侍従長「台風が去ってようございました」
昭陛下「…まだ、東北、北海道地方はこれからである」
翌朝と言ったな、あれは(ry
奔太です
ちょっと間に合いませんでしたが
暇を見つけてちょこちょこ書いていきます
では奔太お仕置き企画最後の記事です!
なんのこっちゃという方はどうか前の記事を見て下さい
ではどうぞ!
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1989年1月7日
この時、一人の偉大なお方が亡くなられました
昭和天皇陛下その人です
今回はこのお方がどんな人物だったのか?
どんな人柄だったのかを
当時の国際情勢を交えて振り返ってみましょう
終戦前。大日本帝国時代
大日本帝国時代の憲法では国民主権ではなく天皇主権となっております
つまり事実上の最高権力者です
国の運用や活動に大いに影響を与えることが出来ます
ですが昭和天皇陛下は方針を示すことはしますが、
あとは皆に行動を一任し、あまり口出しはしないようにしていたようです
ですが陛下が自分の意思を貫いた時が2度あります
2・26事件鎮圧
軍事クーデターの鎮圧になかなか動かない陸軍を叱咤し
「軍が動かないのならば私が近衛師団を率いて戦う」
と発言し陸軍を慌てさせた。この発言により、陸軍は速やかに鎮圧へ向かった
ポツダム宣言受託
一部の反対を押し切り、陛下がポツダム宣言受託を決断されました
のちに昭和天皇自身がこの二つの時だけは自分の意思を通したと振り返っています
アッツ島のエピソード
アッツ島上陸後、陛下はこの地の守備隊の模様をいたく気に入り、
毎日のように戦況を御下問されていらっしゃいました
アッツ島玉砕の日、同地から電報が届きました
電報「機密書類全部焼却。是レニテ無線機破壊処分ス」
陛下「アッツ島守備隊はまことに良くやってくれた。そのことを伝えよ」
大臣「恐れながら陛下、彼らは無線機を既に破壊しており、お言葉をお伝えする手段がございません」
陛下「構わぬ。それでも構わぬから、そういう電報を発してやってくれないか」
ちなみに上の電報を当時の暗号で「サクラサクラ」というらしいです
「サクラサクラ」という言葉を発したら、彼らは死にに行くのです
終戦後。日本国時代
敗戦直後は原爆などの影響もあり、まだまだ食料不足が深刻で
国民たちは飢餓に苦しんでいました
陛下はそんな国民たちを元気付けるために
激務の中、日本全県を巡幸なさります
終戦後は象徴となった陛下は行く先々で人々の心を震わせていたようです
マッカーサー「天皇を戦犯から外せ」
終戦直後。
マッカーサーのもとに昭和天皇が訪問なさった時のこと
マッカーサーは最初、国外逃亡を頼みに来たのだろうと思って
席から立たずにパイプを加えたまま昭和天皇と対面しました
しかし挨拶を終えた後の天皇の言葉に予想は裏切られました
「私は、戦争の全責任を負う者として、あなたの国の裁決にすべてをゆだねます。ただ、国民は住む家もなく、着る物も不自由し、 食べるのもままならぬ状態です。どうか、この国民の衣食住のみはご高配賜れますように・・・」
つまり私のことはどうなってもいいから国民のことは助けてくれとおっしゃったのです
この言葉にマッカーサーは骨の髄まで心動かされたと語っています
西洋では王とは国民から財を搾取するもの、私服を肥やすものでした。
ですから国民に殺されたり、財を持って国外逃亡などが当たり前だったのです
だからこそ西洋では長い歴史の中で王政から議会制へと変貌していきました
ですが天皇は違いました。むしろ真逆のことを行ったのです
マッカーサーはこの後に本国に「天皇を戦犯から外せ」と要求
この電文の文章は半ば脅迫に近いものだったようです
英雄とのディナー
ある日A級戦犯判定を受けた者に天皇陛下が
ディナーのお誘いの手紙を送りました
「私はA級戦犯という大罪人です。天皇陛下とお食事を共にする資格はございません」
この返答に対し、昭和天皇はこう返しています
「米国にとっては戦犯なれども、我らにとっては英雄である」
何十年ぶりの再会
ある日天皇陛下と上野村の村長がお会いすることがありました
実はこの村長さんは第2次世界大戦の生き残りで昭和天皇を知っていました
ですが大演習の視察に訪れた天皇に対し、こちらはたくさんいる新米仕官の一人
さすがに覚えてらっしゃらないだろうとその事には触れずに会話をしていると
陛下が村長の顔をじ~っと見つめ、
「ひょっとしてあなたは、○○年の海軍大演習のとき、戦艦霧島の艦橋にいなかったかね?」
と仰ったそうです。
数十年前のちらりと顔を合わせただけの自分を覚えていて下さったことに
村長は感激で胸が一杯になったそうです
マッカーサーの男気
終戦後、昭和天皇陛下は日本国民の飢餓問題に非常に胸を痛ませておられ、
「皇室の御物の中には国際的価値のあるものが相当あるとのことだから、これを代償としてアメリカに渡し、食糧に代えて国民の飢餓を1日でもしのぐようにしたい」
と目録を作り始めました。しかしこの話を聞いたマッカーサーは
「御物を取り上げてその代償として食糧を提供するなど自分とアメリカの面目にかけてもできない」
とアメリカ本国に緊急食料支援を要求
このおかげで日本の食糧問題は大幅に緩和されたようです
そして1975年、陛下は念願の訪米を実現され
この時の感謝の念をアメリカ人民たちに述べ、
アメリカの人たちはおおいに喜んだといいます
昭和天皇の最後
昭和天皇は病床のとき、「もう、ダメか?」と問われました
医師たちは初め自分の命のことだろうかと思ったのですが
それはまだ巡幸出来ていなかった沖縄訪問は「もう、ダメか?」
という意味だったのです。
巡幸最後の地、沖縄訪問は平成5年に今上陛下の手によって果たされています
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さてさて、いかがだったでしょうか
昭和天皇陛下のエピソード!
実はまだまだ天皇陛下を狙う暗殺者が号泣して改心したりとか
米国・中国の指導者が陛下を前にして体の震えが止まらなかったりとか
たくさんのエピソードがありますので、気になった方は是非調べてみて下さいね!
というか、体の震えが止まらないって少年漫画的展開みたいだ……(ノ´▽`)ノ
自分のこの記事
見返して思いますが、本当に文章だらけで読みづらいですね
最後まで読んでくださった方ありがとうございました
最後まで読めなかった方、もう少し腕を磨いておきます(TωT)
コメント返しは夜にさせて頂きます
ではでは皆さんまた夜に!
ノシ