前田武彦さん死去 ゲバゲバ90分、夜ヒットなどで司会 | poohta8のブログ

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  [ 2011年8月5日 18:04 ] スポニチ

死去した前田武彦さん

 

 テレビ草創期から放送作家として活躍、司会者としても知られたタレントの前田武彦(まえだ・たけひこ)さんが5日午前11時16分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。82歳。東京都出身。葬儀は近親者のみで行い、お別れの会を後日開く予定。

 

 テレビ放送が始まった1953年、NHKの子ども番組でテレビ脚本を担当、

放送作家に。日本テレビ系の「シャボン玉ホリデー」なども手掛けた。
出演する側に転じ、司会者として、コント55号が出演したバラエティー番組

「お昼のゴールデンショー」や、芳村真理さんと組んだ音楽番組「夜のヒット

スタジオ」が人気に。大橋巨泉さんとの「巨泉・前武ゲバゲバ90分!」では

高視聴率を記録し、テレビの黄金時代を築いた。「笑点」の2代目の司会も務めた。

 毒気を含んだ話術で「マエタケ」の愛称で親しまれた。青島幸男さん、

永六輔さん、大橋さんらと並ぶ放送作家出身のタレントとして活躍した。
73年、当選した参院選の共産党候補に向けて生放送中に万歳のポーズをした

ことに批判が集中。一時は一線を退いたが、俳優として映画「男はつらいよ」や

「釣りバカ日誌」に出演するなどの活動を続けた。

 

 

前田武彦、笑点と夜ヒットの司会。バンザイ事件の真相。

家族に囲まれ死去 

 

司会者・放送作家として昭和のテレビやラジオ業界に貢献した前田武彦さん。

アニメ『エイトマン』の主題歌の作詞も手がけており、マルチタレントとして

活躍しました。

今回は、前田さんの「笑点」と「夜ヒット」の司会者としての活動に焦点を当て、

後者におけるバンザイ事件の真相を確認します。

また2011年、家族に囲まれて死去した際の様子にも迫りましょう。

前田武彦のプロフィール

愛称: マエタケ 本名: 前田武彦

生年月日: 1929年4月3日 死没: 2011年8月5日

出身地:東京府東京市芝 (東京都港区)

最終学歴:立教大学経済学部中退

 

前田さんといえば、おなじみのテーマ曲「笑点のテーマ」に歌詞を

つけたことでも知られていますね。

 

 

 彼が司会者を務めていたのは、1969年11月9日放送回から翌年の12月13日放送回まででした。前司会者・立川談志さんが降板する際、前田さんを推薦したそうです。

しかし前田さんは落語家ではなかったため、大喜利メンバーたちとは相容れなかったといいます。さらに打ち合わせの際は、寝そべりながら話を聞いていたそうで、

自分だけが特権階級気取りだったようです。

 

 林家木久扇さんは、「歴代司会者の中で前田さんがもっともやりづらかった」と、付き合いにくい彼の人柄について吐露。さらにハワイロケの際は、大喜利メンバーがエコノミーなのに対して、司会者のみファーストクラスだったそうです。

前田さんは大喜利メンバーを、内心で見下していたようですね。

さらに彼は番組から演芸色を排除し、自分が司会しやすいようにバラエティ色を

強めていきます。メンバーが色とりどりの着物をまとうようになったのも、

彼が司会を務めていた時期からの演出だそうです。

前田さんは、およそ1年間、司会者を務めた末に降板。

理由はスケジュールの都合とも、メンバーと折り合いが悪かったためとも言われています。真相は不明ですが、少なくとも彼とメンバーの仲が悪かったことは事実。

メンバーたちは前田さんの降板に、さながら嫌な上司の転勤が決まった

サラリーマンのような気持ちで、心から安堵したのでしょう。

 

打ち合わせの際は、寝そべりながら話を聞いていたとありますが、

あれは、あの姉妹がそうさせたんです 物申す おばあちゃん パンチ!パンチ!

そして、昨夜の菅野美穂さん夫妻はエコノミーでした。真逆ですね パンチ!パンチ!

​​​​​

夜ヒットの司会はバンザイ事件で降板

 前田さんは、通称「夜ヒット」として知られる、「夜のヒットスタジオ」の

人気司会者でした。

1968年開始の同番組では、「マエタケ」という愛称で親しまれましたね。

彼は自称「あだ名の名人」で、一緒に司会を担当した芳村真理さんやゲストたちに、多くのあだ名をつけたことでも知られています。毎回飛び出すユニークなあだ名や、台本を無視した軽妙なトークが、彼の人気を高めていきました。しかしやや過激な

発言も多く、若手女性歌手を泣かせることもありました。彼の不用意な発言を、

必死に芳村さんが火消ししようとする場面も度々あったようですね。

 

 徐々に前田さんのアンチ層が増えていた1973年、いわゆる「バンザイ事件」が

起きます。当時の前田さんは、共産党の宮本顕治書記長から、司会やパネラーなどの仕事を依頼されていました。共産党からは、満足できる程度のギャラをもらえる為、深く考えずに一種の仕事として依頼を引き受けていたのです。

そして共産党は、参議院選の大阪選挙区からの候補者・沓脱タケ子(くつぬぎ たけこ)さんの応援演説を依頼。前田さんはここで、沓脱さんが当選した場合、

翌日に生放送される夜ヒットの中でバンザイをすると約束しました。

そして1973年6月18日、彼女は見事当選。前田さんは番組中、約束をすっかり

忘れていましたが、エンディング中にふと思い出したといいます。

マイクも生きていない状況の中、「とりあえずやっておこう」と考えたそうです。

そしてゲストの「東京ロマンチカ」の三條正人さんに対して、「三条君、お疲れ。

バンザーイ」とバンザイを行いました。

三条さんは意味がわからないまま、つられてバンザイしたといいます。

 

 前田さんとしては軽い口約束を果たしてあげただけで、とくに政治的な意図は

持っていなかったのでしょう。しかしフジサンケイグループのオーナーだった、

反共右派の鹿内信隆さんが真相を知って激怒。

彼は「ゴールデン洋画劇場」から、映画解説者だった前田さんを降板させます。

実家で「ゴールデン洋画劇場」の音楽LPというのが発見したので、

アップ。サントラではないですが、当時は貴重でした。

最初の解説者は前田武彦さんだったんだ! pic.twitter.com/5vky3P11i0

— スライ ヤスシ (@slyrebelcat) August 14, 2020

 

 さらに1973年9月24日放送回を最後に、5年間司会を担当してきた夜ヒットからも降板させてしまいます。前田さんは、他にも担当番組すべてを解任させられました。

相手役の芳村さんも、一時降板して連帯責任を取ります。

人気番組だった夜ヒットは、ゲスト自ら司会を交替で担当するという

迷走期間を迎えます。この体制は、74年に芳村さんが復帰するまで続きました。

前田さんは、このとき初めて、軽い気持ちでの発言が命取りになり得ることを

痛感したのでしょう。

 

芳村真理さんは、夜ヒットでマエタケさんの失言を火消していたと言われていますが、本当は、あの三女が憑依して言わされていたんです プンプン パンチ!

 

前田武彦は、家族に囲まれて死去

 バンザイ事件により、レギュラー番組降板という憂き目にあった前田さん。

しかし1980年代以降、「朝のホットライン」や、映画「釣りバカ日誌」シリーズへ

出演し始め、徐々に仕事を増やしていきます。

何とか名誉回復した彼は、2000年代に入ってからもテレビやラジオに出演。

2011年8月5日、82歳で亡くなるまで現役で活動しました。

最後の仕事は、同年7月16日放送のTBSラジオ「土曜ワイドラジオTOKYO 

永六輔その新世界」だったといいます。

仕事人間のイメージが強い前田さんですが、生前は意外にも家族を優先させて

いたそうです。会社員の長男・塁さんによると、色々な場所へ連れて行ってくれる

良き父だったといいます。

司会者としてはブラックジョークの多い毒舌家でしたが、家庭では塁さんや

妻・嘉子さんを思いやる優しい人だったようです。

2011年7月28日に入院した際は、翌日が結婚記念日だったといいます。


妻との外食を楽しみにしていたようですが、容体が悪化し、

肺炎により帰らぬ人となりました。

かつてはバンザイ事件でタレント生命が危ぶまれたものの、

見事に復帰した前田さん。

最期は家族に看取られて、結果的には幸せな生涯だったといえるでしょう。

 

 

前田武彦さん死去「悔いのない人生」と長男

 

 「ゲバゲバ90分!」「夜のヒットスタジオ」などバラエティー番組や歌番組の軽妙な司会で、「マエタケ」の愛称で人気を集めたタレント前田武彦(まえだ・たけひこ)さんが、5日午前11時16分、肺炎ため都内の病院で亡くなった。82歳だった。

約5年前に大腸がんの手術を受けて回復。7月中旬までラジオにも出演していたが、体調悪化のため同月28日から入院していた。葬儀は近親者で執り行う。

後日、お別れ会を開く予定。

 

 関係者によると、前田さんは約5年前に大腸がんと診断されたが、手術は成功し、その後は普通に生活していたという。腸閉塞(へいそく)気味の症状が続いていたものの便通は良く、約20年前から糖尿病も患っていたが、1人で歩いて、食事も普通にとっていた。しかし、7月28日朝に脱水症状からショック状態となり緊急入院。

治療と検査で、ほかの臓器も弱っていることが分かり、直後に意識を失い、

その状態が続いていた。この日朝に容体が急変し、妻の嘉子さん(83)

家族にみとられて息を引き取った。

 

 都内の自宅前で会見した長男塁さん(52)は「入院した7月28日は、両親の

59回目の結婚記念日で、前日は『明日、何を食べに行こうか』と話していました。

こんなに悪くなるとは思っていなかったのですが、集中治療室(ICU)に入って

『俺だよ』と声を掛けたら『あー』と力なく声を出してすぐ意識をなくしました。昔、忙しかった時も家族の時間を大切にして、いろいろな所に連れて行って

くれました。悔いのない人生を送れたと思います」と話した。

 

 前田さんは、60年代後半から70年代にかけてテレビの顔だった。放送作家として

53年にNHK「こどもの時間」の脚本を書き始め、日本テレビ系「シャボン玉ホリデー」では故青島幸男さんとともに活躍。ラジオ番組「東芝ヒットパレード」などの

パーソナリティーも務めたことから、タレントとしての活動を始めた。

 

 68年にフジテレビ系歌番組「夜のヒットスタジオ」で芳村真理と司会を務め、

個性的な司会が人気を呼び「マエタケ」の愛称で親しまれた。毒気を含んだ話術で

若手女性歌手を泣かせることも多かった。69年から放送の日本テレビ系「巨泉・前武のゲバゲバ90分!」では、当時人気を二分した大橋巨泉と組んで高視聴率を記録。

フジテレビ系「ゴールデン洋画劇場」の初代映画解説者となり、日本テレビ系

「笑点」でも立川談志の後を受けて2代目司会を1年間務めた。

しかし、台本を無視した「フリートーク」「楽屋落ち」という当時は、斬新な手法を取り入れたトークの面白さの一方で、毒舌が物議を醸すこともあった。

 

 73年に「夜のヒット-」生放送中、選挙に当選した共産党候補者に向けて「バン

ザイ」と叫んで、当時のフジテレビオーナーの怒りを買い、司会を降板させられた。

その影響で一時期、番組を相次いで降板するなどテレビ界から干された。

90年代にはTBS系「朝のホットライン」のお天気キャスターや俳優として映画

「男はつらいよ」「釣りバカ日誌」シリーズに出演した。晩年は旧知の永六輔さんのラジオ番組に度々出演し、入院直前の7月16日放送のTBS「土曜ワイドラジオ

TOKYO永六輔その新世界」が最後の出演となった。

 

落語家の小さん師匠も昨夜に、「明日、おいなりさん食べたい」と言っていたと。

それと同じで、前日「明日、何を食べに行こうか」と言っていたと ムキー パンチ!パンチ! 星

 

前田武彦さん急死…巨泉とテレビ黄金時代築く

[ 2011年8月6日 06:00 ] スポニチ

 

 「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」「夜のヒットスタジオ」の司会で知られ、

「マエタケ」の愛称で親しまれたタレントの前田武彦(まえだ・たけひこ)さんが

5日午前11時16分、肺炎のため都内の病院で死去した。82歳。東京都出身。

59回目の結婚記念日だった先月28日に、突然体調を崩し入院。同日夜から

一度も目覚めることなく息を引き取った。通夜、葬儀・告別式は近親者のみで

営まれ、後日、お別れの会が開かれる予定。

 

 前田さんは、この日午後5時42分、ストレッチャーに乗せられ無言で都内の自宅に戻った。午後6時すぎ、自宅前で会見した長男・塁(るい)さん(52)によると、

先月28日、朝から体調不良を訴えて入院。検査で腸閉塞(へいそく)が見つかり、

それによる脱水症状で腎臓、肺などの機能が低下。点滴などの治療を行ったが、

昏睡(こんすい)状態に陥った。
4日には血圧や心拍数などの数値が安定したものの、5日に容体が急変。塁さんの

呼びかけに一度「あ、あ」と応えただけで、家族にみとられ息を引き取った。

 20年ほど前から糖尿病を患っていたが、所属事務所の関係者は

「入院するまで、こちらが驚くほど元気だったのに」とぼう然と話した。

 入院した28日は59回目の結婚記念日。2歳年上の妻・嘉子さんは60回目を迎えるのをとても楽しみにしており、「お互いいちずに思い合っていただけに、相当

ショックを受けている」(塁さん)という。塁さんは「父は海に行くのが好きで、

ヨットや釣りでストレスを解消していた。よく一緒に連れて行ってもらった。

家族思いで、いい意味で仕事人間ではなかった」と声を絞り出した。

 前田さんは立教大学中退後の53年、テレビ開局直後のNHKの

「こどもの時間」の放送作家として “テレビマン人生” をスタート。

61年に始まった日本テレビ「シャボン玉ホリデー」の脚本を手がけ、

故青島幸男さんや永六輔氏(78)ら放送作家と親交を深めた。

 60年代後半からは、タレント業に進出。68年スタートで芳村真理(76)と

コンビを組んだフジテレビ「夜のヒットスタジオ」、コント55号が出演した

「お昼のゴールデンショー」で初代司会。翌年スタートで大橋巨泉(77)と

共演した日本テレビ「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」では高視聴率を記録。

痛快な毒舌で今日のバラエティー番組の基礎を築いた。

日本テレビ「笑点」の司会にも抜てきされ、草創期のテレビ界で暴れ回った。

 一方、73年には生放送の「夜のヒットスタジオ」のエンディングで、

参院選補選で当選した共産党候補者に向けて万歳のポーズ。電波を私物化

しているとの批判を受け、同番組ばかりか、ほかの出演番組からも降板させられた。

背景には戦時中の悲惨な体験があったと言われている。

80年代中ごろに復帰した後は俳優業にも乗り出した。

 最後の仕事は先月16日、永氏がパーソナリティーを務めるTBS「土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界」へのゲスト出演。6日放送の同番組出演も

決まっており、事務所関係者によると「とても楽しみにしていた」という。

 ◆前田武彦(まえだ・たけひこ)本名同じ。1929年(昭4)4月3日、東京都生まれ。太平洋戦争中に海軍予科練に1年半在籍。NHKの放送作家として「宇宙船シリカ」「はてな劇場」などの台本を手掛けた。フジ「ゴールデン洋画劇場」の初代解説者も務めた。その後、第一線から退くが、84年にTBS「朝のホットライン」にお天気キャスターとしてカムバック。映画「釣りバカ日誌」シリーズなどに出演した。

 

福山雅治さんが2011年7月28日大阪所ホールでLIVEがあった日と同じなのは偶然?

そして、国立代々木競技場第一体育館LIVEが(中日で)休みの日が5日だったのも

偶然とは思えません。江原さんじゃないですが必然としか思えません ムキー パンチ!パンチ! 星

 

 

「笑点」歴代司会者で一番やりづらかったのは前田武彦さん

公開日:  日刊ゲンダイ

 

                         演芸番組「笑点」のメンバーと記念撮影する桂歌丸さん(前列左2)/(C)共同通信社

演芸番組「笑点」のメンバーと記念撮影する桂歌丸さん(前列左2)(C)共同通信社

 

 国民的人気番組「笑点」の大喜利コーナーのレギュラーで、木久扇は最年長で

ある。二つ目時代の1969年に、初代司会者の立川談志に抜擢され

レギュラーになって今年で50年になる。ギネスものの記録だ。

「まだ必要とされていることに感謝してます。50年前のレギュラー出演者の皆さんは、亡くなったり病気療養中(林家こん平)だったりで、僕だけ残ったんですね。

司会者も歌丸さんを最後に全員送りました。今度は昇太さんを送らなきゃならない(笑い)」

 ここで木久扇の歴代司会者の評を伺おう。

「一番やりやすかったのは三波伸介さんですね。もともと大衆演劇の出身で、コントのてんぷくトリオで売れた方ですから、いろんな笑いの寸法が頭に入ってる。回答者の答えから笑いを引き出す間合いがうまかった。物真似も上手で、僕が物真似を

すると物真似で返す。それがまた絶品で、僕にとってはやりやすい司会者でした」

 やりづらかった司会者もいたのだろうか。

「前田武彦さんですね。演芸のにおいがないし、何よりも笑いの間が取れなかった。打ち合わせの時なんか、スタッフや我々落語家がしゃべってる間、

寝そべって聞いてる。ハワイロケの時は大喜利メンバーはエコノミーなのに、

自分だけファーストクラスです。そういうところが評判悪かったですね」

 

先代円楽と桂歌丸はどうだったのか。

「円楽さんは当初、僕が突然歌い出したり物真似をするおかしさがわからなかった

みたいです。歌丸さんは僕が笑いを取れるいいタイミングで『はい、木久ちゃん』って指名してくれました。答えの引き出し方もうまかったですね。昇太さんは、あっけらかんとしてていいですね。司会の重圧をまるで感じていないように見えるところが凄い。それに、僕の答えによく笑ってくれるんです。だからとってもやりやすい」

 78年には、古今東西の落語家が歌った歌の中で最もくだらない歌詞といわれている「いやんばか~ん」をレコーディングしてヒットさせた。
当時は、大喜利の中でもよく歌っていた。前述の「突然歌い出した」というのは

この歌である。「いやんばか~ん、うふん。そこはおへそなの」という歌詞だ。

 この歌によって、木久扇(当時は木久蔵)のおバカキャラは定着した。
(聞き手・吉川潮)


▽はやしや・きくおう 1937年、東京生まれ。60年、3代目桂三木助門下入門。

61年、三木助没後、8代目林家正蔵門下へ移り、林家木久蔵となる。

65年、二つ目昇進。73年、真打ち昇進。92年、落語協会理事に就任。2007年、

親子ダブル襲名により林家木久扇を襲名。10年、理事職を退き相談役に就任。

▽はやしや・きくぞう 1975年、東京生まれ。95年、玉川大学文学部卒業後、

父である林家木久蔵に入門。前座名は「きくお」。99年、二つ目昇進。

07年、真打ちに昇進し、父の名、2代目「林家木久蔵」を襲名。

 

 

「夜ヒット」超人気司会者・前田武彦は “バンザイ事件” で

なぜ、テレビから消えたのか 本人が亡くなる前に

語っていた本音「悔やんでいる。でもね、真実とは違った」

 

前田武彦

         1929年生まれの前田武彦氏(1976年撮影)

 

 お茶の間の主役がテレビだった昭和40年代、数々の高視聴率番組で司会者を務めた「マエタケ」こと前田武彦氏。毒舌と巧みな話術でフリートークの時代を切り拓いた先駆者でもある。そんな時代の寵児は、生放送中に「バンザイ」と叫んだことで

テレビ界から消えてしまった。一部では「共産党バンザイ」だったという報道も

あるが事実は違っているという。2011年8月に82歳で急死する3年前、

マエタケ氏本人が改めて語った事件の真相と消えなかった後悔の念とは。

(「新潮45」2008年7月号特集「昭和&平成 芸能界13の『赤い衝撃』」

掲載記事をもとに再構成しました。文中の年齢、年代表記、役職名、

施設名等は執筆当時のものです。文中敬称略 )

 ***

ボクのスタンスが反感を買った

 

「そりゃあ悔やんでますよ。でもね、事実とは違ったんです。

芸能マスコミは、足元を掬うのが得意だから……」

 

 白髪の目立つその老紳士は、眼鏡の奥から少し寂しそうな目を私に向けた。それでも、かつてテレビ界の人気者として君臨した面影は、時折見せる微笑からも窺える。

微笑の主は、前田武彦(79歳)という。テレビがどの家庭の茶の間にも普通に置かれるようになった昭和40年代、数々の高視聴率番組の司会者として名を馳せた男だ。

「ボクはウソ偽りは申しません。正直に話しますよ」と、面会して早々に語った通り、悪びれる様子はなく、幾分懐かしげに、しかし淡々と記憶の糸を手繰り寄せた。

「あの事件の後、すっかり仕事が来なくなった。迂闊ではありました。

ただ、ほかのことだったら、あそこまで尾を引かなかったでしょう。

やはりボクのスタンスが反感を買ったのだと思います」――。

テレビ史に残る番組で司会

 昭和48(1973)年6月18日夜、フジテレビ局内で、歌番組

「夜のヒットスタジオ」の生放送が行われていた。

司会は、43年の放送開始時からのコンビである「マエタケ」こと前田武彦と芳村真理。毎回、歌謡界のトップスターが持ち歌を披露しながら、司会者たちとトークを

展開する内容で、世間では略称の「夜ヒット」として広く知られていた。

全盛期には視聴率が40%を超えたこともある、月曜の定番番組だった。

中でも、前田は、出演歌手にユニークなあだ名を付けたり、歌手との脱線気味の会話やジョークで盛り上げたりと、アドリブ性の高い軽妙な話しぶりで定評があった。

既に昭和30年代から放送作家、ラジオのパーソナリティーとして活躍しており、

テレビでは「夜ヒット」と同時期に、「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」、「笑点」と

いった、テレビ史に残る人気番組の司会も担当した超売れっ子だった。

両手を高々と挙げて「バンザーイ!」

 “事件” が起きたのは、「夜ヒット」の放送終了直前のことだった。

エンディングテーマが流れる中、前田が突如、カメラに向かい、

両手を高々と二度ほど挙げて、「バンザーイ!」と叫んだのである。

近くには「鶴岡雅義と東京ロマンチカ」のボーカル三条正人らがいた。

 

 番組担当ディレクターの藤森吉之は、当時のマスコミ取材に対し、

次のように説明している。

「前田さんが “バンザイ!”をいったのは知っています。東京ロマンチカの三条さんも、一緒に手をあげていたみたいですよ。ただ、コマーシャルのことなどで、

私も、それほど注意してはいなかったんですよ。なんのための “バンザイ” か分から

なかったし、またいつもの調子でサービスしたのかな、と思っていたんです」

(「女性セブン」48年7月11日号)

 番組中に「バンザイ」と叫ぶだけならば、どうということはない。

だが、このたかだか数秒程度の「サービス」こそが、順風満帆だった

前田のテレビ人生に、暗雲をもたらしたのである。

 

山口百恵さんが、夜ヒット最後のTV出演の時に、あの三女がまた憑依して、

この状況と似ていて、百恵ちゃんの両指を曲げて鼻に突っ込ませて番組は終わった パンチ!

 

“バンザイ事件” の結果は辛い宣告

 伏線となったのは、2日前の6月16日、前田がとった行動だった。大阪に向かった

前田は、参議院議員補欠選挙の最中だった共産党候補者・沓脱タケ子の選挙カーに

乗り込んだ。繁華街や住宅地を回り、候補者や聴衆に対し、大声でこのように

語りかけたとされる。「私は選挙速報を見るのが好きです。支持している候補が

当選したときには、涙を流して喜びます。月曜日の生放送では、選挙について

なにか言いますから、見ていてください」(「女性セブン」48年7月11日号)

 

 果たせるかな、沓脱候補は首尾よく当選した。前田は約束したとおり、月曜日の「夜ヒット」で、「共産党バンザイ」とも受け取れるリアクションを起こした

というわけだ。“バンザイ事件” は、間もなくマスコミの格好の話題となり、

世間を騒がせることになった。やがて、前田に辛い宣告が下される。

5年間、中心を担ってきた番組から降ろされたのだ。同年9月24日の放送を最後に、「マエタケの夜ヒット」はあっさりと幕を下したのである。

 

 理由について、フジテレビ側は「マンネリ化もあり、最近は視聴率が15~20%と

低迷していた」とし、「新メンバーによるてこ入れ」を強調したが、

誰もがあの事件との関係を疑ったのは言うまでもない。

上層部で問題になり、「前田降ろし」に繋がったというのである。

 

生放送で、あんなことを言ったらいけないのは分かりますが、今と違って

コンプライアンスは緩かったのに、何かが動いたとした考えられないほど

厳しい処遇、冷遇ですね 物申す パンチ!パンチ!

 

「共産党バンザイ」とは言っていない

 前田はこう振り返る。

「ボクもあの事件が原因だったと思います。番組で『バンザイ』と叫んだのも、

共産党候補を応援したのも事実。でも、応援については、頼まれたから

引き受けただけです。現場には松本清張さんや作曲家のいずみたくさんもいたし、

特殊な雰囲気ではなかった。……それにしても局の対応は厳しかった。

上層部としては、『マエタケを自由にさせ過ぎた』ということだったのでしょう」

ただ、多数の週刊誌などの見出しに明記されたような「共産党バンザイ」とは

言っていない、と繰り返し主張した。

「それはありえないですよ。番組で党名なんて言ったら、絶対に問題になるに

決まってるじゃないですか」

 

 確かに、当時の各報道を見ても、記事の本文に、「放送中に共産党バンザイと

叫んだ」と記述している例は見当たらない。

それでも、選挙応援、番組でのバンザイ、ともに公の場で堂々とやった行為だった。「前田は、共産党シンパとしてテレビでバンザイをした」といった具合に、

結び付けられるのは時間の問題だったはずである。

反体制の人間ではありました

 番組降板後も、革新系政党からの参院選出馬が取り沙汰されたり、業界内に「あの前田武彦が王侯貴族の暮らしをしてふんぞりかえっている」などとする怪文書が出回ったりして、身辺の慌ただしさは続いた。保革対立の激しい時代、「左寄り有名

タレント」と見られてしまった前田には、政治的な風当たりも強まったのだろうか。

「ボクはもともと反体制の人間ではありました。もちろん共産主義者ではなくて、『時の権力に反対する』というスタンスなんです。共産党が政権をとったら、

真っ先に反共産党になります。でも結局、この反体制という部分が、芸能マスコミやある種の『反マエタケ』勢力からすれば、面白くなかったんでしょうね。

『体制内で甘い汁を吸っているくせに』というわけです」

 

 冷静かつ率直に降板劇の裏事情を分析してみせた後、こんな言葉も口にした。

「例えば、司会者としてはこれも言っちゃまずいのかもしれないが、

『巨人バンザイ』だったら、降板騒動にならなかったと思う。

『自民党バンザイ』であっても、ボクのようなことにはならなかったはずです。

もう少し、政治的な中立性を考慮すればよかったんでしょう。ただ、反体制は

お笑いの源でもある。時代に阿るよりは、よっぽど良かったと思っています」

仕事の依頼が目に見えて減った

「問題男」のレッテルを貼られたタレントへの仕打ちは、思いのほか厳しかった。

降板劇を境に、仕事の依頼が目に見えて減ったのだ。フジテレビではもう一本の

レギュラーだった「ゴールデン洋画劇場」の解説まで降板となった。

 

 自虐的とも思えるような、あるオレンジジュースのテレビCMにも出演した。画面に登場してバンザイをした後、「またやったか……」とおどけて見せる内容である。

商品の売り出し文句は「バンザイ・キャンペーン」だった。

昭和50年代に入って以降も、朝のTV番組で天気キャスターを務めたり、

映画に出演したり、講演のため全国を回ったりといった活動を続けた。が、

かつての勢いはもはやなくなっていた。

気になるタレントは「爆笑問題」

 前田は、喜寿を過ぎた今も健康そのものだという。都内の自宅で暮らしており、

ときどきテレビ番組への出演や講演といった仕事が入れば出かけていく。

週末には三浦半島の周辺で、長年の趣味であるヨットを楽しんでいる。

 

 昔のような超多忙な日々ではないにせよ、仕事への意欲は衰えていないそうだ。

放送界の草創期を築き上げた重要人物の一人として、テレビ界の現状に対しても

もちろん、一言ある。

「最近のタレントは、テレビで「ここつまんで』とか『カットして』とかいうで

しょう。あれはよくないねえ。自分で一度、言った言葉には責任を持たないと。

気になるタレントですか? 反体制の精神を持った司会という意味で、

爆笑問題なんていいと思いますね」

 

 往時の流れるような口ぶりが、いつのまにか戻っている。

なお “マエタケ復活 ”の機会を窺っているようにも見えた。

 

本当は、TVのお仕事をもっとしたかったと思います。

あんな形でTV業界を干されたんですが、映画界が救いの手を差し伸べてくれたのが

良かったですね。最後まで、悔いが残ったと思いますが、巨泉さんや永六輔さんや

青島幸男さん達と天国で楽しく、お話をされて大笑いでもしてますか? 笑ううさぎ

ご冥福をお祈りいたします。

 

逸見政孝

           逸見政孝氏(1945年生まれ)

 

徳光和夫

              徳光和夫氏’(1941年生まれ)

 
関口宏

             関口宏氏(1943年生まれ)

 

みのもんた

            みのもんた氏(1944年生まれ)

 

上岡龍太郎

            上岡龍太太郎氏(1942年生まれ)

 

露木茂

             露木茂氏(1940年生まれ)

 

久米宏

             久米宏氏(1944年生まれ)

 

 

菊地正憲(きくちまさのり)
ジャーナリスト。1965年北海道生まれ。國學院大學文学部卒業。

北海道新聞記者を経て、2003年にフリージャーナリストに。徹底した現場取材力で

政治・経済から歴史、社会現象まで幅広いジャンルの記事を手がける。

著書に『 速記者たちの国会秘録 』など。

デイリー新潮編集部

 

 

伊勢物語のあらすじ

 

 17   年にまれなる人


むかし年ころ音つれさりける人のさくらのなかりに見にきたりけれはあるし

 

 あたなりとなにこそたてれさくら花としにまれなる人もまちけり

 

返歌
 けふこすはあすは雪とそふりなましきえすはありとも花とみましや

 

現代語訳
もう何年も訪れてこなかった人が、桜の盛りに花見に来たので、

その家の主人が詠んだ。

 

 あだなりと名にこそたてれ桜花
  年にまれなる人も待けり   

 

  すぐに行ってしまうという名で有名な桜の花は
  年に数えるほどしか来ないあなたでも、ちゃんと待っていてくれるのですよ

 

 返事の歌。
 今日来ずは明日は雪とぞ降りなまし
  消えずはありとも花と見ましや  

   今日来なければ、明日は雪になって降ってしまうでしょう
   たとえ消えずに残っていたとしても、それを花として見られるでしょうかね

 

感想
たまにしか訪ねてくれないお客が桜の盛りに久しぶりに訪ねてきたので、そのお話

 

 

 

いつもありがとうございます。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました 愛飛び出すハート