中山世譜序
 私は、「夏、殷、周の三王朝では、徳によって民を感化する政治を執り行ったので、天下の人々は褒め称えたのだが、それが衰えてしまったら、政治を行う者が天に背き権力を乱用して私腹を肥やした。そうして多くの民に深い悲しみと不満が生じたのだ」と聞いている。全て自然にそうなったのだ。或いはこれをきっと天の為せるわざと言うのであろう。
 『書経』は、「君主が、自ずから君主の勤めを果たすものであることは難しく、臣下が、自ずから臣下の勤めを果たすものであることは難しい」と説いている。
 『詩経』は、「天の威光を畏れれば、国を保つことができる」と説いている。
 しかしその考え方は衰えている。
 考えると我が国は、天孫氏が国土をお開きになってからこのかた、あるものが盛んになったかと思えばすぐに滅び、安きと危うきとは一定ではない。
 成化年間(一四六五年~一四八七年)、我が始祖王の尚円は、御鎖側官の時に、謹み深く天命を授かり、国の基礎を起こして後世にお伝えになった。国王は国内の三府三十六島を分け隔て無く等しく愛されたので、遠い所と近い所とに違いは無い。それよりこのかた、賢明な君主と忠良な臣下とが力を合わせて、気を配りながら国を守り、天を恐れ謹んで気を緩めることはなかった。
 あの大いなる清王朝が、帝業を樹立するに至って、学問や教育による感化はさらに広く行き渡り、優れた臣下や才能ある人は一層忠義を尽くし真心を込めて勤めた。
 そこで政務の合間に、国譜を編纂して全て完成した。王の一族と位牌の並び及びその親しさと遠さとを、これによって遡ることが十分に可能となった。王朝が盛んになって栄えたことと廃れて滅びたこと、その善事と悪事とを、これによって考えることが十分に可能である。
 同じく、子孫に国譜の頁をめくらせて、読む者に謹み恐れる戒めの心を持たせ、雲が湧き起こるような心持ちで主君に仕え、親に仕えるべき正しい道を盛んにさせようではないか。これは確かに国家の大いなる教訓なのである。古の人は、「平和な世と方法を共にすれば繁栄するし、動乱と行動を共にすれば亡んでしまう」と説いている。思うにこの一言は、行き届いていて欠けるところが無い。どうか、その本質を敬いたいものである。
 始祖の尚円は国の礎と深い配慮とを後世にお伝えになった。我々は今の世に在って昔の事柄を調べ、我が身を修め人々を教え導くのだ。主君と臣下の行うべき正しい道をそれぞれに尽くし、永遠に天下がよく治まり、和らぐ幸いの時代を保とうではないか。これもまた、子孫に望むところなのだ。
 雍正三年(一七二五)二月上旬に記した。