと太鼓判を押された

なかにし礼さん。心筋梗塞への対処は行なっており、2016年4月に突然死を回避するための手術を受けていたことがわかりました。

心臓の能力が健常者の約半分しかなかったというなかにし礼さん。

それまでは、心室細動の再発による突然死の恐怖と常に隣り合わせの状態でした。

体調も、再発時の抗がん剤治療で衰弱はしたものの、回復していたとのこと。

腫瘍マーカーも正常値以下だったそうです。

2019年3月には日本オペラ協会創立60周年記念公演としてオペラ『静と義経』を

新制作、上演。

6月にはエッセイ『わが人生に悔いなし 時代の証言者として』を出版しました。

食道がんに打ち克った時に最初に考えたのは、やり残したことがあるのではないかということだったそうです。戦争体験や兄との愛憎などの壮絶な過去を経て、

二度もがんから生還したなかにし礼さん。今では想像もつかないような実体験から数々の作品が誕生しているのかもしれませんね。

なかにし礼さんは、若い頃から心臓疾患を繰り返しており、心室細動を原因とする

心筋梗塞で緊急入院した経験の持ち主。

もともと心臓の能力が健常者の約半分しかなかったそうです。

以降は2ケ月に一度の定期検査を続けてきました。

2016年4月には、致死性不整脈を感知して治療する植え込み型除細動器(ICD)や

心臓ペースメーカーを体内に埋め込んだようです。

不整脈は心臓突然死の最大の原因といわれていますから、突然死の恐怖が消え、

大きなストレスから解放されたことになりますね。

脈拍データは機器を通じて心臓血管研究所に毎日届けられているとのことで、

何ものにも代えがたい安心感があったことでしょう。

結果はずっと異常なしで、2020年までは治療もしておらず、元気だった頃と

ほぼ変わらない日常生活を送っていたそうです。にもかかわらず、容体は急変。

2020年12月に82歳で逝去された、なかにし礼さん。

最後まで創作活動への意欲は全く衰えていないとの発言をしていました。

2019年3月には、台本を手がけたオペラ『静と義経』が上演されたほか、

6月にもエッセイ『わが人生に悔いなし 時代の証言者として』を出版しています。 

なかにし礼の食道がんとの闘病

2012年3月5日、コメンテーターを務めるワイドショーで食道がんであることを

公表し、すべての仕事をキャンセルして闘病生活に入ったなかにし礼さん。

すでにステージⅢだったそうです。

医師からは抗がん剤治療、放射線治療、手術という提案がありましたが、

心臓に不安を抱えていたなかにし礼さんは、先進医療の陽子線治療を選択。

がん患者の誰もが受けられる治療法ではありませんが、陽子線治療が実って

がんを克服しました。

同年10月に復帰し、執筆やコメンテーターの仕事も再開。

その後も3ケ月おきに検診を受けていましたが、2015年2月に食道のリンパ節に再発。

陽子線治療は使えませんでした。

がんが前回陽子線を当てた付近にあり、気管支に密着していたため、そこに再び

陽子線治療を施すと、気管支に穴が開いてしまう可能性があったそうです。

なかにし礼さんは、手術中に心臓が止まったらもはやしかたがないという覚悟で

手術に臨み、その後抗がん剤治療を受けることに。

9月には再発がんが消えたことを発表し、テレビ出演などの活動も再開していました。

『闘う力 再発がんに克つ』は、八方ふさがりのなかでの手術の選択や

心境の変化などを記したリアルな闘病ノンフィクションです。

なかにし礼の嫁・石田ゆりはいしだあゆみの妹

前述した通り、なかにし礼さんには二度の結婚歴があります。

立教大学在学中から手がけていたシャンソンの訳詞から、歌謡曲の作詞に活動の場を広げたきっかけが、最初の嫁との新婚旅行中に出会った石原裕次郎さんでした。

シャンソンの訳詞ではなく、日本の歌の詞を書くように勧められたのです。

その後なかにし礼さんは、それぞれの時代を代表するヒット曲の作詞で一世を風靡。

ザ・タイガースの「花の首飾り」、ザ・ピーナッツの「恋のフーガ」、アン・ルイスさんの「グッド・バイ・マイ・ラブ」、細川たかしさんの「北酒場」、北島三郎さんの「まつり」など、グループサウンズから演歌まで、そのレパートリーの広さには

驚かされますね。

1971年10月16日に再婚した石田ゆりさんは、本名を中西由利子さんといい、

いしだあゆみさんの妹です。


なかにし礼さん原作のNHK朝ドラマ『てるてる家族』の主人公・冬子は、

石田ゆりさんがモデルとのこと。

石田ゆりさんは宝塚音楽学校を卒業後、「名月ゆり」という芸名が決まっていたにもかかわらず、入団を辞退。歌手としてデビューしました。

当時、姉のいしだあゆみさんの「ブルーライトヨコハマ」が大ヒットしていた

影響があったのかもしれません。宝塚音楽学校で同期だった小柳ルミ子さんも

宝塚には入団せず、歌手デビューしていますね。

石田ゆりさんは「悲しみのアリア」などのシングル4枚とアルバム2枚をリリース

しましたが、残念ながらヒット曲には恵まれず、全シングルの作詞を担当した

なかにし礼さんと19歳で結婚。その後は、ドラマ『ムー一族』などに出演

しましたが、以降はほとんどメディアには登場していません。

なかにし礼の嫁・石田ゆりがうつ病に

生きようという気持ちを持つ一方で、死の準備もしていたというなかにし礼さん。

翌年の桜はたぶん拝めないだろうという状況での闘病生活は、家族の心にも

大きなダメージを与えました。後年、なかにし礼さんは週刊誌のインタビューで、

嫁の石田ゆりさんがうつ病を患っていたことを告白。

毎日病院に通い、献身的に看病を続けてきた石田ゆりさんは、

いつしか食事が食べられなくなり、夜も眠れなくなっていたようです。
入院していた病院には精神腫瘍科があったため、受診を勧め、

処方された薬を試したところ、体調は日に日に回復。

 

なかにし礼さんは二度目のがん闘病で、嫁への思いや愛に改めて気づいたと

話しています。同時に、子供たちがいかに自分のことを大事に思ってくれているかを身にしみて感じたそうです。

がんとの闘いは、家族に対する新たな気づきをもたらしてくれたようですね。

時代を超えて愛されるヒット曲の歌詞を手がけてきたなかにし礼さん。もの書きと

しては、命のある限り創作活動を続けたいと思っていたのではないでしょうか。

なかにし礼の闘病を支えた家族

二度目のがん治療では、手術を選択したなかにし礼さん。しかし、がんを取り除く

ことはできませんでした。がんは気管支に密着しており、無理に取り除こうとすると気管支の壁が損傷する危険性があったからです。

がんが気管支を突き破る穿破が起きると、最悪の場合ほとんど即死、よくても数日

しか命がもたなくなり、しかも、穿破は手術した夜に起きる可能性が高いのだそう。

なかにし礼さんは、いつそうなってもおかしくない状態でした。手術後に、この話を聞いた娘・夏奈子さんは、失神してソファに倒れ込んだそうです。幸いにもその夜に穿破は起きなかったものの、恐怖はずっとつきまとったことでしょう。

 

 

兄との絶縁、そしてがん…なかにし礼さんの闘い続けた生涯

記事投稿日:2021/01/09 19:30  『女性自身』編集部

 

12月23日に亡くなった、作詞家で作家のなかにし礼さん(享年82)。

その悲しみは、今も広がっている。

 

68年の黛ジュン「天使の誘惑」や82年の細川たかし「北酒場」といった楽曲が

レコード大賞を受賞したなかにしさん。昨年にリリースされた氷川きよしの「母」も手がけており、最後まで作詞家人生を貫いた。その偉大さを讃えるため、1月6日の「伊集院光とらじおと」(TBSラジオ系)を筆頭に、ラジオでは追悼コーナーを

設ける番組が放送されたのだった。

 

大ヒット曲を連発したなかにしさんの人生は、順風満帆に見えた。しかし、実際は波乱万丈そのものだった。なかにしさんは本誌で、2つの闘いについて明かしていた。

 

■4億円の負債と2億円の借金を兄に被せられ絶縁

 

まず1つ目は、実の兄だ。98年6月、なかにしさんは本誌で兄との日々を回想している。「ずるくて、強欲で、無責任でどうしようもないところのある兄貴でした」

 

なかにしさん兄弟は、旧満州で1、2を争うほど裕福な家庭で育ったという。

兄はその跡取り息子として育ったが、戦争で学徒出陣。旧満州が瓦解すると、

家族は財産をすべて失った。父はソ連軍に連行され、なかにしさんは街頭に立ち

タバコを売るなどして日々をしのいだ。

戦争が終わると、兄は家族の元に戻った。しかし一攫千金の夢に取り憑かれ、

博打のようにコロコロと稼業を変えたという。

「兄貴は、押出しのある雰囲気でしたから、金のありそうな人のところに行って

『一緒に仕事をやろう』と持ちかけると、相手は信用する。それで、兄貴は社長に

なって、相手が工面した金を使ってしまい、会社が潰れる。その繰り返しですよ」

 

のちになかにしさんが作詞家として活躍すると、兄は大量のお金を無心しては豪遊。それだけでなくなかにしさんの印税を自らの口座に振り込まれるよう勝手に変更し、なかにしさんに生命保険までかけていた。さらに経営に失敗して作った4億円もの

負債と2億円の個人的な借金をなかにしさんに被せると、行方をくらませた。

 

なかにしさんが必死に作詞をし続け生活を立て直すなか、兄は突然戻ってきた。

しかし、今度はクラブの女性に入れあげ2000万円もの借金をしていると発覚。

これまで「兄弟が諍いを起こすと母が悲しむ」という思いで必死に耐えてきた

なかにしさんだったが、ついに絶縁を言い渡した。その16年後、兄が亡くなったと

耳にした時は思わず「ばんざい!」とつぶやいたという。

 

上記を読むと、大谷選手と元通訳の水原さんのことを思い出しました プンプン パンチ!パンチ!

 

兄との絶縁、そしてがん…なかにし礼さんの闘い続けた生涯

             なかにしさんの人生は

 

そして2つ目が、“がん”だ。12年にも食道がんを発症したなかにしさんは15年2月、リンパ節にがんが見つかった。本誌16年5月3日号では、その闘病生活について

以下のように語っている。

 

2度目のがんで、長時間にわたる手術を経験したなかにしさん。しかし、がんを取り

除くことはできなかった。さらにがんが成長し、気管支を突き破る可能性も残って

いたという。「『いつ暴発するとも知れないピストルを頭に突き付けられた状態』で日々を過ごすことになった。先生からは繰り返し『1日1日を大切にしてください』『週単位で人生を考えてください』と言われるし、本当に怖くて」

「自分の密葬やお別れの会の段取りをしたり、戒名を考えたり……」

 

死を覚悟するほどのがん闘病。その影響で、なかにしさんの妻である由利子さんは

うつ状態になってしまったという。そして、なかにしさんは闘病しながら由利子さんの精神面も支えることとなった。

 

がんを切除できないまま退院したなかにしさんは、抗がん剤による治療を始めた。4回にわたる投与、そして12回もの陽子線治療ーー。すると奇跡的に治まったという。

 

■僕は「書くこと」にしか興味がないですから

 

なかにしさんは「1度目のがんとの闘いは、わかりやすく言うと『女房とともに闘い、勝利した』という感じだったけれど、今度の治療はもっと孤独なわけ」といい、

こう続けていた。「がんと闘いながら思ったのは『僕がいなくなったら女房は

大変だ』ということが、ものすごく如実にわかったということ。つまり彼女への

思いや “愛” がわかった」「これからは、女房をより大事にして生きていかなければ

いけないと思うし、もの書きとしては、命のある限り書き続けていきたい。

僕は『書くこと』にしか興味がないですから」

 

苦しい闘いを乗り越えてきたなかにしさん。

今は、安らかな気持ちで眠っていることだろう。

【補足】

 いつ穿破が起きるか本当に怖くて……。毎晩、女房と『きょうも終わった』

『よかったね』と言って、夜中に何も起きませんようにとハイタッチして床に就き

ましたが、僕は『たぶん桜の花は見られないだろうな……』と思っていました」

 「彼女は『僕あっての人生』で、口には出さなかったけれど、僕がいなくなったら『自分はどうなるんだろう……』と、さぞかし不安だったはずです。

そのストレスからでしょう。いつも明るい彼女がだんだん暗くなって、

やせていった。心配で食べられない、眠れないということで。それでも彼女は、

僕が入院している間、毎日通ってくれた。僕が気に入っている店の弁当を持って」

 死を覚悟するほどのがん闘病。それは周りの家族の心にも大きな影響を

与えていたのだ。

 「彼女はうつ状態になっている――と感じた僕は『精神腫瘍科に行って相談してきなさい』と。入院していた病院には、精神的に苦しんでいるがん患者や、看病する家族の精神面を医学的に支える『精神腫瘍科』があったので。そこへ行かせて、処方してもらった薬を飲んだら食欲も睡眠も回復して、彼女は日に日に元気になりました」

 2度目のがん闘病は、なかにしさんに新たな気づきを与えた。それは――。

 「がんと闘いながら思ったのは『僕がいなくなったら女房は大変だ』ということが、ものすごく如実にわかったということ。つまり彼女への思いや“愛”がわかった。子供たちに対しても同じことが言えるけれど。同時に、女房と子供たちがいかに

僕のことを愛しているか、大事に思っているかということを痛感したことも確かです。それだけに、これからは女房をより大事にして生きていかなければいけないと

思うし、もの書きとしては、命のある限り書き続けていきたい。

僕は『書くこと』にしか興味がないですから」【女性自身】

 

なかにし礼さんは、病気との闘いだったんですね。

何回も死を覚悟したのを知りました。そして、奥さんも心労がたたり?

うつ病になったり。直って良かったですが・・・パンチ!パンチ!

息子さんが、この時の記憶があまりないと書かれていましたが・・・汗うさぎ パンチ!パンチ!

 

最後まで諦めずに闘ったなかにし礼さんは、凄いとしか言いようがないです びっくり

苦しまずに亡くなられたのは、残された遺族にとっても良かったですが パンチ!パンチ! 星

天国で筒美京平さんや中村泰士さん達と、仲良くしていますか?

何も心配することなく、楽しく過ごして下さい 笑ううさぎ 虹

 

ご冥福をお祈りいたします。

 

 

息子だけが知っている なかにし礼、最期の闘い/上

 

『愛は魂の奇蹟的行為である』表紙

 

『愛は魂の奇蹟的行為である』表紙

平和をおびやかす権力者に抵抗する

 日本中に悲しみをもたらした、なかにし礼さんの死から3カ月。小社からは遺稿集『愛は魂の奇蹟的行為である』が刊行された。病と闘い、平和を侵す勢力に立ち向

かったなかにしさんの晩年を、最も身近に接してきた子息の音楽プロデューサー・

中西康夫氏が、万感の思いで綴る―。

病気に立ち向かう

 父が死んだ。病気には苦しめられた人だったが、そのたびに何度でも帰ってきたので、今回もギリギリまでいって帰ってくると思っていた。でも、そうではなかった。死の到来はあっという間だったし、なんだか感情をふるわせるいとまもなかった。

 

 亡くなる前日の昼過ぎ、家族で急いで来るように、病院から呼ばれた。それまでにも危ない場面は何度もあったそうなのだが、今回は初めての家族招集。いよいよ

かな?とも思ったが、どこかに、それでも帰ってくるからこの人は凄(すご)

よなぁ……という気持ちもある。説明のつかない心持ちで病院へ向かう。

集中治療室に着くと、父は寝ているようにしか見えない。脈と血圧が相当下がった

らしく、それで私たちは呼ばれたのだが、家族が来たら持ち直したという。

意識がないように見えても、ちゃんとわかっているのだろう。

担当医から、もってあと数日ではないかと説明を受け、家族は絶望的になっていた。私はどうもそうは思えない。今回も、こちらが諦めた頃に復活するのだろうという

気がしていた。

 

 コロナ禍なので集中治療室での面会は基本的にはNGなのだが、特別に一人ずつの入室を許可してもらい、父と対面した。何も話をしない父。こちらが話しかけても反応もしない父。いつも強くシャキッとしている父が、苦しみながら病気と必死に闘っていた。応援することくらいしかできない自分の無力が悲しい。担当医の説明では

今夜は大丈夫だろうとのことだったので、帰途についた。コロナ禍でなければ病院に

いてくれと言われたのかもしれないが、とにかく一度帰宅だ。

 

 家に着いた頃に妹からメールが来る。「今日お父さんと会えて整理がつきました」。妹は諦めたのか。だけど整理ってなんだろう。父の命の火は消え入りそうに

なりつつもまだ灯(とも)っているわけだし、整理するとかしないとかいう話では

ないと思うのだが。ちなみに、整理という意味では、私はまだついていない。

この文章を書きながら、そのことを感じている。

 

 去年の11月14日に私の車で父を病院に連れていった際、今まで一度も見たことが

ないほど弱った姿だったから、ある覚悟のようなものがあったのは確かだ。だが、

妙な話だが、父が死ぬことを受け入れ、気持ちの整理がつくのは、きっと父の死後

かなりの時間がかかるものだろうという、先を見透すような思いにも同時にとらわれていた。そして、家族がそんなことを考えていても、最後には帰ってくるのが父だとも思っていた。

 

これが今生の別れになるかもしれない

父は2012年に食道ガンになった。それがわかった日、私は仕事で大阪にいたので電話で告げられたのだが、元気そうな声と前向きな話ばかりだったので、特に大事だとも思わずにいた。だが、後日発刊された本を読み、父が内心では絶望的になっていた

ことを知った。持ち前の探究心で自分に合った治療法を探し続けた父は陽子線治療と出会い、寛解して無事に帰ってきた。だがこの時の記憶はあまりない。「子供たちに心配させても治るわけじゃない」といつも言っていたので、詳しい病状をあまり

教えてくれなかったし、聞いても先進医療について知見がなかったので、ピンとこなかった。ステージ3か4の間だったとか、心臓に負担がかかるから手術はできない

ので違う方法で治療するといった話をチラチラ聞く程度で、差し迫った病状だった

ことは後から知ったのだった。

 

 再び食道ガンに侵されたのは2015年。お酒も控え、無理をしない生活で節制して

いた父は、再発した時はかなりショックだったようだ。一度目と違い、陽子線はもう使用できない(同じ場所には照射できる回数が決まっているそうだ)。

心臓に重い持病を持つ父が手術を受けることは、かなりの覚悟がいったことだろう。それは手術が決まった際に携帯のメール履歴などをすべて消したことからもわかる。手術当日も、二人きりになった時、いままでまったく知らなかった話を聞かされた。この手術ですべてが終わってしまう、そんな空気が漂う手術前の時間だった。

 父は手術室に徒歩で向かっていく。家族は笑顔で見送った。「いってらっしゃい」。私はその一言だけを言い、手を振った。手を振り返し踵(きびす)を返して

手術室へ入っていく父。あの後ろ姿は忘れられない。これが今生の別れになるかも

しれないと私も思っていたからだ。

 予定の時間を過ぎても手術はまったく終わる様子がない。こちらが不安を感じ始めたその時、医師から別室に呼び出された。

 ガンを取り除けない、気管にガン細胞がべったりと張り付いていて、これを取ると気管を傷つける。気管を傷つけたら一巻の終わりだ。これほどまでに気管に張り付いていたとは思わなかった――手術を成功させる自信があったという医師は、憔悴(しょうすい)して肩を落としている。どうするべきか家族の意思を確かめに来たのだ。このままガン細胞を取り除くのを諦めるか、それとも無理やり剝がしにいくのか。私は、とにかく生きて戻してほしいと医師にお願いした。無理やりガンを気管から剝がし、失敗して死んでしまうよりも、あと数日でも生きていてほしいと思ったからだ。医師はこのまま戻したとしてもガン細胞が侵食して気管を穿破(せんぱ)してしまうだろうと言った。もって2週間だ、と。それでも今死んでしまうよりはいい。

「平和の語り部」としての存在意義

 父は2週間の命をもらって帰ってきた。そこから父は、2週間を使って動いた。

穿破はいつ起きるかわからない。いつ爆発するかわからない爆弾を抱えているようなものだ。それでも座してその時を待たずに行動する父は、やはり普通の人ではなかった。いつその時が来てもいいように、葬儀の段取りからお別れの会の葬儀委員長の

お願いまで済ませた。そして追悼盤のような『なかにし礼と75人の名歌手たち』というCDを作ることにした。リリースの時は死んでいるという前提だ。

こんなことまで考える人はあまりいないだろう。父は自分の最後の時間を

プロデュースしようとしていたのである。

 だからといって死を待っているわけではない。効いたら御の字という気持ちで

抗ガン剤治療を行った。医師も一日でも長く生きてもらうために抗ガン剤を勧めた。父のまわりの誰もが、一日単位の命を考えて時を過ごしていた。私も父と会う度に「これが最後だ」と思って別れていた。

 ダメ元で始めた抗ガン剤が奇跡的に効いてガン細胞が縮み始めた。穿破の心配は

まだあるが、ひょっとしたらもっと生きられるかもしれないという希望が出てきた。すると父は、なんと連載小説を書きたいと言い出した。余命2週間だった人が連載小説? 普通では考えられない話だ。どういう見通しなのか、『サンデー毎日』編集部もOKしたという。「途中で死んだら?」「『それも文学的でいいじゃないですか』と担当編集者に言われた」と父は笑いながら話していた。

 それが父の最後の小説『夜の歌』だ。今では大作として普通に出版されているが、連載開始の時点では私も最後まで書き切ることができるとは思っていなかった。

抗ガン剤が効いたことはもちろんだが、この自伝的な連載小説を完成させるべく創作の炎を燃やし、自らの軌跡を時代のなかで見つめ直しながら書いていくという行為によって、ガン細胞を弱らせたのだと私は信じている。おかげで2週間の命がその後、5年もったのだ。「穿破の心配はもうありません」と言われた時の父のドヤ顔が忘れられない。あとは弱ったガン細胞をあらゆる手を使って叩(たた)いて消し去った。父の恩師でもある元ポリドールのディレクター松村慶子さんに父の病状を報告した時に言われた、「大丈夫! 礼ちゃんは不死鳥だから!」という言葉通りだと思った。結局その後ガンの再発はなかったわけだから、父は完全にガンに打ち勝ったと言えるだろう。

 病を得てからの父は、それまでとは別の貌(かお)を見せるようになった。新聞、テレビ、ラジオで、また講演で、対談で、平和の大切さを語り、憲法をないがしろにして戦争への道を開きかねない政治に強い口調で異を唱えるようになったのだ。

今度、毎日新聞出版から、父の晩年のエッセイや詩を集めた遺稿集『愛は魂の奇蹟的行為である』が刊行されたのだが、その巻末の「紙上お別れ会」で、保阪正康さん、

青木理さん、伊藤彰彦さんをはじめとする方々が、「平和の語り部」としての父の

存在意義をそれぞれの視点で書いてくださって、私も様々なことを教えられた。

息子から見ると、父が戦争体験と平和へのメッセージをあそこまで意識的に語る

ようになったことには、三つのことが関係しているように思う。

すべての戦争犠牲者を自分に重ねる

 一つは、これまでの戦後日本の常識を踏まえた自民党政権とは異質な安倍政権が

できて、好戦的で独裁的とも言える政治を行うようになったこと。安倍政権の下での社会の空気に、父が強い危機感を抱いたのは間違いないと思う。そして、自分の死が遠くないことを悟った父が、命というかけがえのないものと向き合い、いま発言すべき本音を語ろうと考えたこと。もう一つは、『夜の歌』執筆にあたり、自らの筆舌に尽くしがたい戦争体験、引き揚げ体験を仔細(しさい)に振り返り、人間が人間で

なくなる戦争というものの恐ろしさを再認識したこと。

『夜の歌』の終章に、父が、満州から引き揚げて初めて日本の土を踏んだ子供の頃の自分自身と対面する場面がある。父は自分のことを「少年」と客観的に呼び、戦争体験者全員とつながり合うようなイメージで描いていくのだ。《私はどっと涙を流して泣いた。少年も泣いた。たまりにたまっていた涙がとめどなく流れた。

 大陸で死んでいった大勢の子供たち。また大地の子として生きざるを得なかった

子供たち。広島で長崎で、原爆の子として生きた孤児たち。あの戦争で死んでいったすべての子供たちを、私は涙とともに抱きしめた》(『夜の歌』)

 平和が踏みにじられようとしているこの時代に「平和の申し子たちへ―泣きながら抵抗を始めよう」と呼びかけた父の真意は、ここにあるような気がする。父は、命からがら引き揚げてきた少年の日の自分を涙とともに抱きしめ、そこにすべての戦争の犠牲者を重ね合わせた。そのことを人間的な原点として、平和をおびやかそうとする動きへの怒りを新たにしたのではないだろうか。(以下次号)

(音楽プロデューサー・中西康夫)

 

 

伊勢物語のあらすじ

 

18 白菊


むかしなま心ある女ありけり男とかういひけり女うたよむ人なりけれはこゝろ

みむとて菊のはなのうつろへるを折りておとこのもとへやる

 

 紅にゝほふはいつらしら雪の枝もとをゝにふるかとも見ゆ

 

おとこしらすよみによみける
 紅にゝほふかうへのしら雪はをりける人の袖かとそ見る

 

 

現代語訳
昔、半端な風流心を持った女がいた。男は女の近くに住んでいた。

その女は歌を詠む人だったので、男の心を試してみようと思い、

盛りを過ぎた菊の花びらの色は、白から紅や紫に変わり、その微妙な差を賞翫した。が変わっているのを折って、男の所におくる。

 

紅色が美しいところとは一体どこなのかしら
白雪が枝もたわわになるほどに、降っているのかとも見えますが

 

 

男は、素知らぬふりをして詠んだ。
   紅ににほふがうへの白菊は 
   折りける人の袖かとも見ゆ 


    紅色に美しい上に真っ白な白菊は
    
これを折って下さった美しい方の袖の色かとも見えますが

 

 

いつもありがとうございます。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました 愛飛び出すハート

 

 

感想
白菊の香りにまたふわふわするようなあたかも雪のようだ
しかしその中は紅がさしている。