みなさん、こんにちは
あかまるです
今回は、つい先日でた病理検査の結果と、これからのライフプランについてお話したいと思います。(ボリュームのある内容になりますので、お時間がある方はお付き合いください)
まずは病理結果から
・グレード:NETG1
・Ki67指数:1.4%
・核分裂像:1/10HPF
・腫瘍径 :18mm
・占拠部位:膵頭部
・脈管侵襲:なし
・肝転移 :なし
今望める中で、最高の病理診断だったと思います。
私の場合は、当初肝臓への転移も疑われていました。
追加検査の結果、肝臓に画像上うつっている転移かもしれない腫瘍は「良性腫瘍(脂肪の沈着や血液の濃淡など)」の可能性が高いということで、手術に踏み切りました。
ただし、「もしお腹を開けてみて肝臓の腫瘍がNETの転移だと術中に分かった場合は、膵臓の原発も切除せずにお腹を閉じます」と術前のICで説明を受けていました。
ですので、手術ができるようになったことは喜ばしいことでしたが、「もしお腹を開けてすぐ閉じられたらどうしよう」という不安と恐怖がずっとつきまとっていました。
後から聞いた話なのですが、麻酔から目覚めてすぐ、手術室にて「ちゃんと膵臓は切除できたのか、肝臓はどうなったのか」と主治医に何回も聞いていたようです。(私は寝ぼけた状態だったため、自分の発言を覚えていませんでしたが…)
良性腫瘍の可能性が高い肝臓の腫瘍も、念のため病理に出すとのことで切除してもらったので、私の場合は「膵肝同時切除」をしたことになります。
きちんとした病理結果がでるまでは肝臓の病変のことが一番不安だったので、肝臓に(今のところ)転移がなかったという点が一番嬉しかったのと、最初の方に検査で行った針生検の結果ではグレードがG2だったので、術後の病理結果でG1との診断がついたのは喜ばしいことでした。
今後は、最低でも5年の経過観察が必要との説明を受けました。
ガイドラインにも記載があるように、腫瘍径やグレードに関係なく転移する場合があることも事実なので、今回の手術で根治したのかは数年後あるいは数十年後にしか分からないかもしれません。
しかし、せっかく手術をして助けてもらった命ですので、この経過観察の期間、ずっとビクビクしながら過ごすのはもったいないですよね。
32歳、まわりの友人は仕事でキャリアを積んでいる人や子育てを頑張っている人など、みんなそれぞれ活躍しています。
私も、病気になったからといって、今後の人生のいろんな選択肢を全て諦めてしまうことはしたくないと思うようになりました。
つづいて、これからのことを…
病理結果もでて、術後2か月が経ち、闘病生活は一旦一区切りついたような気がします。
どん底の時期から比べると、精神的にも体力的にも少し余裕がでてきて、先のこと(病気以外の未来のこと)を考える余裕がでてきました。
仕事は、今は休職しているのですが、今月末で退職することにしました。
理由は、他にやりたいことが見つかったからです。
今現在は、医療関係の事務の仕事をしています。
この仕事に就いた理由は、「福利厚生が充実していること」と「土日休みで定時で帰れる」ことでした。
というのも、前職が多忙すぎたため、結婚を機にワークライフバランスを充実させたいと思ったからです。
医療系の仕事は未経験でしたが、この仕事に就いていたからこそ、職場の健診が充実した検査項目を無料で受けられる環境(人間ドック並)で、腹部エコーにて今回の病気が見つかったことや、高額療養費の仕組みや多少の医療知識がついていたことも今回の闘病生活に役に立ったので、今の職場には感謝しています。
そして、やりたいことというのが、「院内学級の教員」です。
前職は教員でした。
私の簡単な経歴としては、大学→留学→海外での社会人経験を経て、帰国後に教員となりました。
ですので、私が今までやってきたこと(専門分野)といえば、「教育」と「語学(主に英語)」です。
遊園地付近の学校で、赴任当初は「毎晩花火が見られるなんて、なんて幸せなんだ!!」と喜んでいたのですが、次第にその花火の音が「◯時の時報」と化し、「あぁ、まだ次の日の授業準備が終わっていない…部活の朝練の準備もしていない…あれも終わっていない…これも終わっていない…」というように、どんどん体力と気力が奪われていきました。
こどもたちはもちろん可愛かったのですが、保護者との関わりに苦労することも多かったです。教育熱心な保護者が多いエリアの学校でしたので、通知表を渡す日には、電話がかかってくることもありました。「なんでうちの子が3なんですか!?!?!?怒」と…(^^;
そんなこんなで、一度は教員の仕事から離れてしまったのですが、自分がもう死ぬかもしれないと思った時期に、今までの人生を振り返ったら、教員時代に関わったこども達のことを強く思い出しました。
そして再認識したのが、「あぁ、私は子供たちに関わる仕事が好きだったのだな」と。
自分に残された時間が少ないのならば、何か自分が「生きた証」というか、社会貢献をして余生を過ごしたいと思うようにもなりました。
教員時代のことで思い出した具体的なエピソードを少し…
私は英語の教員だったのですが、私の授業では、毎回一番最初に洋楽を歌うようにしていました。生徒からリクエストを募り、毎月違う曲を。
あまりにも不適切な歌詞の内容でなければ、流行りのノリノリ系の曲も採用していました。(他の学年の英語の先生からは、授業でそんなノリノリの曲を歌うのはどうなのか?というご意見や、隣の教室で授業している他の教科の先生から、英語の曲がかかるとこっちの生徒も口ずさみだして集中しなくなって困る!などという辛辣なご意見もありましたが華麗にスルー笑)
授業中、どうしても歌ってくれない男子生徒がいました。そりゃあ、思春期真っ只中の男の子ですから、歌うのが恥ずかしい、格好悪い、という気持ちは十分に理解していました。あまり無理に歌うようには強要せず、少し様子見といいますか、見守っていたとある日、その子のお父さんが学校に用事があっていらしていて、少しお話する機会がありました。
そして、こうおっしゃいました。
「先生、うちの子、お風呂場でいつも英語の歌を気持ちよさそうに歌っているんですよ。聞こえてくると、こちらまで嬉しくなります。」
(私の心の声:よっしゃぁあぁぁあああ!!!かわいいなぁ)
授業で歌えなくても、ちゃんと覚えて歌っているなんて、なんて可愛いのでしょう。少しでもその子に影響を与えられたのかなと思えたら、それで十分だと思えました。(もちろん、授業で歌ってくれるに越したことはないですが)
別の生徒から言われた言葉です。
「先生、テストの文法の並べ替え問題、正直文法の構文忘れて分からなかったんだけど、歌っていた英語の歌に似ている歌詞があって、それを覚えていたから並べ替えられたよ!」
(私の心の声:よっしゃぁあぁぁあああ!!!それを狙っていたのよ)
特に思春期の時期は、授業で英語を話すなんて恥ずかしいと思いがちなんですよね。その壁を崩すためにも、授業の一番最初に発声練習的な目的として歌ってもらっていたのと、歌詞の意味全部は分からなくても、なんとなく感覚で口ずさんでいた歌詞を覚えていることによって、文法の知識がなくても分かることってあるんですよね。
そんなエピソードを思い出し、また教員に戻りたいなと思うようになりました。
そしてさらに、今回「病気」になったことさえもプラスに活かせればな、と。
そんな時に、通院してる病院で「院内学級」をみつけました。
院内学級とは、病弱に当たる子どもだちが、入院中に教育を受ける機会を提供される教室のことです。
「これだ!!!」と思いました。
一般的に考えれば、「希少がん経過観察中の人間」は就職する際にそれが不利になることもあると思います。もちろん、雇う側としては「健康で長く働いてくれる人」を採用したいのは当然のことだと思いますし…
しかし、だからといって諦めたくないんです。
教育の専門用語でいうと、院内学級は「病弱領域」といって、専門的な知識も必要になります。
特に小児の疾患は、頭から足の先まで多岐にわたっているので、各生徒の疾患を理解した上で適切な教育を提供する必要がありますし、そもそも病弱領域の教育は少し矛盾が生じてしまう特殊な環境になってしまうので、扱いが難しくもあるようです。
本来、教育というのは、「できなかったことをできるようにする」サポートをすることだと思うのですが、病弱領域の子どもの中には、「今までできていたことができなくなってしまう」という状況になってしまう子がいることも事実です。
そんな子どもたちに、どう関わっていくことができるのか…
少なからず、希少がんに罹患した経験から病人の気持ちは(ずっと健康できた人よりは)理解できるはずなので、私にしかできないアプローチで社会の役に立ちたいな、と考えているところです。
最近は、毎朝自宅から図書館まで歩き、教育や疾患に関わることを勉強したり、カフェでお茶休憩をしたり、のんびりと療養しています。
1年くらいはインターバル期間と位置付けて、旅行したり、勉強したり、好きなことをして過ごそうと思っています。
長々と書いてしまいました。
最後までお付き合いいただいた方、ありがとうございました。
今回はこのへんで失礼します