検証 戦争責任

 

一九三七年(昭和十二年)七月七日、蒸し暑さの残る夜の闇を、乾いた銃声が

貫いた。中国・北京郊外の盧溝橋。演習中の日本軍が発射した空包に対し、数発の

実弾が飛来したのだ。部隊集結の際、また十数発。八日未明、さらに三発の銃声。

牟田口廉也連隊長は、中国軍への反撃を指示した。

 

写真:南京に攻め込む日本軍
写真:南京に攻め込む日本軍

 

 

 当初、これが日中全面戦争につながるとは、多くの人は思わなかった。おばあちゃん

だが、一つ一つの判断と行動が錯綜 (さくそう) しながら、事態を膨らませていく。

天津の支那駐屯軍司令部では、八日未明、幕僚会議が開かれた。しかし、「当面の問題をいかに処理するかを議したにとどまり、何ら緊張した会議ではなかった」パンチ!パンチ!パンチ!

(『戦史叢書(そうしょ)』朝雲新聞社)という。

では、陸軍中央はどう反応していたか。

第一報が伝えられたのは七月八日早朝だった。参謀本部の石原莞爾作戦部長は、

武藤章作戦課長に「いま支那に手を出したらえらいことになる。事件不拡大、

現地解決の方針で行こう」と言い、同日夕、現地にその旨指示した。

 

この時から8年後の終戦まで長かったですが、今戦っている私たちも本当は、

もっともっと長い戦いが続いています(これから分かってきます)びっくり おばあちゃん 

 

しかし、武藤は、陸軍省軍事課長の田中新一とともに、内地の三個師団を派遣しようと準備に着手する。この二人の陸士同期生が、事件の拡大に大きな役割を果たすことになる。

当時、参謀本部戦争指導課長で、不拡大派だった河辺虎四郎 (かわべとらしろう) の

回想はよく知られる。

「柴山兼四郎 (しばやまかねしろう) 軍務課長は『 やっかいなことが起こったな 』と

電話をかけてきたが、武藤課長は『 愉快なことが起こったね 』と言っていた。パンチ!パンチ!パンチ!

一方では何とかもみつぶさねばと思い、一方では面白いから油をかけてやろうという違いがあった」

 

本当は、吹石一恵の母親の大叔母と大叔父が憑依し、言わされていた 物申す

 

不拡大を唱える石原の足元で拡大派が動き出していた。参謀総長は皇族の閑院宮載仁親王(かんいんのみやことひとしんのう)、今井清次長は重病。杉山元(すぎやまはじめ)陸相は積極論であり、九日の閣議に内地師団の派遣を提案したが、意思統一は難しかった。

それでも現地は解決への努力を続け、七月十一日午後八時には、北京で現地停戦協定が調印された。これで事件は局地紛争で終わるはずだった。だがそのわずか数時間前、東京で事態は大きくステップアップしていたのである。

近衛文麿内閣は十一日午後、内地三個師団の派兵を決定した。「事件が支那側の計画的武力抗日であることは疑いの余地はない。本日の閣議において重大決意をなし、

北支派兵に関し政府として採るべき所要の処置をなすことに決した」との政府声明を発表した。

なぜ、この段階で派兵が決まったのか。強硬派の一角の参謀本部支那課長永津佐比重(ながつさひしげ)「 塘沽 (タンク) の沖合に軍隊をのせた日本船が浮かぶことだけでも、事件は落着するんだ 」と言っていた。強く出れば中国側は屈するとみていたのだ。

石原も結局は派兵に同意した。石原はなぜ、武藤らを抑えられなかったのか。

石原は、もともと対ソ戦の準備が先だと考えていた。しかし、中国中央軍が北上しているとの情報を受け、作戦部長として、脆弱(ぜいじゃく)な現地日本軍の危機を無視できなかった。不拡大派の石原が動員準備を進めているのは「 真意がわからぬ 」と、

河辺が言うと、石原はしかりつけるように言った。「 貴公の兄貴( 河辺正三 (かわべまさかず ) 支那駐屯歩兵旅団長 )の旅団が全滅するのをおれが見送ってよいと思うか」。

武藤ら中堅幕僚の「下克上」の風潮は、石原が満州事変で自らまいたものだった。

下村定 (しもむらさだむ) 参謀本部第四部長は、煮え切らない石原について

「 反対だが仕方なく承服するといったふうだった 」と証言している。

支那駐屯軍は七月中に北京、天津地域を占領した。八月以降、関東軍参謀長の東条英機が指揮する兵団が察哈爾 (チャハル) 省に侵攻し、華北、内蒙古に戦火が広がった。

上海でも日中両軍が衝突した。

陸軍は、松井石根(いわね)大将を司令官とする上海派遣軍を送ったが、中国軍の激しい抵抗に遭い、柳川平助(やながわへいすけ)中将率いる第十軍を増援。中国軍は十月末に退却を始めたが、現地軍は中央が設定した進出線を越え、首都攻略一番乗りを目指して追撃戦に移った。松井を総指揮官とする部隊は南京を包囲。中国側は、司令官・

唐生智 (とうせいち) が脱出して総崩れとなり、十二月十三日に南京は陥落した。

南京攻略までの戦闘や敗残兵で混乱する掃討戦の過程で、捕虜の殺害や民間人への

略奪、暴行が多発した。この「南京虐殺」と言われる事件の犠牲者数については、

二十万以上や十数万といったさまざまな説が主張されてきたが、歴史家の秦郁彦氏は、実証的に検証した結果、四万人前後と推測している。

南京攻略部隊の暴状は日本にも伝わり、大本営は松井に対し、軍紀の維持を求める要望電を送った。略奪や暴行の要因は、糧を敵に求める補給軽視や手柄争いの強行軍、上海戦による敵愾(てきがい)心などが挙げられる。

秦郁彦氏は『南京事件』(中公新書)の中で、「全軍規模で軍紀が崩壊したのだから、責任は師団長、軍司令官レベル。特に問題になるのは最高指揮官松井大将の責任」と指摘している。

日中戦争は、主要都市の攻略のたびに軍部が「 これが最後の機会 」と言い張って、

膨大な予算と兵員増を要求し、泥沼化していった。おばあちゃん

参謀本部は、漢口、広東まで攻略すれば中国を支配できるはずとしていたが、

現実は見込み違いだった。実際、北京、上海、南京、徐州、漢口、広東など主要都市を占領したが、戦争終結の道筋はみえなかった。中国への派遣兵力は八十五万人

(三九年度)に膨れあがり、軍事予算は四一年度に百億円を突破してしまった。

中国の国民政府は、南京から撤退後、武漢を経て最終的に重慶に遷都し、

太平洋戦争終結まで抗戦を続けることになる。

 

吹石一恵もラストチャンスを逃したので泥沼化し、私に真実を暴露された ムキー 

そして、吹石一恵の母親と三女、長男にも代償を払ってもらい、次女とお母さんには

話をし契約書通り解決をしてもらいます プンプン おばあちゃん

 

 

停戦なき和平、空振り   日中戦争

 

三七年(昭和十二年)の盧溝橋事件以降、日本は参謀本部を中心に、戦争拡大に

歯止めをかけるための和平工作に乗り出した。戦闘の長期化で対ソ戦の備えが疎かになることへの懸念も強まっていたのである。そうした和平工作の代表例が、

ドイツのトラウトマン駐華大使を仲介役とする「トラウトマン工作」だった。

 

写真:第1次近衛声明の決定を報じる1938年1月16日付の読売新聞朝刊。「爾後(じご)国民政府を対手(あいて)とせず」。日本は日中戦争を早期に解決する好機を失った
写真:第1次近衛声明の決定を報じる1938年1月16日付の読売新聞朝刊。
「爾後(じご)国民政府を対手(あいて)とせず」。
日本は日中戦争を早期に解決する好機を失った

 

 反英感情が根強かった参謀本部は、ドイツの活用を考え、三七年十月下旬、

駐日ドイツ大使館付武官を通じてトラウトマン大使に陸軍の意向を伝えた。

中国市場の安定や対ソ牽制 (けんせい) 上、日中の早期和平を望んでいた

ドイツにとっても渡りに船だった。おばあちゃん

広田外相は十一月二日、先に決定した「支那事変対処要綱」に基づいて、

ディルクセン駐日大使に講和条件を伝えた。これを受けて、トラウトマン大使が

蒋介石 (しょうかいせき) を訪問し、日本側の意向を伝達した。

講和条件は満州国の承認を前提に、内蒙古の自治や華北の非武装地帯の設定などだった。しかし、日本の軍事行動に対する措置を検討するための九か国条約会議の成果に期待していた蒋介石は、これを拒否して工作は一時中断。ところが、日本軍が南京に迫る勢いを見せたため、和平工作に積極的に応じざるを得なくなった。

同盟通信上海支局長を務め、近衛首相のブレーンだった松本重治は回想する。

十二月初めの会談で、トラウトマン大使が「中国がこれに応じなければ戦争は続き、将来出される条件はこの程度ではすまなくなるだろう」と説得すると、蒋介石は

「日本は信用できない。しかし、今回の調停はドイツが調停したいという好意であると信じて、出された条件を基礎に交渉したい」と応じた。ただ、蒋介石は停戦すれば話はできるが、戦争しながら話はできない、と停戦に固執していた。

三七年暮れの南京占領を機に、日本は戦勝ムードに沸き、講和条件は一気につり上げられた。

占領翌日の十二月十四日の大本営政府連絡会議で、広田外相がディルクセンに示したものと同じ和平案を出すと、杉山元陸相、末次信正 (すえつぐのぶまさ) 内相らから

強硬な反対意見が出た。近衛首相は終始沈黙したままで、会議の結論は、満州国の

正式承認、北支での特殊政治機構設置など、中国側が受け入れられない過酷な条件となった。これで日中両国は和平のチャンスを失ってしまう。

蒋介石は和平交渉を拒み、徹底抗戦を選んだ。

三八年一月二日の日記には、「日本側の提出した条件は我が国を征服し滅亡させるに

等しい。屈服して滅ぶよりも戦って滅ぶほうがましである」と記した。

日本側が設定した回答期限は三八年(昭和十三年)一月十五日だった。

同日の連絡会議は、緊迫した空気に包まれていた。参謀本部の戦争指導班にいた

堀場一雄(ほりばかずお)の『支那事変戦争指導史』(原書房)によれば、交渉継続を

主張したのはただ一人、多田駿(はやお)参謀次長。これに対して、杉山陸相が「期限

まで返電なきは和平の誠意無き証左なり」と発言し、広田外相も、「永き外交官生活の

経験に照し、支那側の応酬振りは和平解決の誠意なきこと明瞭(めいりょう)なり。

参謀次長は外務大臣を信用せざるか」と多田に詰め寄った。

米内光政(よないみつまさ)海相も、「統帥部が外務大臣を信用せぬは同時に政府不信任なり。政府は辞職の外なし」と牽制した。多田は、「国家重大の時期に政府の

辞職云々は何ぞや」と涙交じりに抵抗したが、押し切られてしまう。

翌十六日、内閣から次の声明(第一次近衛声明)が発表された。

「帝国政府は爾後(じご)国民政府を対手(あいて)とせず」

広田外相は、ドイツに対してもトラウトマン工作打ち切りを正式に通告した。

広田は、同工作が一時中断していた三七年十一月上旬には、「ドイツやイタリアが

間に入っても、それはとても駄目である」と述べていた。

第一次近衛声明後も、三八年六月から宇垣一成外相の指示で進められた「宇垣・孔祥煕(こうしょうき)(行政院副院長)工作」など、数多くの和平工作が試みられた。

なかでも、最も注目すべきは「汪兆銘(おうちょうめい)工作」である。

陸軍の影佐禎昭(かげささだあき)、今井武夫らが、国民党の重鎮、汪兆銘に接近した。汪は、東亜新秩序をうたう第二次近衛声明に呼応して重慶を脱出した。

汪は、四〇年三月になって、日本軍占領下の南京に新政権を発足させた。

だが、蒋介石抜きの和平工作には限界があった。劉傑・早稲田大学教授は、「中国国内の権力争いの時代なら、蒋介石と汪兆銘による政権交代はあり得たが、日中全面戦争が始まり、対日抗戦の強い求心力となった蒋介石を下野させることはあり得なかった」と指摘する。

中国では、この時期の日本の「謀略」を、和平攻勢をかけて降伏に誘導する「誘降」という二文字で表現している。それは、「大規模な軍事衝突を避けるためのもので、

目的が真の和平でなく、中国の占領という謀略に過ぎなかった」(歩平・中国社会科学院近代史研究所所長)というのである。