普段、搾取され、利用されるどうぶつにも、我々人間と同じように「感情」も「命」もあります。
ブタにも感情があります。
ブタは人間の事を信頼してます。
それなのに、人間はブタをと殺して食べる。
ブタにひどい事をする。
感情も命もあれば、痛みも、苦しみも感じます。
ウシにも感情があります。
それなのに、人間はウシをと殺して食べる。
牛乳のためにウシの親子を引き離す。
感情も命もあれば、悲しみも、恐怖を感じます。
と殺に怯えて泣くウシです↓
ニワトリにも感情があります。
ニワトリは人間の事を信頼してます。
それなのに、人間はニワトリをと殺して食べる。
品種改良等で苦しめる。
殺処分する。
普段、「美味しい」と思って食べてる肉。
肉にされるどうぶつにだって「感情」も「命」もあります。
感情も命もあれば、嬉しさも、喜びも、楽しさも、仲間を思いやる心も、痛みも、恐怖も、苦しみも、辛さも感じます。
「いただきます」「ごちそうさま」を言って、感謝すれば良い、そう思ってる方は、自分だったらいただきますやごちそうさまを言われ、感謝されれば、殺されて食べられても納得行くんですか?
どうぶつだって、我々人間と同じように一代限りの命なんです。その一代限りの命を、人間に利用された一生を過ごす。
と殺され、お肉にされ、食べられた後にどうぶつの命が戻る訳じゃ無いんです。
我々人間が「生きていたい」そう思うのと同じように、どうぶつも人間に利用される事無く、ただ「生きていたい」そう願ってるんです。
それを、いただきます、ごちそうさまと言う言葉で片付けて奪ったり、「どうぶつだから別に良い」「人間の命に繋いでるからどうぶつだって嬉しい」そう思わないで欲しい。
そう思う人は「じゃあ、自分だったら。」と一度考えてもらいたい。
家畜に産まれてしまったどうぶつは生きる事すら許されない。産まれてから、と殺されるまで自由すら与えられない。
習性に考慮してもらえず、人間の都合の良いように飼育される。
肉を買うと言う事はこのどうぶつの苦しみにお金を払う事と同じです。
人間は肉(肉の他にもどうぶつ由来の食べ物も)を食べなくても生きて行けます↓
つまり、「美味しい」と言う欲望のためだけに、どうぶつを殺して、食べてる事になります。
欲望のためだけに、命あるどうぶつを殺して食べないで欲しいです。
私は、身近な犬猫は愛して置きながら肉を食べる人が「私はどうぶつが好きです。どうぶつに優しい人です。」そう言ってるのをよく見かけますが、本当に優しい人は、本当にどうぶつが好きな人は、どうぶつを食べません。
肉を食べてる人が自分はどうぶつ好きだとは言わないで欲しい。
私はどうぶつを食べません。なぜなら、どうぶつが好きだからです。
身近で可愛い犬猫は愛し、殺処分や販売をを反対するのにブタ、ウシ、ニワトリは食べる。
なんで、産まれて来たのに殺されなきゃならないのでしょうか?
なんで、こんな差別が簡単に出来るんでしょうか?
どうぶつが苦しみ、命が奪われ続けるか、それとも、どうぶつが解放されるかは一人一人の選択にかかってます。