鎌倉散策





源頼朝墓がある階段を下りて

再び階段を上ります。



  史跡法華堂跡(北条義時墓)





源頼朝墓の東側の平場で


平成17(2005)年に発掘調査を行い


建物の遺構が発見されました。




発見された遺構の位置が

鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』に記載された

頼朝墓からの方位や地形と一致したことから

遺構は北条義時が祀られていた墳墓堂

「北条義時法華堂」の跡であると

推定されています。











前回訪れたのは何年前になるでしょうか?


そのときは急な階段を上ることが可能でした。





北条義時墓の平場の北側には

2列の石段が並んでいます。

その石段の上には向かって左から

毛利季光(もうりすえみつ)

大江広元(おおえのひろもと)

島津忠久(しまづただひさ)

3人の墓所があります。


墓所はもともと古墳時代後期に造られた

横穴墓であったものを

江戸時代以降島津氏及び毛利氏が転用し

整備したものです。



  毛利季光の墓


毛利季光(生年不明〜1247年没)

鎌倉幕府の御家人で

後に長州藩主となる毛利氏の祖となる人物。

幕府の創設に貢献した大江広元の四男で

父の所領のうち相模国愛甲郡毛利庄を

相続したことから

毛利姓を称するようになりました。

季光は承久の乱(1221年)で武功を挙げ

幕府の要職である評定衆に就くなど

重用されました。

しかし、北条氏と三浦氏が争った

宝治合戦(1247年)で三浦方に付き

戦に敗れた三浦一族とともに

源頼朝の法華堂で自害したと伝わります。






  大江広元の墓

 

大江広元(生年不明〜1225年没)


鎌倉幕府の政所初代別当を務めた人物。


源頼朝の側近として


鎌倉幕府の創設に貢献しました。


公家出身の広元


鎌倉幕府と京都の公家との間の交渉で活躍し


頼朝の死後も北条政子北条義時とともに


幕府の運営を支えました。



広元の墓は毛利氏の祖・毛利季光


広元の四男という縁から


文政6(1823)年


第10代長州藩主毛利斉熙により


造営されました。






  島津忠久の墓


島津忠久(生年不明〜1227年没)


鎌倉幕府の御家人で


後に薩摩藩主となる島津氏の祖となる人物。


忠久の祖母が源頼朝の乳母だった縁から


頼朝に重用され平家追討などで活躍し


恩恵のひとつとして


南九州の島津荘の惣地頭に任ぜられました。


島津家には


忠久頼朝の庶子であったという説が


伝わっており


安永8(1779)年に時の薩摩藩主島津重豪が


源頼朝に近いこの地に


忠久の墓を造営しました。







  三浦氏が供養されているやぐら




3つの近世墓へと続く石段のふもと

向かって左手には

やぐら(横穴式の墳墓)があります。

宝治元(1247)年の宝治合戦で自害した

三浦氏一族の供養が行われています。










入口の灯篭

よく見ると毛利家の家紋がはいっています。








毛利家家紋






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