2016年08月13日(土) 06時00分 デイリー
調教師ラストデーに勝利を挙げた武邦彦調教師が、武幸四郎(中央)、
武豊(右)と親子3人で写真に納まる=09年2月28日、阪神競馬場
突然の訃報だった。元JRA騎手、調教師の武邦彦氏が12日午前1時26分、
滋賀県の済生会滋賀病院で病気のため亡くなった。77歳だった。
武豊騎手(47)、武幸四郎騎手(37)=ともに栗東・フリー=の父として知られ、
騎手としてはJRA通算7679戦1163勝。“ターフの魔術師” “名人” などの
異名を取った。葬儀・告別式は15日に関係者で執り行われる。
今でこそ豊 (三男)、幸四郎 (四男) の父として知られる武邦彦氏だが、
現役時代は、関西を代表する騎手として輝かしい実績を残した。
京都府出身 (生まれは函館)で57年にデビュー。
才能の開花には時間を要したものの、デビュー15年目、72年の桜花賞 (アチーブ
スター)でのG1級競走初勝利を皮切りに一気に一流騎手へのし上がった。
約1カ月後には、ロングエースを駆って大胆に仕掛けを遅らせた騎乗でダービーを制覇。歴史に残る大接戦となったランドプリンス、タイテエムとの “3強対決” を
制し、ダービージョッキーに。翌73年の菊花賞では、負傷した嶋田功の代打で
タケホープに騎乗し、あえて離れた大外を回る奇策で逃げ切りを狙ったハイセイコーを差し切った。74年には、この年から導入された単枠指定制度が初めて適用された
キタノカチドキで、皐月賞と菊花賞の2冠を制すなど、プレッシャーのかかる
大一番で勝負強さをいかんなく発揮した。
172センチの長身をきれいに折りたたんだ、しなやかなフォーム。
繊細なアクションで馬を御す姿を詩人の志摩直人が「絹糸一本で馬を操る」と評し、同じく詩人の寺山修司が「子供時代に見た『手品使い』の男を思い出す」と表現した華麗な騎乗ぶりで “ターフの魔術師” と呼ばれた。
初コンビとなった76年の有馬記念で勝利に導いたトウショウボーイでは重賞を3勝。
2着に敗れたものの、ライバル・テンポイントとスタートからマッチレースを演じた
翌年の有馬記念の激闘は、日本の競馬史に残る名勝負として語り継がれている。
当時は、関西所属騎手が関東の名馬への騎乗依頼があることは珍しい時代で、
それほど関係者の評価は高かった。80年には関西所属で初の通算1000勝を達成し、85年の騎手引退までにJRA通算1163勝。円熟期の約10年間がちょうど福永祐一の
父で “天才” とうたわれた福永洋一の活躍期と重なり、リーディングこそ
獲っていないが、時代を彩った名ジョッキーだった。
87年に調教師へ転身後は、バンブーメモリー(89年安田記念、90年スプリンターズS)やメジロベイリー(00年朝日杯3歳S)などを管理。引退後はテレビなどで
解説者を務め、この春もスポーツ紙でG1の解説を担当していた。
騎手、調教師、そして武兄弟の父として、日本の競馬を語る上では
欠かせない存在だった。
1976年トウショウボーイのライバルだったテンポイント。
関テレの競馬番組に応募して、この2頭のパネル当たりました。
大切にしています
1989年バンブメモリーもTVで観て知っています
武邦彦さん死去 四男・武幸四郎、福永祐一が別れを惜しむ
2016年08月13日(土) 18時00分 デイリー
12日に肺がんのため、77歳で亡くなった元JRA騎手、調教師の武邦彦さんの
四男・幸四郎騎手 (37)=栗東・フリー=が13日、小倉競馬場で父をしのんだ。
「今週は、今日の9Rと11Rをテレビで見るのを楽しみにしてくれていたので、
元気にしてくれていたら説教ももらえたんだろうけどね」としみじみ。
11Rの阿蘇Sは、メイショウウタゲで3着だった。
「これからは今までの教えを、騎乗だけではなく、僕の人生に生かしていきたい。
(僕のことを) 心配し過ぎて疲れていると思うから、ゆっくりとしてほしい」と
メッセージを送った。
福永祐一騎手もショックを隠し切れない。父・洋一さんはジョッキー時代、
邦彦さんとは良きライバルとして名勝負を演じてきた。
「父の代から縁があって、家も近かったのでよく声を掛けていただきました。
驚きました。体調が悪いとは聞いていましたが…。競馬史に残る偉大な方で、
関係者に愛されていた。ご冥福をお祈りします」と静かに別れを惜しんだ。
【補足】
“メイショウ”の冠名で知られる松本好雄氏が弔辞を読み上げ、「77歳は早過ぎます。残念でなりません」と無念の表情。「まさしく正真正銘の勝負師でした。
日本の競馬界に大きな足跡を残し、名人 “タケクニ” として上質なドラマを
いくつもターフに提供してくれました」と名手の功績をたたえた。
また、最後にはお酒好きだった故人をしのび「天国では、お酒が飲み放題らしいですね。私は、あなたのような親友と40年以上ともにできたことを誇りに思います」と
親しみを込めて語りかけた。
親族代表であいさつに立った三男の武豊は「今月に入り、容体がさらに悪化し、
ある程度覚悟はしていたつもりですが…現実になると悲しいです」。時折、声を詰まらせながら言葉を紡ぎ、「お別れに駆けつけてくださった皆さまには、父も感謝で
いっぱいだと思います。父の代わりにお礼申し上げます」と謝辞を述べた。
四男の幸四郎は、こみ上げてくるものを抑え切れず号泣。
参列者からもすすり泣く声が聞こえた。早い別れを惜しまれつつ、
昭和の名ジョッキーは永遠の旅路についた。
子供に職業を強いることはなかったが、三男の豊、四男の幸四郎が騎手を選択。
87年のデビュー当初「タケクニの息子」と呼ばれた豊騎手はトップジョッキーとなり90年のスプリンターズS(バンブーメモリー)では史上初めて調教師の父、
騎手の息子でGIを制覇。幸四郎騎手も97年に父の管理馬オースミタイクーンで
史上最速となるデビュー2日目での重賞Vを果たした。
豊と幸四郎の父、“ターフの魔術師” 武邦彦氏が死去…
[ 2016年8月13日 05:30 ] スポニチ
JRA調教師引退セレモニーで三男の武豊騎手(左)と記念撮影に納まる武邦彦氏
昭和の名ジョッキーで、武豊・幸四郎兄弟の父でもある武邦彦氏が12日
午前1時26分、肺がんのため入院先の滋賀県済生会病院で死去した。77歳だった。
その華麗な騎乗スタイルから「ターフの魔術師」の異名を取った邦彦氏。
その遺伝子は三男・豊に受け継がれた。騎手引退後は調教師としても活躍。
スポニチ本紙上でG1時に「武邦 名人解説」を執筆した多彩な才能の持ち主が、
帰らぬ人となってしまった。通夜は14日、告別式は15日に行われる。
競馬界にショキングなニュースが駆け巡った。
肺がんを患い、今春から入退院を繰り返していた武邦彦氏が天国に旅立った。
「騎手」「調教師」としての実績ばかりでなく、三男・豊と四男・幸四郎の「父」
としても名をはせ、競馬界に残した足跡は計り知れない。
豊は11日に北海道・門別のナイター交流重賞に参戦。危篤と聞いたのは
日付が替わった深夜とあって、すぐに駆け付けることはできなかった。
豊はJRAを通じて「ホースマンとしても、父親としても、たいへん尊敬できる偉大な人でした。今の私があるのは父親のおかげです。まだまだ見守っていてほしかった
ので、本当に残念です」とコメントを発表。幸四郎は急いで病院へ向かったが、
着いたのは既に息を引き取った後だったという。幸四郎は本紙の取材に対し
「親父から教わった全てのことを、今後の人生に生かしたい」と声を震わせた。
邦彦氏がデビュー16年目にして初めてクラシック競走を制した72年の桜花賞。
検量室ではいろいろな人に声を掛けられたが、謙虚に頭を下げるだけ。記者の「悲願成就?」の質問にも「特に気にしていなかった」と答えたほど冷静な勝負師だった。その後は一気に開花。70年代に数々のビッグレースを勝ち「ターフの魔術師」「名人」「勝負師」など、数々の異名を付けられる関西のトップジョッキーになった。
そんな男が2度だけ涙を流したことがある。1度目は73年タケホープで制した
菊花賞。1週間前に落馬事故でケガをした嶋田功の乗り代わりだった。
管理する稲葉幸夫師が重責を果たし労をねぎらうと同時に「嶋田にも乗せて
やりたかったな」と目に涙を浮かべていたのを見て、もらい泣きした。
2度目は77年ダービー、ハードバージでの2着敗戦。頭差で敗れ、厩務員が
「悔しい、悔しい」と涙を流すのを見て、馬上で一緒に泣いた。このあたりが
「邦ちゃん」「タケクニ」などと関係者やファンから呼ばれ、愛された点であろう。
「武」といえば、今でこそ競馬界の第一人者「豊」が代名詞。
しかしデビュー当時、豊は「タケクニの息子」と呼ばれていた。
85年に騎手を引退し、87年に厩舎を開業。同年に豊が騎手デビューを果たした。
いつしか立場が変わり「ユタカのオヤジ」と呼ばれるようになった邦彦氏。
調教師としてもバンブーメモリー、メジロベイリーでG1を制覇。90年スプリンターズSは豊とのコンビで父子制覇。ガッチリと握手を交わした姿が印象的だった。
その豊はくしくも騎乗停止中(21日まで)で今週は騎乗せず、棺の横に付き添って
いる。父子で最後の会話を交わしていることだろう。
◆武 邦彦(たけ・くにひこ)1938年(昭13)10月20日、京都府生まれ。57年
3月騎手デビュー。通算7679戦1163勝。関西所属騎手で初の通算1000勝を達成。
八大競走8勝を含む重賞80勝を挙げた。85年2月に騎手引退。
87年に調教師として厩舎開業。09年の引退まで4193戦375勝(うち重賞18勝)。
騎手の豊は三男、幸四郎は四男。
父親(武邦)の死に目に会えなかったみたいですが、お葬式の時は、
騎乗停止中で最後の挨拶まで出来て良かったですね
この時代、「ターフの魔術師」や「モンキー乗り」と言って、良いジョッキーが
多かったですね。だから、レースを観ていても面白かったです
武邦彦が死去!
父に北海道馬主協会の重鎮、武芳彦を、祖父に近代馬術の祖函館大経の直弟子として多くの騎手、調教師を育てた馬術家として有名な武彦七がいる。
文字通り競馬一族の名門として有名だった。
中学2年で京都競馬場で厩舎を開いていた叔父・平三の勧めで騎手試験に挑戦。
出典:http://laughy.jp/item/5703153a0cf265f8e718114a
何度か落ちて無事騎手としてデビューしたのが1957年に。
ちなみに豊氏が170㎝。幸四郎氏は177㎝。
間違いない遺伝子の力を感じます。こんな高身長騎手では、かなり稀中の稀です。
武邦彦の散々の放蕩と酒豪も原因?
酒豪で知られ、若い頃の放蕩三昧は有名だったと言う。
自伝のスポニチコラムでも引退後も酒がやめられず
2回吐血したと書いてあった事も・・・
出典:http://www.jra.go.jp/topics/column/jockeys/03.html
また、過去の何かの雑誌で、あまり両親を語る事のない
武豊氏が職業的にも、何より高身長172㎝だった事から尚更気にしてか、
『 父が家で箸を持ってるのを見た事がない 』
そんな常人では、考えられない異様とも言える長年の習慣となった食生活も
その寿命を早めてしまった原因の一つなのかもしれない・・・
武邦彦の長男の闇と黒すぎる噂
世間一般的には、あまり知られていないが武家の長男は、武豊ではない。
豊氏は、4人兄弟の3番目。
1966年 長男に武伸氏
1968年 次男に克己氏
1969年3月に豊誕生
1978年に幸四郎
出典:http://blogs.yahoo.co.jp/crossfield_bio/11333915.html
この長男や次男が妻洋子さんの意向もあって、騎手の仕事が危険である事から
騎手以外の道を希望した事もあり、上の兄二人は馬とは無縁の道を選ぶ。
次男の克己氏は銀行員。
武邦彦と武豊の親子関係
4人兄弟のちょうど真ん中で、意外にも出来の良かった上2人を
溺愛した両親に、どの家庭でも3人目となれば珍しい話ではないが、
3男の豊は、全く家では構われない存在だったと言う。
出典:http://keibakyoudai.com/archives/34979948.html
そんな事からか豊が競馬学校入学後も3年間の在学中、
ただの一度の面会にも両親は来なかったという。
そしてその3年間に、豊に知らせず栗東から京都へ勝手に引っ越しを行ったり。
幼少期も人の良い武邦彦氏の一家の中で豊は、あまり構われない存在のようだった。
ちなみに10歳年下の幸四郎が出来てから尚更、その傾向が強かったとも
言われている・・・。同じ自分の子供を差別したのではないと思うけど、
結構可哀相かも・・・。豊こそよく、グレなかったな~と思えます。
こんな生い立ちからか、この後のデビュー後の発言からも、まだ駆け出しの
10代の子供の発言にしては結構冷めた発言が多いのです。
豊氏の2世騎手としてデビューするときに、彼がマスコミに言った発言が
「父は父、いつか武豊の父と呼ばれるようになりたい」
その後ほどなく、その言葉は有言実行とされる活躍をする中、
当然、邦彦氏も豊の活躍を喜ぶ一方、1989年自分が勝った事の無い
天皇賞をイナリワンでレコード優勝した豊に
「巧く乗ったけど、レコードで勝てる馬なら私だって勝てますよ」
当時の彼の破竹の勢いの成績と女性人気から親しかった
競馬解説で有名な杉本清氏に
『俺だって、今の時代に乗ってれば豊よりモテてる』
きっと冗談だったのだろうと思いたいです・・・汗
出来が良すて可愛くないだなんてあり得ます?
そんな訳ないですよね~あんな激似なんですもん。
それにきっと4人の兄弟の中で一番父の邦彦さんが大好きで
憧れてたのは、豊氏だったような気もしたりします・・・
彼はJRAを通して
『ホースマンとしても父親としても、大変尊敬できる偉大な人でした。
今の私があるのは父親のおかげ。まだまだ見守って欲しかったので
本当に残念です。』
おわりに
彼が居なくなっても間違いなく、そのDNAを引き継いだであろう
ソックリな息子武豊と幸四郎が競馬界で益々活躍してくれるでしょう。
ともかく競馬界の一つの歴史が、これで消えてしまったと言っても
過言ではない、武邦彦氏のご冥福をお祈りします~安らかに
「武邦彦」の死に際とは?晩年や最期(死因)など
分かりやすく解釈 サクッと散り際 【 一部抜粋 】
調教師としては「杉本清」氏の名フレーズ「私の夢はバンブーです」で
お馴染みG1・2勝馬バンブーメモリーが挙げられます。
「武邦彦」の晩年
日本中央競馬会では70歳調教師定年制が1989年から導入されました。
これに伴い邦彦氏も2009年2月28日をもって厩舎を廃業、調教師を引退しています。
最後の花道とばかりに阪神競馬第2競走でエーシンウォーマンで勝利。
息子であり、かつて自厩舎の所属騎手であった「武幸四郎」氏による勝利でした。
翌日の競馬面では同日11Rの『 G3・アーリントンカップ 』と同等以上の
紙面が割かれ、邦彦氏との別れが惜しまれています。
その後はスポーツニッポン紙上でG1レース時に「武邦彦 名人解説」を連載。
東京スポーツやスポーツニッポンで自身の回顧録。NHKの3歳クラシックや
有馬記念のテレビ解説など競馬に携わる仕事を続けていました。
「武邦彦」の死に様の信憑性
直近まで解説の仕事をしていただけにその死は大きな衝撃になりました。
葬儀の際には豊氏が闘病生活について語っており、実際に体調を崩したのは
16年の春からのこと。入退院を繰り返していたと明かされています。
競馬ファンならご存知の方も多いと思いますが、豊氏はG1レースの
優勝者インタビューでも常に飄々とした態度で応対します。その豊氏が涙を流し、
言葉を詰まらせながら弔辞を読んだのは印象的だと言えるでしょう。
また豊氏は、中央地方競馬交流レースで札幌におり、
邦彦氏の最期は看取る事は叶いませんでした。
しかし同週の中央競馬では、騎乗停止中のため父の柩を担ぐ事ができました。
武豊が唯一超えられない存在 父・邦彦さんとの
知られざる絆 産経デジタル
3カ月ぶりに特番として復活する古舘伊知郎MCのフジテレビ系「モノシリーのとっておき」(29日放送、後7・0)は、「偉人列伝 生ける競馬伝説 武豊SP」を送る。
今年9月に前人未到の中央競馬4000勝を達成した競馬界のスーパースター、
武豊騎手がスタジオに登場。古舘が生ける競馬伝説に迫る。
豊が唯一超えられない存在-。それは父であり偉大なジョッキーで調教師だった
武邦彦さん。32年間の騎手人生を振り返りながら秘蔵映像と関係者の証言から
知られざる父子の絆が明らかになる。
豊はデビューから5戦目の1987年3月、17歳で初勝利を飾る。しかし、調教師と
なった父・邦彦さんが勝利した息子にかけたのは、意外な言葉だった…。
「まわりがすごいとかおめでとうと言ってくれているときに、おやじはよかったなとかは言わなかった」と豊は振り返る。また「馬の乗り方については一切言われたことはなかったけれど、それだけは言われた」と、父からあることを教わったという。
天才を育てたある教えとは?
名馬・オグリキャップが復活した大レース、ライバルとして競う父子の感動秘話も。さらに、スタジオでは父が息子の初勝利を記念して関係者に配っていたという
貴重なある物が登場。豊本人も「えーっ、知らなかった」と驚く。
バラエティーは緊張するという豊は、照れくささを感じながらも楽しい時間を
過ごしたようで、「32年といってもあっという間。どんなときもやっぱり自分は
恵まれていたなと改めて感じる。本当に多くの人に支えてもらってきた」としみじみ語り、父について改めて「ずっと僕の憧れの存在。もちろん一緒に遊んでもらった
わけだからいろいろな思い出はあるけど、やっぱり父が調教した馬でGIレースを
一度だけ勝った、それがすごくいい思い出」としめくくった。
そして「来年は50歳。新しい時代に入るし、僕はまだまだジョッキーを続けるので、自分でも想像できないくらいのいいことがあればと思う。
そのためにやるべきことはどんどんやっていきたい」と抱負も。
VTR出演の木梨憲武、ヒロミらからも意外な素顔が明かされる。
豊ジョッキーが乗ったイナリワンやオグリキャップ、懐かしい名前が出て来て
懐かしいです。そして、有馬記念のことを思い出します。
本当に、息子さん達が良いジョッキーになって、一番喜んでいたんでしょうね。
豊や幸ちゃんには、これからも騎手や調教師として頑張って下さい
ご冥福をお祈りいたします。
急逝の小林徹弥元騎手の妻 菜緒さんは親子モデルで活躍「大好きなお酒を少し飲みすぎてしまったよう」
夫の訃報伝える デイリー 2024.06.02
元騎手で2019年に引退した後は栗東・千田厩舎で調教助手を務めていた
小林徹弥さんが1日夜に亡くなったことが2日、明らかになった。50歳だった。
妻でモデルの菜緒さんがX(旧ツイッター)で「突然のことで、なんとお伝えしてよいのか…と戸惑っているところではあります」とポスト。「夫・小林徹弥が永眠
いたしました。生前応援していただいた皆さまありがとうございます」と報告した。
さらに「馬とお酒が大好きな人でした。大好きなお酒を少し飲みすぎてしまった
ようです。皆様お身体ご自愛ください」と、悲しみに暮れながらも訃報を伝えた。
菜緒さんは、インスタグラムでは3歳長男と親子モデルで活躍する様子などを
写真ととともに、記している。さらに、司会業、カイロプラクター、
ファスティング講師で活動。
5月28日に「はい、40歳になりました」と誕生日を迎えたことをつづった。
「これからも栄養、運動、学んだ知識をしっかり生活にいかして、
元気なフッ軽BBAAでいきたいと思いますと張り切っていた。
JRAの小林徹弥元騎手が50歳で死去
千田調教師「急すぎて何も言えません。昨日も仕事を…」
JRA通算383勝の小林徹弥元騎手が死去したことが2日、分かった。50歳だった。亡くなったのは1日深夜とみられ、19年5月に騎手を引退し、現在は栗東・千田輝彦厩舎で調教助手として働いていた。千田輝彦調教師は2日、京都11R終了後に
京都競馬場で取材に応じ、小林元騎手が亡くなったことを認め、「騎手時代は
一緒に競馬に乗っていたし、寂しいです」などと話した。前日の1日も朝も昼も
普通に仕事をしていたとして、突然の知らせにショックを隠せない様子だった。
「コバテツ」の愛称で親しまれた小林元騎手は、埼玉県出身で、93年3月6日に
栗東・目野哲也厩舎所属でデビュー。96年の読売マイラーズC(ニホンピロプリンス )で重賞初制覇し、99年エルムS(ニホンピロジュピタ)、01年京都牝馬S(グレイスナムラ)、02年シルクロードS(ゲイリーフラッシュ)、08年東海S(ヤマトマリオン)の重賞5勝を挙げた。毎年夏には北海道で騎乗しており、高配当を出す騎手として穴党から人気を博していた。99年と00年にフェアプレー賞を受賞している。
騎手時代の同期には飯田祐史調教師=栗東=がいる。
現役引退後は栗東・千田厩舎で調教助手を務め、昨夏には「千田先生は優しいし、
やりやすい環境を作ってくれています。何とか重賞を勝って、厩舎に名前の入った
調教ゼッケンを、と思っています」と語っていた。
千田輝彦調教師「(昨日は)朝も、昼からも、普通に仕事をしてくれていました。
これまでも普通に調教に乗っていたので、体調面に変化もなかった。
急すぎて何も言えません。騎手時代は一緒に競馬に乗っていたし、寂しいです」
奥さんや関係者のコメントを読んでも、理由が分かりませんが・・・。
3歳の息子さんを残して亡くなったのは?
当日は、別に変わったところがないかったという事は、衝動的にということ?
奥さんは、息子さんのためにも、心身ともに健康で仕事を頑張って下さい
ご冥福をお祈りいたします。
人の思考を低くしないで。中枢神経系を触らないで(味覚、記憶、難聴など)
人の後ろに憑かないで、憑依しないで。人をコントロールしないで
人の嫌がることはしないで、唇を痺れさせないで。顔や目を腫れぼったくしないで
人の感情やパワーを抑えないで。人の感情を持って来ないで、渡さないで
人のPCやスマホに侵入して、ハッカーみたいにしないで
ブログを書いている時、邪魔をしてこないで、自分で書いて。深夜に連絡禁止
いつもありがとうございます。
最後までお読みいただきありがとうございました