Asagei+ 2023年7月12日 05:59

 

 プライバシー重視の現在とは異なり、昭和や平成の時代には冠婚葬祭の際、

その全てで記者会見を開く律儀な芸能人は少なくなかった。ただ、恋愛や結婚などは質問するこちらも聞きやすいが、葬儀の直後となると、言葉を慎重に選ばなければ

ならない。生前お世話になった人々に対する「お礼のご挨拶の場」が設けられた

ものの、さすがにまだ早すぎたのでは、との印象が拭えなかったのが、

夫・愛川欽也の死後、うつみ宮土理が東京・目黒の「キンケロ・シアター」で

行った、痛々しすぎる記者会見だ。

 

 愛川が肺ガンのため80歳の生涯を閉じたのは、2015年4月15日だ。

以降、遺骨と2人きりで時を過ごしたといううつみが1カ月ぶりに姿を見せると

あって、5月10日、会見場には100人を超える報道陣が集まっていた。

激ヤセした姿で現れたうつみは、憔悴しきった表情でこう語った。

「いまだ信じられなくて…。心の中に大きな穴が開いてしまいました。

その穴を埋め尽くせないまま、この場に座っております。愛川とは毎日毎日

笑い合って、1日を過ごしておりました。こんなに人生が悲しく、寂しくて、

愛おしくて、一緒に天国に行ってしまいたいと何度も何度も思いました。

闘病中は24時間、手を握りしめていましたが、その握り方がだんだん弱くなって…。そして15日の早朝、天国に旅立ってしまいました」

 

 その瞬間を思い出したのだろう、むせび泣く彼女に報道陣から

「最期の様子は?」という定番の質問が飛ぶ。すると踵を返したうつみは、

「そういうことは言えますか、私が…。悲しすぎて、そんな質問は酷です」

そして報道陣との緊迫したやりとりが続いていく。

「なぜ入院させなかったのか」

「当たり前だからです」

「愛川さん本人の意思ですか」

「何も聞いてません。病院に行ったら治るんですか。

私の隣が好きってわかっていたから」

「愛川さんが亡くなった後、何を心の支えにしていくのか」

「私に支えがないと思ってらっしゃるんですか。亡くなってるんですよ。

それって、そういう質問ができるって、幸せな方ですね。

そういう悲しさを経験したことがないから、幸せですね」

そんな質疑応答が繰り返され、見かねた関係者が「もうそろそろ」と、会見を打ち

切ることに。むろん、翌日のスポーツ紙やワイドショーは、このケンカ腰ともとれる返答に対して「あんなに怒るなら、なんで会見なんか開いたのか」的なトーンで

あふれたが、おそらくは、心の整理がつかないまま記者たちの質問に答えなければ

ならない苛立ちもあっただろう。だが、不思議と筆者には、その激しい苛立ち

こそが、最愛の夫を突然失うという非日常を突きつけられた妻の、偽りのない

心の叫び声に聞こえたのである。(山川敦司)

【補足】

「キンキンは、ここ数年めっきり老け込んでしまい、セリフが出てこなくなって

いた。番組でも他の出演者との言葉のキャッチボールができない状態だったんです。

 

 

【 人生七転八起 】うつみ宮土理、記憶を失う激しい

喪失感に襲われて夫・愛川欽也さんの死から7年  

2スポーツ報知

 

         愛川欽也さんが残した「中目黒キンケロ・シアター」をバックに笑顔を見せるうつみ宮土理(カメラ・小泉 洋樹)

       愛川欽也さんが残した「中目黒キンケロ・シアター」を

      バックに笑顔を見せるうつみ宮土理(カメラ・小泉 洋樹)

 

 タレント・うつみ宮土理(79)は、最愛の夫で俳優の愛川欽也さん(享年80)を

2015年に失った後の1、2年間、記憶を失うほどの喪失感に襲われたという。

しかし、少しずつ気力を取り戻し「今は以前に増して元気」と語るまでに回復した。心のダメージにいかに向き合い、どのように克服していったのか。人生100年時代。長生きをすれば、それだけ過酷な「別れ」に直面する機会は増える。

本人の回想をもとに、内面の変化にアプローチした。(内野 小百美)

 

 夫を見送って7年の時間が流れた「“その時” まで、キンキン(愛川さんの愛称)がいなくなるって私、本当に思わなかった。あまりの驚きと虚無。1、2年間、

ほとんど記憶がないのね。何をして何を食べていたのかも」。しかし、今は客観的に自身を見つめられるまでに回復した。

 

 後に友人に言われた。「目黒川の散る桜の木のそばに、ぼんやり私、立っていたらしくて。『本当にかわいそう』と思ったって」。悲しみを受け止める許容範囲を超えていたのだろう。うつみはクリスチャン。病に伏した愛川は病床洗礼を受けている。芸能界でも有名なおしどり夫婦として知られたが「そのままだと同じ天国にいけないと思って。(洗礼は)死を覚悟したから、ではなかったの」

 

 ベスト体重は43キロで現在が40キロ。失意の底にある時は30キロまで落ちた。

「もう皮と骨だったわね。(愛川さんの葬儀で)誰が私の喪服を用意していたのか、何も覚えていない。ただお医者さんに、『あと2日くらいでダメかも』と告げられた時、頭が真っ白になったのは覚えていて」

 

 “快方”の兆候が訪れたのは、夫を見送って数か月後。料理が得意なマネジャーが、うつみの変わり果てた姿にたまりかね、毎日自宅に来てご飯をつくってくれ、

一緒に食べるようになった。

 「忘れもしない。最初に口にしたのは筑前煮。あまりにおいしくて五臓六腑

(ろっぷ)に染み渡るようで。栄養が心身にどれだけ大事かを知った」と振り返る。マネジャーは「とにかく出汁(だし)の利いた煮物を食べてほしかった」

一緒に会話し、穏やかな時間を過ごすことも始まった。

 

 20代半ばから約半世紀。この間、テレビのレギュラー番組は絶えず、常に忙しさの中に身を置いてきた。「自然、四季を感じるという生活をしてこなかった。

空ってこんなに美しかったんだ、とか。空、風、花、鳥の鳴き声。キンキンは風になったってことだから、風の音に耳を澄ませてみたり。自然に癒やされ、励まされて。いつを境に急に元気になった、ではなくて。しっかりした食事と自然を感じることを続けていたら、自分が生きていることを実感し、気持ちも落ち着いてきたのね」

 

 実践女子中、高、大とオール5で首席の優等生だった。うつみの満点の英語の解答用紙を見ながら他の生徒の答案を採点する先生もいたほど。「実母を10歳で亡くし、育ての親も『男に頼ってちゃダメ』と。仕事を持って収入を得て生きていくように

言われたのも大きかった」ところが、卒業後に英字雑誌「ジス・イズ・ジャパン」

編集部へ入ったのは「正直、お婿さん探しが目的だったわ」と明かす。

「記事を書く男性ってすてきじゃない? 横から見ても知的で物静かで。朝日新聞がいいと思ったけれど、入れそうもなくて系列(当時)のところに入ったの」

仕事はそこそこに、社内の論説委員など年齢を重ねた男性たちから毎日のように

食事に誘われた。「みんなに『君と話していると楽しい』と言われて。

予定帳が埋まるほど入って。しかもすしなど高いお店ばかりで舌も肥えて。

でも若いイケメンの男性記者からはさっぱりだったわね」

 

 転機は24歳の時。子ども向け番組「ロンパールーム」(日テレ系)の「2代目

先生」に周囲の勧めで応募した。「履歴書の写真、カメラの部長さんが少しでも良く見えるよう“修整”してくれたり。最終審査まで残ったけれど松坂慶子さんみたいな

きれいな人ばかり3人。私なんて全然ダメ」と諦めていた。ところが「どの人が

いい?」と聞かれた子どもたちは、一斉にうつみに駆け寄った。「実は昔から子ども、赤ちゃん、おじいちゃんが大好きで。それを幼い子なりの感性で見抜いてくれたのかな」同番組で、うつみの人懐っこく明るいキャラクターは一気に覚えられた。

後の「ゲバゲバ90分!」(日テレ系)への出演も、この時の先生姿を前田武彦さん(2011年没、享年82)が気に入っての起用だった。

「50年くらい、長く芸能生活を続けているけれど、私にとって一番印象的だった

仕事は、今も『ロンパールーム』。芸能界志望など全くなかった。人の運命って

本当にどうなるか分からない、と24歳の私に教えてくれたんですから」

 

 うつみの一日は、朝5時に始まる。家の掃除、洗濯をしたりして1時間。

その後、近所の人と公園までラジオ体操に行く。「365日、ラジオ体操は欠かしま

せん。雨でも行く。しないと一日、気持ち悪くて。公園には少ない日でも50人ほど

集まる。体を動かしながら、つい人間観察してしまう。あの方の連れている犬は

高価な名犬だな、とか(笑い)」。前日に見た演歌の番組の話になると歌手の化粧の濃さや声の出具合など感想を聞くことも。「皆さんの指摘が鋭いの。よく観察されていて。いま芸能界で誰が人気があるのか。ここから推測できるくらい」

 

 生きがいを尋ねると「長生きしてキンキンがつくった劇場を守っていきたい」と

力強い口調で返ってきた。愛川さんが2009年に建てた東京・青葉台にある「中目黒

キンケロ・シアター」(客席数133)のこと。最初は生前のことが思い出されて

つらく、手放すことも考えた。が、心身の回復とともに、考え方は変わった。

「『お客さんを疲れさせちゃいけない』とファーストクラスのイスにすると聞いた時、驚きましたよ。でも、ここにはキンキンのこだわりが詰まっている。いま思うと、私が寂しがらないよう、ここを残したんじゃないか、そんなふうにも思えて」

 

 1934(昭和9)年生まれの愛川さんは、戦時中を知る。特に晩年は平和の尊さを

伝えることにも力を注いだ。「キンキンが生きていたら、いまのウクライナのことを何て言ったか。教わるときは『かみさんは授業料取らないと覚えないから』と、

1時間1000円徴収されて。地図を描いて時代背景から教えてくれたと思う」

劇場空間に身を置くと、無数の思い出がよみがえってくる。悲しみの喪失は癒や

され、いまでは劇場から活力をもらっている。「なかなか疲労感を感じないくらい

元気だし、長生きしないと。塞ぎ込んでいる間なんてない。時間がもったいなくて。

毎日、やりたいことがたくさんありすぎて」。気力あふれる笑顔が広がった。

 

 ○…うつみは11月にキンケロ・シアターで上演される新作コメディー

「豆子セブンティーン」(横山一真脚本・演出、19~25日で全10公演)に主演

する。“豆子シリーズ”の第3弾で、これまでは8歳、14歳の主人公を演じてきたが、

今回はタイトルにもあるように17歳に挑戦。「役を通して違う自分を発見できる

喜び、幸福。すごく楽しみ」といい、「開幕までの稽古も、準備もすべてワクワク

です」と話している。

 

うつみ宮土理さんといえば、やっぱり「ロンパール―ム」です。

小さい時によく観ていました。一番好きなのは、にこったちゃん、こまったちゃん。

番組の最後に魔法の鏡?で、子供たちに話しかけるところも好きでした ニコニコ

 

 

うつみ宮土理さん(80歳)「キンキンを亡くして1年間は

記憶がなかった」

 

80年代に「根こんぶ健康法」、90年代に「カチンカチン体操」の本を出版したうつみ宮土理さんこそ、タレントによる健康本、美容本のパイオニアかもしれません。

カチンカチン体操は今でも続け、スリムな体と美肌は健在。おしどり夫婦として知られた最愛の夫、愛川欽也さんを亡くして7年。今、また新たな恋をしているそうです。

 

今日も楽しいことが待っている。

毎朝、そう思いきることが大事

 

       お話を伺ったのは……うつみ宮土理さん(80歳)

 

7年前に亡くなった夫、愛川欽也さんの思いが込められた東京・中目黒の「キンケロ・シアター」は、飛行機のファーストクラスの座席を使用。その椅子に座り、華やかなピンクのジャケットを颯爽と着こなすうつみ宮土理さん。10月に80歳になったとは

思えないほど笑顔が愛らしく、思わず「可愛いー!」とお声がけしてしまうほど。

 

《Profile》
1942年東京生まれ。実践女子大学英文学科卒業後、朝日新聞社「ディス・イズ・

ジャパン」編集部を経て、「ロンパールーム」の先生役で’66年芸能界デビュー。

〝ケロンパ〟の愛称で親しまれ、「3時のあなた」「すてきな出逢い いい朝8時」など多くの番組でメイン司会を務める。11月には、東京・中目黒「キンケロ・シアター」で上演される『豆子セブンティーン』に主演予定。

 

  オシャレが大好き。若い頃からいろいろなブランドの服を着てきましたが、

最近は家の近くのセレクトショップで出合ったステラ マッカートニーが好き。

個性的なデザインで、可愛いから惹かれたの。青山の本店にはもっとたくさん置いてあるって言うじゃない。それからはシーズンごとにうかがって、ステラの洋服を

楽しむようになりました。今日、2ポーズ目に着たカジュアルなフード付きの

パーカとロゴ入りジーンズもステラ。着ているとウキウキして、元気が出ますね。

 

洗顔からスキンケアまでトータル1時間かけています

毎朝5時に起きた瞬間に「今日も楽しいことが待っているわ」と思い込んでから起きるの。それが運を呼び込む秘訣。そして、スキンケアとUVクリームをしっかり塗って、6時半から近くの公園でやっているラジオ体操に参加します。ボーイフレンド(?)のクマちゃんと待ち合わせをして、会場に行くと仲間がいるの。

最近、日本語ができないオーストラリア人の新入りがいて、これがね、

イケメンなのよ。だからますます行くのが楽しみで。7時まで体操したら、近くの

コンビニで100円コーヒーを飲みながら仲間とお喋り。みんなきれいにメークして

いて素敵なの。オシャレしてラジオ体操に来るなんて可愛いわよね。

家に帰ると即洗顔。肌に入り込んだ汗とホコリと紫外線を洗顔クリームできれいに

落とします。それから再度スキンケア。厚化粧が好きじゃないから、メークは

普段ほとんどしないですね。夜はパチパチ音がするクレンジング剤でお化粧を落としてから、額と顎のみ石鹸で洗います。それから麹入りパックを塗ってお風呂に入り、肌がパーンとしたらぬるま湯で落としてタオルで優しく拭いてから、上がります。

お気に入りのティラヴィのコラーゲンを入れ、しみ込む化粧水、シワを取る美容液、栄養クリーム、最後にオイルをつけます。とにかくゆっくり焦らず、それぞれを

手で浸透させます。その間、43歳で出版した書籍が100万部を売り上げた「カチン

カチン体操」をやっています。30代の頃、階段を上がっていたら、後ろにいた小森のおばちゃまに「どうしてそんなにお尻が大きいの?」って言われたんです。びっくりして、小尻にするための本を読んで研究したら、痩せたい箇所は「伸ばしてひねる」が大事だと確信。この体操を編み出しました。でも30年以上前のことでしょ?具体的にどうするかは忘れちゃったのよ。本もどこに行ったかわからないし。でも、その頃太っていたのに、ベスト体重38キロで小尻にもなって、今でも維持しているの。

あれは正しかったなと思うわ。私はオードリー・ヘプバーンを目指しているんです。あの細い体が好き。だから今でもウエストはくびれています。洗顔からスキンケアが全部終わるまで1時間かかるんです。寝る直前には「あいうえおかきくけこ……」と

内緒の顔の体操もやっているから、なかなか寝られないわよ(笑)。

 

40代で美と健康に目覚めるとその後もきれいでいられます

レーザーやエステは苦手です。パシッパシッと光を当てると痛いでしょ。

自分が痛いと感じることは、やらないようにしています。肌の身になって考えてみないとダメね。親からもらった肌も体も大切でしょ。美肌自慢だった母の遺影を見る

たびに、「なんて肌がきれいなの」って思うの。だから絶対にシミ、シワは作らないと心に決めて頑張っています。髪の毛もベル・ジュバンス弱酸性美容法の山﨑伊久江美容室に30代後半から通い始めました。いいと思ったら私はそこしか行かないんです。弱酸性の白髪染めは髪に負担をかけない分、小まめに染めなくてはいけないけれど、結果、髪も頭皮も傷まず、今もフサフサです。山㟢さんに、「宮土理さんの存在がうちの宣伝になります」と褒められているくらい。

30代までは美容もファッションも興味がなかったのですが、40歳になったとき、坂道が目の前に現れて、老化を感じるいっぽう。まずはきれいでありたい、お金をかけず整形もせず、美しさを維持しようと思いました。その気持ちが今も続いています。

40代で美容と健康に目覚めれば、その後もきれいでいられるんじゃないかしら?

人生も同じ。それまでは平坦な道を歩き、太陽が降り注いでそよ風が吹き、周囲はニコニコ協力してくださって、本当に順調でした。40歳で初めて登るのが大変だと思ったけれど、頑張ろうという気持ちも芽生えました。「3時のあなた」や「いい朝8時」など、たくさんの司会をやらせていただき、仕事も充実。経済的にも恵まれていました。22歳のときに父が亡くなり、私が家族を支えるようになり、フランス語専攻の

妹をパリのソルボンヌ大学に留学させることができたことも嬉しかったですね。

重責だったけれど、40代からはいよいよ家族への恩返しの始まりで、私がそれが

できることが幸せでした。だから一生懸命働きました。40代ってちょっと頑張る

上り坂なのかなと。

 

最愛のキンキンを亡くして1年間は記憶がありません

最愛の夫・キンキン(故・愛川欽也さん)とは36歳で結婚しました。司会で共演した「シャボン玉こんにちは」が出会い。人って泣けるところは一緒でも、面白いところで一緒に笑える人ってなかなかいないじゃない。でもキンキンとは笑うツボが一緒で、絶対に私たちは合うと思いました。後から聞きましたが、キンキンも「ケロンパといると疲れない。蝶々みたいに飛んでる面白い人だ」って言っていたそう。

結婚後はいつも私の仕事を応援してくれ、苦手だった料理を強要されたこともない。「あそこの水餃子を買っておいて」と言われてストックしたり、よく外食もしました。朝ご飯は作ったけれど、ご飯にお味噌汁、おしんこと干物があればいいの。

お餅が大好きだったわね。ホントに手のかからない人でありがたかったです。

喧嘩をしたことも不満もなく、いつも幸せでした。

夫婦でよく海外にも行きましたが、キンキンが「なるほど!ザ・ワールド」の司会をしていた当時、毎年夏休みに軽井沢プリンスホテルにスタッフとその家族全員分の部屋を予約したことも。男性陣がゴルフをしている間、私は奥さんと子ども達をどこに連れて行こうかと大変だったけれど、キンキンに対する感謝の気持ちがあったので、楽しんでやりました。

キンキンは明るい人が好きだったから、仕事から帰ってくると、「おっかえりー」と明るく迎え、料理は上手じゃないけど、「お腹空いた?」って聞いて、「お餅あるよ」「水ようかん食べる?」と常に声をかけていました。私はそれくらいしか

できなかったけれど、縁あって結婚したわけだから、やれることは全部やろうと

思いました。夫婦って1年も経てば気持ちがすり減っちゃうでしょ?そんなときは

この人のどこが好きで結婚したのかなって思い出すといいと思うの。

感謝する気持ちがあれば、夫も感謝してくれます。なぜなら夫婦は鏡だから。

私の本名は三重子ですが、女性には3つ大事なことがあって、1つ健康、2つ仕事、

3つ男運。その3つに恵まれるようにと願いを込めて、祖父がつけてくれました。

いちばん当たっていたのは、3の男運。キンキンに出会えたことは本当に幸運だったと思います。だからキンキンが死ぬなんて考えたこともなかったんです。なのに家で

看病して、あっという間に死んじゃった。突然いなくなって、何が起きたのかわからなくて、虚しさと絶望とで、そこから1年間のことはまったく覚えていません。よく言われるのは、中目黒の桜が散っていくのを川べりでぼーっと見ていたらしく、その姿は本当に可哀そうだったと。何を食べたのかも覚えてなくて、見かねた料理上手の

マネージャーがご飯を作ってくれるようになり、少しずつ元気を取り戻しました。

そして1年後、キンキンが残してくれた「キンケロ・シアター」でメモリアルコンサートを開催することになり、やることができると突然元気になって、「キンキン塾」の生徒さんに歌を教え始めました。キンキンがいつも「明るく、好きなことをやんなよ」って言ってくれていたのを思い出しました。今でも寝る前に「ありがとう」と

言うのは忘れないですね。

【補足】

うつみ宮土理さんと愛川欽也さんは、愛川欽也さんが前妻との離婚届を提出した

翌日に入籍しました。そのため世間から大バッシングを受けたのです。

愛川欽也さんはうつみ宮土理さんとの結婚のために、前妻に離婚の4カ月前に

「好きな人が出来たから別れたい」と打ち明けたそうです。

前妻は離婚を拒否したものの、愛川欽也さんの説得により承諾、

愛川欽也さんは、前妻に世田谷の豪邸をはじめ財産のほとんどを渡しました。

 

この話を知り、沢田研二さんの離婚話に似ていると思いました プンプン パンチ!パンチ!

石坂浩二さんも離婚後、次の日に再婚発表も同じですね。

 

「かみさんがいつまでも若々しく生きがいを持っていられるように」と作ってくれた「キンケロ・シアター」のおかげで、キンキンの死から立ち直れました。

 

64歳のとき、ヨン様に恋して3カ月間の韓国留学に

64歳のとき、ドラマ「冬のソナタ」がきっかけでヨン様に恋をして、韓国のキョンヒ大学校に3カ月間語学留学をしました。そのときも「偉いね。まだ勉強したいの。

行っておいで」と送り出してくれました。でも実際行ってみると、周りは10代20代

ばかり。毎日ものすごい量の宿題が出て、ヒアリングはできるのですが、脳みそが

動かず覚えられなくて、試験に落ちるんです。毎日落第で残されて、苦しかったあ。眠れないほどでした。でもビリでも卒業証書をもらったときは嬉しかったですね。

苦しかったけれど達成感がありました。

その後も韓国ドラマを観ながら勉強を続け、今は字幕を見なくても理解できるし、

難しいことは話せないけれど、不自由しなくなりました。語学のマスターは20代までと言われますが、何歳で挑戦しても修得できると思います。

私のデビューのきっかけは、日テレ系の子ども向け番組「ロンパールーム」の

みどり先生でした。当時は朝日新聞社に勤めていたので迷いもありましたが、

私は子どもが大好き。今でも公園に行くと子どものほうから寄ってきます。

「好きよ」という気持ちが子どもに伝わるんだと思います。だから子どもは欲しかったですね。でも子どもは天からの授かりもの。代わりに他の子どもを支えるために、「近所のおばさん」として、恵まれない子ども達に寄付をしたり、妹の孫と遊ぶのが本当に楽しい。それでいいんです。

実は20代の終わり、「ゲバゲバ90分!巨泉×前武」にレギュラー出演していたとき、ある女優さんに「あなたって、不細工ね」って言われたんです。家に帰って母に

「今日、本当に傷ついちゃった」って言うと、「いいじゃないの。それはいじめじゃなく、本当のことを言ってくれている」って言うの(笑)。それで母に「不細工

だって言われないためにはどうしたらいい?」って聞くと、「笑っていなさい」と。それからは「笑って不細工を吹き飛ばそう」と、何を言われても笑うようになりま

した。そうやって私の人生は開けていったと思います。母に感謝です。

だから、私が思う美しい人は弾けるような笑顔の人。よく喋る人も大好き。

無口は性格だから仕方ないけど、努力してでも喋ったほうがいいと思います。

「こんにちは」だけじゃなく、「昨日どうしていたの?」「今日はどうするの?」ともうひとつ加えてみるんです。

最近、吉幾三さんに一方的に恋をしています。ちょっとキンキンに似ているの。ファンレターを書いて、ファンクラブにも入りました。80代の目標は吉さんに会うこと。そのために肌をパンパンにしてきれいにしてなきゃね。

 

うつみさんが40代に伝えたいこと

 

40代は坂道の始まりです。そこからが頑張りどきで、本当の人生の始まりだと

ウキウキしました。だから一層笑顔で朗らかに、いつもきれいにしていれば、

どんなことでも乗り越えていけるのです。

 

この2人は、おしどり夫婦で有名ですが、実はいろんなことがあったんですね。

でも価値観が同じで、笑うところが同じというところが大きかったんでしょう。

一緒にいて疲れない、楽いしいのが一番ですが、自分の時間を大切に出来るのも 笑ううさぎ

食べ物の味付けも同じだと良いですね。そして、ある程度自由にさせてほしい ニコニコ 

占い師の母から「男とお金を追いかけると逃げるから、追いかけないこと」と、

生前言われました。その言葉通り、今も守っています おばあちゃん

 

 

いつもありがとうございます。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました 愛飛び出すハート