バッグに相方との写真と遺書   1979.10.26  デイリー

 

 上方漫才のスターだったお笑いコンビ「Wヤング」の中田治雄さんが、人気絶頂の1979年10月25日、熱海の崖から飛び降り、亡くなっているのが見つかった。

41歳だった。21日になんば花月の舞台を前に失踪。行方不明に。

野球賭博などで多額の借金があった。崖の上に残されたバッグには、遺書とともに、相方の平川幸雄と一緒に写った写真も入っていた。

 

 【 1979年10月26日のデイリースポーツ紙面より 】

( ※プライバシーに配慮し、一部加筆修正してあります )

 

 Wヤングの中田治雄=本名・中田軍治=さんが遺体で見つかった。21日に大阪・

なんば花月劇場から姿を消し、消息不明。24日に保護願が出されていた。

25日午後1時半ごろ、熱海市錦ヶ浦のホテル・ニューアカオの従業員が錦ヶ浦展望台下の沖約20メートルの海に男の死体が浮いているのを発見。熱海署に届けた。

熱海署で調べた結果、死後間もなくで、崖の上約70メートルの展望台に

手提げバッグがあり、中に中田さんの写真、コンビの平川幸雄さんが

一緒に写った写真、便せん5枚に書かれた遺書が入っていた。

 

 中田さんは黒いスポーツシャツ、紺ズボン姿。

バッグの中に現金20万円とポケットに1万8500円があった。

遺書の内容は「東尋坊は前に一度行ったことがあり、きれいなところだと思った。ここで死のうとしたが、“ヤングさんきょうはどこへ行くんですか。一杯飲みましょう” とファンに声をかけられたため死ねなかった。新幹線で熱海に来た」などと

書いてあり、「人はいさ、こころもしらぬ、故里にしそ、昔の香りに匂いけり」

(※原文まま)と結んであったが、自殺の動機には触れていなかった。

 

 保護願が出た大阪・南署の調べによると、野球賭博や競馬に凝り、サラ金など

約2000万円の借金を抱え、取り立てに悩んでいた。所属の吉本興業のスタッフの

話では、今年になって出演中の楽屋や自宅に暴力団風の男が押しかけていたという。

熱海署の調べでは、中田さんは24日夜、熱海市内の旅館に1人で泊まっていた。

 

 Wヤング自殺で野球賭博連鎖逮捕 昭和54年10月21日、大阪のミナミのなんば花月劇場からWヤングの中田治雄こと軍治(42)が失踪した。Wヤングは下席に出て

おり、初日の第1回目を 相方の平川幸夫(38)と務めた後、午前12時10分、

自宅に電話が入ったきりだった。中田は2000万円の借金があり、電話で妻(37)

「保証人の判子は押さなくていい。毎月返済するように話がついた」と語っていた。

10月25日午後1時25分、静岡県熱海市錦ヶ浦の展望台下70mの海面に死体が浮いているのをホテルマンが発見、中田であった。発見直前に飛び込んだとみられ、内臓

破裂で死亡しており、白いエナメル靴、白いブレザーのコート、紺のズボン姿で、

展望台に置いてあったカバンには漫才の台本などが入っていた。青いボールベンに

よって5枚の便箋に「死出の旅」という遺書が残されており、「人はいさ心も知らぬ故里に死ぞ昔の香に匂ひけり」と辞世の歌が書かれ、東尋坊では知らない人に

声をかけられ自殺出来なかったなどと書かれていた。 

  

 11月1日午後4時、奈良県桜井市辻の国鉄巻向駅で新宮発名古屋行き

急行しらはま1号に、ホーム端の線路からホームへ飛び上がろうとしていた

中田 和嘉(69)がはねられ死亡した。和嘉は自殺した治雄の母だった。

巻向駅は無人駅で、和嘉は六女(27)の家でワイドショー「独占!Wヤング自殺、

涙の遺書初公開」を視聴して駅へ向かう途中だったという。和嘉は耳が遠かった。 

  

 11月15日夕方には、月亭可朝(41)が野球賭博で逮捕された。可朝は劣勢のチームにハンディをつける方式で勝ちチームを予想する野球賭博に参加、これは五島組幹部(36)を胴元として仲介役(42)を通じて金銭の授受をするもので、9月2日の

日本ハム-近鉄、ロッテ-南海の試合で近鉄とロッテ に20万円を賭けていた。

11月19日朝には、吉本新喜劇の座長で「かんにんな」のギャグで知られた間寛平(30)、チャンバラトリオの結城哲也(38)も 中田と同じ野球賭博をしていたとして取り調べを受けた。これは4月6日の甲子園準決勝のPL学園-箕島の試合を、

い連合系一誠会幹部(32)を胴元に、9月に解雇された吉本興業社員(32)を仲介役に10万円ずつ賭けたもので、間も結城も10万円損していた。この野球賭博は自殺した中田も行っていたルートで、吉本興業社員は一誠会幹部と中学が同じで1年後輩

だった。3月に中田が誘われてそこから間、結城も呼ばれたもので、4月7日の

甲子園決勝の浪商-箕島にも間と結城は10万円ずつ賭けて間は9万円プラス、結城は10万円損していた。間は3月から7月まで30回300万円を賭けて100万円損、

結城は3、4月と20回200万円賭けて85万円損してい た。月亭可朝も、このルート

でも5月から8月まで50回1000万円賭けて300万円損していた。

 

 

芸能裏話(40) 私の師匠Wヤング中田師匠の自殺

 元吉本・ホリプロ芸人・松稔まつみのる  松稔 (マツミノル) の芸能裏話

  • 2016/09/24 20:43

 私達(みのる・ゆたか)が京都花月に出ている時だった。一回目の舞台が終わって

ゆたやん(相方)と芸人仲間でお好み焼き屋に行った時だった。
テレビを見ていたら番組の途中でニュース速報が入った。「Wヤングの中田軍治さんが、熱海の錦ヶ浦から飛び降り自殺したもようです」一瞬耳を疑った。
まさかと思った、食べかけていたお好み焼きも止めて急いで京都花月に戻った。

支配人が青ざめた顔で「中田軍治師匠が飛び降り自殺したらしい、

今、本社に警察から電話があった」さっきのニュース速報は本当だった。

 実は、軍治師匠には何千万と云う借金があった。
私が師匠に付いている時もしょっちゅう借金取りから、楽屋に電話が掛って

きていた。この借金と云うのは、競馬のバクチで負けた物だった。
借金取りも電話だけじゃなく、楽屋まで来るようになった。

師匠が舞台をやっている時、舞台の上袖と下袖に借金取りが、師匠を逃がさない

ように見張っていた。
軍治師匠はそれを察して、舞台が終ると客席から降りて外に逃げた。
師匠が逃げ回っているので、私が事務所に連れて行かれたこともあった。

困った師匠は、会社に借金の理由を云ってお金を借りる事にした。
しかし師匠は、何千万も借金が有ると云えなくて、何百万と一桁少ない額を云ってしまった。それでは到底返せなかったので、また借金取りが楽屋に来るようになった。
今度は、同じ芸人仲間にお金を借りに行った。
その人に「悪いが200万円用立てて貰えんやろか、200万円さえ払ったら

来月からメドが立つから」と必死に頼んだのに断られた。
軍治師匠もまさか断られるとは思わなかった。最後の砦が壊れてしまった。


 軍治師匠は元銀行員だった、だから今のギャラではお金が返せない、

利子を払うだけで元金が減っていかない、これでは一生借金取りに追いまわされる。
師匠が銀行員じゃなかったら絶対自殺していなかったと思う。

吉本の芸人さんも借金だらけの人が一杯いる。
でもその人達は「なんぼ借金取りでも命まで取らん」と開き直っている。
なまじっか銀行員だったから先々まで計算してしまった。


 しかし師匠が亡くなって半月後に、漫才ブームが起こった。
軍治師匠も漫才ブームまでは計算していなかった。
漫才ブームのきっかけは、花王名人劇場という番組だった。
それも、Wヤングを全国的に売り出す為の番組だったそうだ。
そのことをプロデューサーの澤田隆治さんに聞いた。
大阪では人気のやすし・きよし、実力のWヤングと云われていた。
上方漫才大賞も、やすし・きよし師匠が2回受賞して、Wヤング師匠は3回受賞している。せめて後15日間、生きていたら何千万の借金なんか一瞬の内に返せていた。
そして、お笑い界の歴史も変わっていただろう。


人間は、計算道理には行かないんだから、決して諦めたらあかん

誰にでも絶対チャンスは来ると思う。

 

 

やすきよが最も恐れた漫才師~Wヤング( ダブルヤング )

 

 昭和39年 (1964) 結成

「リズムデッサン」というトリオで活動していた平川と中田が初代の「Wヤング」を結成します。当初は音曲漫才、後にしゃべくり漫才に転向し、駄洒落をふんだんに

織り込んだ漫才は「やすしきよしが最も恐れた漫才師」と言われ、ビートたけしが「ツービートが何年やっても追い抜くどころか追いつく事さえできない」と

著書に書いた実力でした。

 

 人気絶頂で漫才ブームの到来を目前に控えた1979年10月25日、中田が野球賭博と事業の失敗で多額の借金を抱えたのを苦に熱海の海岸で飛び降り自殺します。

漫才ブームブームの火付け役となった『 花王名人劇場 』(1979年10月7日初回)

最初に出演者として予定されていましたが、急遽やすしきよしに変更、

やすきよが漫才ブームを牽引するきっかけとなりました。

失意の平川は、しばらく後にピン芸人として活動を再開、

1984年に佐藤を誘って第2次Wヤングを結成します。

 

 平川は「現役最高齢の吉本芸人」として長らく活動しますが、

2019年初頭から入退院をくり返すようになり、解散発表を予定していた

前日(2019年11月11日)に死去します。

 

 佐藤は、吉本新喜劇の座員として35年ぶりに復帰しています。

 

 

Wヤング・平川幸男さん急死 漫才ブーム支えた功労者 

5月に体調崩し療養も…

 死去した平川幸男さん

 

 横山やすし・西川きよしと並ぶ上方漫才の大スターだった漫才コンビ・Wヤングの平川幸男さん(ひらかわ・ゆきお、本名平川幸朗=こうろ)が11日、大阪市内の

病院で死去したことが12日、分かった。78歳。神戸市出身。

病気治療のため入院していたが、11日に容体が急変。帰らぬ人となった。

通夜、告別式は家族葬で執り行われる。

所属する吉本興業は「急逝いたしました」と明かした。

関係者によると、5月のNGK出演後に体調を崩し、療養中だったという。

 

 平川さんは、昨夏頃から左膝の痛みを感じ、かばって歩くうちに腰も悪化。

今年2月に左変形性膝関節症と腰部脊柱管狭窄(きょうさく)症の手術を受けた。

47日間の入院後、4月9日になんばグランド花月(NGK)で仕事復帰。

糖尿病の悪化で、入院当初は手術が受けられなかったと告白した。

食事療法で体重は64キロから52キロまで激減していた。

 

 1941年10月5日、神戸市出身。58年から舞台に立ち始め、61年に西川ヒノデに

弟子入り。64年に中田治雄さんと初代Wヤングを結成し、ダジャレの連発や

テンポの良い掛け合い、「エライスンマヘン」、「チョット聞いた?」、

「へんなの」、「アホかいな」といったギャグで一躍人気者になった。

 

 75、78年に上方漫才大賞を受賞するなど「やすきよ」と共に演芸ブームをけん引

したが、79年、野球賭博による借金苦から中田さんが投身自殺する悲劇に見舞われ、「なんで死んだんや…」と号泣。「漫才はもうやりません」と宣言した。

 

 84年に現在の相方・佐藤武志(65)とWヤングを再結成。自身の歌やダンスを

取り入れ、舞台上を走り回る体当たりの漫才で再び人気を博した。

弟子には吉本新喜劇の女優・宇都宮まきらがいる。

 

 佐藤は「今後迎える喜寿・米寿・卒寿などの長寿祝い年で、なんばグランド花月ででっかいイベントをやって悔いなく引退できればいいなと話していました。

あと10年は、やれると思っていました。その夢が叶わず無念で心寂しい思いです」と、悔しさをにじませた。

 

 4月の復帰舞台で佐藤から「90歳までやってほしい」とエールを送られ

「それこそ、アホかいな」と返していた平川さん。人気絶頂時に突然の別れとなった中田さんと、天国で40年ぶりの再会を果たしているに違いない。

 

 

芸人と博打の関係について考えさせられる「月亭可朝の

ナニワ博打八景 金持たしたらあかん奴」( 吉川潮/竹書房 ) 

ボインは赤ちゃんが吸うためにあるんやでぇ~

 

 お笑いのクズ芸人ブームがまだ続いている。

どんなクズかというと、飲む打つ買うの打つ、主に博打と借金がポイント

ようである。暴露系ユーチューブの人気といい、社会がますます裏に向かっている

気がしなくもない。そのクズの範疇とは別に、霜降り明星の粗品やインスタント

ジョンソンのじゃいの競馬の話題も、頻繁にネットニュースになっている。


 芸人と博打というのはいつの時代も縁が深い。月亭可朝はその最たる存在だった。
 テレビでの全盛期は昭和40年代~50年代前半で、カンカン帽にチョビ髭姿、

♪ボインは~の「嘆きのボイン」を大ヒットさせ、歌に司会に大活躍した。
しかし、大衆的にはスキャンダルメーカーとしての方が名高い。


 ギャンブルで膨大な借金、美人局に引っかかり脅されて裁判、思い付きで

参議院議員に立候補、野球賭博とストーカー行為で逮捕、話題に事欠かない。
それでいて凄いのは古典落語家としての腕も天下一品だったことだ。
「月亭可朝のナニワ博打八景」は、古典落語家としてはおいておき、

あえてお笑い芸人にして博打打ちの可朝にフォーカスした半生記だ。

 

画像1

 

なんども博打で大惨敗しながら、

いつもなぜか切り抜けてしまう。

 

 「野球賭博はなんであきまへんのや」
 若い方の刑事が呆れ顔で答えた。
 「暴力団の資金源になっとるからに決まっとるやろ」

 そこで可朝は膝を叩いた。
 「それやったら大丈夫ですわ。わし、トータルで買ってますさかい。

 暴力団の資金を吸い上げているということですわ。

 お上から表彰状をもらてもええんとちゃいますか」

 芸人になった可朝は息を吸うように、あらゆる博打を始める。
そしてポーカーから野球賭博にはまっていき、借金が一千万を越えて劇場にまで

取り立てが来る。劇場の最前席に座って睨みを利かす取り立てのヤクザを、

可朝は舞台の上からからかって追い返した。しかし、こじれる前に組長の懐に

飛び込んで話をつけ、返済金の一部をこまめに届けに行くうちに懇意になり、

お付き合いと引換えに値引きされ、完済できてしまう。

 次に借金が三千万円に膨らむと、家を抵当に入れ六千万円を借りて、

まず借金の三千万を返し、残り三千万を野球賭博の一試合に全額突っ込む。

その大勝負に勝って倍にし、銀行にも返済。


 武勇伝ととるか、正気の沙汰ではないと考えるかはそれぞれだろう。
ただ同じ時期に売れっ子漫才Wヤングの中田軍治が、借金で切羽詰まり

野球の3連戦に1千万円づつ突っこむ大勝負に出て、全敗し飛び降り自殺する。


 人の運というものは恐ろしい。

 その次には、まったオイチョカブでは、七千万円まで借金( のちにイカサマと

わかる )が膨らみ絶体絶命となるが、知己の伝手で名人の助力を得られ、

驚くことに完済することができた。こうして博打での危機を奇跡的に乗り切ってきた可朝は、最初のポーカーの師匠やオイチョカブの名人を見て、プロと素人の差を

痛感し、実業に転じることにする。しかし実業の借り入れとなると、どうしようも

出来ずに、自宅を失うまでになったのは皮肉な話である。

芸人で稼いだあぶく銭はいくらでも博打に使えたが、実業で得た金は博打に使えないという話は、可朝という人物または芸人と博打の本質をついているようにも思える。

 

芸人と博打は親和性が強い?それホント?

 

 飲む打つ買うは芸の肥やしといわれていた。
 演芸人だけでなく、芸能全般での話である。
 可朝は、劇場の楽屋で賭博禁止になったことがきっかけで、長らく所属した吉本興    業を止めた。可朝にとって芸と博打は切っても切れない関係だったのだろう。
 現在の芸人にも、博打の持つ緊張感やスリル
(もっと健全な娯楽性なのかも

  しないが)を求め続けるタイプがいる。
 趣味なら本人の自由、好きでたまらないのも価値観も自由。

  しかし芸人=はみ出し者=ギャンブルといったイメージに囚われているタイプには   ちょっとうんざりする。

 

 特にそういう ”芸人だから” 発言をされると…。

 芸人として可朝を評価し可朝も慕った立川談志の博打はあくまでも遊び、

 ビートたけしは、芸人人生自体が博打だから博打をしないというのも有名。

 当たり前のことだが、芸人は博打やらなきゃという話はない。
 
 一方で、実業家や営業マンなどで、博打が仕事に役に立つと熱弁する人間を

 何人も知っている。実業のシビれるような決断の場面で、博打で培った胆力が

 役に立つなどと言われれば納得できない話でもない。
 ただ博打をしない実業家でも、大胆な英断を下す人もいる。


 月亭可朝の半生から感じたのは、人と博打には相性があり、

 それとは別に適性もあるということだ。
 たぶん博打は、芸や仕事と相関関係があるのではなく、

 その人、個人の資質との関係でしかない。

 なにはともあれ月亭可朝、好きだなぁ。人間は理屈じゃないのだ。

 

 

私、大阪生まれなので、幼い時からTVで吉本新喜劇や吉本、松竹の漫才を

観ていました。落語も観ていました。

だからWヤングさんのことも知っていました。本当に、あの漫才は面白かったです。

 

中田さんが住友銀行の行員だったとは、初めて知りました びっくり

お弟子さんのブログにも書かれていましたが、行員じゃなかったら、

借金返済の計算をしなかった。もう少し、吉本に正直に話をしていたら、

ファンに声を掛けられた時に思い止まっていたら、漫才ブームが来たのに・・・。

そして、お母さんも駅で不慮の事故で亡くならずに済んだのに ムキー おばあちゃん 爆弾 パンチ!パンチ!

 

お弟子さんがお昼に芸人仲間と一緒にお好み焼きを食べている時に、

TVを観ていたら、師匠の自殺のニュース速報が入ってきたと。

私も同じような事が、昼食後にTVを観ていたら、ニュース番組から中森明菜さんが

自殺未遂したと聞き、「え!まさか、あの明菜さんが・・・」と思いましたが、

そんなにショックは感じませんでした。そして普通なら、あの時間帯、私が昼食を

取る時間じゃなかったのに、もう30分遅い時間だったはず。あのニュースは、偶然

じゃなく、観るように仕向けられたように感じます 物申す おばあちゃん パンチ!パンチ! 星 

 

平川さんも、私の誕生日の3日後に亡くなられていました。

11月に入ってからは、しばらく状態は安定していたが、11日夜に急変したという。

病名は明らかにされていませんでした。

 

TVでよく芸人さんが飲む、打つ、買うと漫才のネタで言ってましたが、

本当に、よく怖い人が楽屋でいていると。借金取りがと言っていましたが。

漫才師や落語家さん、新喜劇の人も笑いに変えていたので、まさか、こんな酷いとは

思っていませんでした。その他にも、いろいろ分かってきました プンプン パンチ!パンチ!

 

今頃、天国でWヤングや芸人さん達と楽しく盛り上がっていたらと思います 照れおばあちゃん 虹

ご冥福をお祈りいたします。

 

 

伊勢物語 あらすじ

10 たのむ雁

 

むかしおとこ武藏のくにまてまとひありきけりさてそのくにゝある女をよはひけりちゝはこと人にあはせむといひけるをはゝなんあてなる人に心つけたりけるちゝはなおひとにはゝなんふちはらなりけるさてなんあてなる人にとは思ひけるこのむこかねによみてをこせたりけるすむ所なむいるまのこほりみよしのゝさとなりける

 


 みよしのゝたのむのかりもひたふるにきみかゝたにそよるとなくなる

 

むこかね返し

 


 わか方によるとなくなるみよしのゝたのむのかりをいつかわすれむ

 

となむ人のくにゝても猶かゝることなんやまさりける

 

 

現代語訳
昔、男が武蔵の国までさ迷い歩いて行った。そうして、その国に住む一人の女に

結婚を申しこんだ。女の父親は違う男と結婚させようとしていたが、母親は高貴な

家柄の人に執着したのだった。父親は身分の低い人だったが、母親の方は藤原氏の

出身であった。それで将来有望な身分の高い人にと思ったのである。この婿と決めた男に歌を詠んでよこしたのだった。住所は入間の三吉野の里であった。

 

 みよし野のたのむの雁もひたぶるに
  君が方にぞ寄ると鳴くなる

 

    三吉野の田の面に下り立ってあなたを頼りにしている雁も
      ただひたすらに、あなたに心を寄せているよと言っているのです

 

 婿に決まった男は、歌を返した。
  わが方に寄ると鳴くなるみよし野の
   たのむの雁をいつか忘れむ

 

私の方に心を寄せているよと、鳴く三吉野の田の面の雁を

いつ私が忘れることがあるでしょうか

 

というものだった。京を遠く離れた他の国でも、

やっぱりこういう、優雅なことは止まなかったのである。

 

追補

 

またしても女に目が行く、恋・・・・・。行く先々でよほどいい男

 

くぬ現代人もすこしな真似して彼女に歌でも送 くれば

染み入る彼女声が聞こえてくる。娘の母父は意見が分かれます
母の都のいい男にほれ、父は大反対

 

 

人の嫌な事をしてこないで。ブログを書いている時、邪魔をしてこないで 物申す パンチ!パンチ!むかっ

人の思考を低下させないで、記憶障害も、中枢神経を触らないで。トイレも パンチ!

人の後ろに憑かないで、憑依しないで。自分の考えを言わさないで ムキー パンチ!パンチ!

人のパワーや感情を抑えないで、唇を痺れさせないで。老眼にさせないで パンチ!パンチ!

ワガママも言わないで、水晶を使って人のプライバシー侵害しないで。リークも パンチ!パンチ!

 

 

いつもありがとうございます。

 

最後までお読みいただきありがとうございました 愛飛び出すハート