熱中症のため体調がピンとこないので クーラーで体の熱を冷やしながら prime videoで 鬼に訊けを見た
法隆寺宮大工棟梁西岡常一の遺言とも言えるべきドキュメンタリー映画である

いつかは見たいと思いつつすっかり忘れていたが 国際協力基金の映画イベントの中にこのドキュメンタリーの名前をみつけて思い出したのだった
残念ながらこちらのサイトは海外在住の方向けのサイトで日本からのアクセスは拒否されてしまった
それでもしやprime videoにあるか?と思って検索したらあったのでみる事ができた、、よかったよかった



西岡常一は1908(明治41)年に奈良県生まれた
幼少より祖父である棟梁・常吉により宮大工の手ほどきを受ける。生駒農学校へ入学し、土壌・肥料・林業など、農学を学んだ。父はすぐに大工の道を望んだが、祖父が「木を知るためには土から」という考えのもとから農学校に入ることになったらしい。後年「なんで農業?と思ったが結局あの時の学びで材木を見るだけでどこの産地かわかるようになった 義父は間違っていなかった」とドキュメンタリーの中で語っている。
卒業後は宮大工として戦前より続いた法隆寺修復に従事する。戦後の法隆寺金堂の消失はあまりに有名な出来事で、文化財保護法が生まれたりもした。その時に西岡の存在は有名になっていった。学者たちは新しい工法を勘案したが西岡は頑なに飛鳥時代からの工法を譲らなかった。「法隆寺には鬼がいる」と言われ出したのはこの頃らしい。次に法起寺三重塔の修復を手がけるがやはり工法で文部省と対立、とうとう譲りきれずに法隆寺宮大工棟梁の座を辞してしまった。その後は薬師寺伽藍再建を願う薬師寺の高田好胤から招聘を受け、薬師寺金堂・西塔などの再建を棟梁として手掛けていった。1992(平成4)年、宮大工として初の文化功労者に選ばれた。、1995(平成7)年4月11日、薬師寺伽藍の完成全容見ずして86歳でこの世を去った。すでに現場に立つ事がなくなっていた西岡は薬師寺棟梁の座を辞そうとしたが、薬師寺管長よりの棟梁のままでと進言に涙したという。飛鳥時代から受け継がれてきた寺院建築の技術を後世に伝えた功績は今でも燦然と輝いていて“最後の宮大工”とも称されている。


この写真は後年のもでいかにも好々爺だが とても気骨のある厳しい人だったらしい


西岡の道具


道具から自分で作ったそうです


ドキュメンタリーの中でも多く出てきますが 西岡常一の名言は 古建築にとどまらず 人生そのものにも通じる奥深いものが多いです