鏡の法則について

思うことを下書きしていたら


愛読させて頂いてる方々が

鏡の法則について

次々とUPされた事もあって

今更感を感じてしまっていたのですが



わたしの表現で、感じた事、

体験した事お伝えすることで

どなたかの気持ちがちょっとでも

軽くなったらいいなぁ。と

やっぱり思うので


自分の表現で書かせて

頂きたいと思います。


遅くなってすみませんでしたお願い




わたしが鏡の法則を

意識し始めたのは10年近く前のこと。


当時始めたばかりのamebloで

スピリチュアルなお話を

たくさん読ませて頂いていました。


外側の現象は全て

自分の内側の反映。


と、いう内容のお話を

当時たくさん読ませて頂いて、



自分の心の内側をみつめ、

外側の現象と照らし合わせる。


という作業を日常的に

習慣化させることを続け、



自分の心と向き合い続け

それは、自分である。という事を

認めたくない気持ちと戦い、



認めざるを得なくなって


一年近く経ったある日、



ああ、本当だな、、、。


今まで、不愉快な事は全て。


外側のせい、


他人のせい、


環境のせいにしていたけど、



すべては自分の心が

そう、させていた事だったんだ。と、


ある日、突然に。


それまで起きた出来事が

全て心の中の表れである事が

「確信」に変わり、


オセロが黒から白へ

カタカタと音を立てながら

ひっくり返るように、

価値観が反転し


これまでの全てのことに対して

感謝が湧き出るような

心の癒しが起こり


感涙の涙と共に

何とも言えない幸福感に

包まれました。



なぜ、わたしが

父と母を選んで生まれてきたのか、


その時にはっきりと自覚しました。


祝福、感謝の気持ちが

内側から溢れ、


もう、これまでの人生に

なにも悔いはない。と

思えるくらいに至福な瞬間でした。


この気持ち、を、知りたかったから、

両親を選び、


劣等感を植えてもらったのだ、と

理屈抜きにそう思いました。

 


向き合い始めは、

認めるのが辛いけれど

認めてしまえば

だんだんと楽になって


心も身体も、

健康になってゆきました。




自分の心と

向き合い始めたばかりの頃は


外側の現象を自分の鏡である、

ということを認めるのが苦痛でした。


わたしはこんなふうにしない。


こんな酷いことを言ったりしない。


こんな嫌がらせするなんてひどい。



物事をそんなふうに捉えて

それが自分が出したものの

「反射」であることを

認めようとしませんでした。



それでも、自分の心の中を

見つめつづけると、

やっぱり認めるざるを得ないのです。



自分が出したものが

ただ、ただ、

還ってきているだけなのだ、と。



その時はまだ出来事が

思うようにいかない事ばかりで

外側の出来事にたくさんの

不平不満を持っていました。


気に入らない人を心の中で攻撃し、

社会問題も自分を苦しめている原因と

決めつけていて、


気に入らない事はすべて、

誰かのせい、環境のせい。


顔では笑っていながら、

心の中で毎日外側の誰か、

何かを攻撃して

毎日戦争でした。


その時の心の中の割合を覗いてみると



YES=穏やかな自分

楽しいこと、嬉しいこと、

肯定的なこと=約30%




NO=攻撃的な自分

嫌なこと、腹立たしいこと

否定的なこと=約70%



心と身体は繋がっているから

こんなに毎日心の中で

戦争をしていれば

身体にも攻撃の刃が

届かない訳がありません。


この頃は体調も悪く、

ひと月のうち、20日位は

体調不良でした。



外側の現象と心を照らし合わせる。


外側の現象と心の中を照らし合わせ

始めた時に

気をつけていた事は


外側で起きた事に対する

「自分の心の動き」を

見る。ということ。


何に対して、

どのような反応を示したか。

を、


もう1人の自分が客観的見つめます。



心が動いた時、、、。


誰かや何かを攻撃したくなったり、


誰か、何かを悪者にして

自分は悪くない、と

ひとのせい、何かのせいにする時。


言い負かせて、

相手よりも上に立とうとする時。


自分の正当性を主張したくなった時。


そんな心の反応があった時には

しばらく気持ちが落ち着くまで

気分転換をします。



自分のこころの動きを見ている

もうひとりの自分は、


「わたし」の心が

どのように動いても

それに対して良い事だとか、

悪い事だとか、

評価をする事はありません。


心の動きを観ている

もうひとりの自分は


肉体から離れて

上からそれを観ている、


どんな演技も決してNoと言わない

寛大な映画監督、


みたいな感じ。笑


それに対して、肉体を持つ

演者である自分は、

泣いたり笑ったり、悲しんだり

自分の演技や他人の演技に

ダメ出しをしたりしますが、



心が動いた時。

その現象に目を向けて

心の中でその人のアレコレや

現象に物申すのではなく


気持ちが落ち着いた頃に

改めて、その時の「気持ち」

を振り返ります。


決してNoと言わない映画監督は

わたしに向かって、こう言います。


「そんな風に感じたんだね。」

そして、


「どうしてそんな風に感じたのかな?」


「本当はどうして欲しかったのかな?」


という、じぶんの心のモヤモヤに

目を向けさせてくれます。


「どうして欲しかったのか」


その答えを自分の中に見つける事は

決して楽しいことではなく

はじめのうちはそれを認めるのが

とても苦しかったりもします。


でも、認める事が出来たら

自分の心と向き合うにつれて、

だんだんと楽になってゆきます。


自分の心と、外側の現象を

照らし合わせる時

注意することがあります。


①被害者意識と加害者意識はおなじ

②拡大鏡である

③時間差がある

④すべてを時空を超えた

自分であると自覚する。

⑤事柄に注目するのではなく

その時の心の響きに注目する。



被害者意識と

加害者意識は同じ

一見違うように思いますが

どちらもお互いを否定する意識です。


どちらも、出している心の響きは

とても似ていて、

どちらの心にも嫌悪や憎しみがあります。


②拡大鏡である。

自分は、そこまでじゃない。という

言い訳をしながら、それを否定し続けると

拡大鏡がどんどん大きくなります。

大きくなりすぎると、

認めるのも難しくなるので、

もはやその響きが

自分で出したものである事に

気付けなくなったりします。


周りを良くみると、

文句を言っている人が

自分を棚に上げて

相手に対する文句を言っていて


本人がそれに気付いていない

と思う事、あると思いますが、


自分を棚に上げている事に気付かない。

後からその事に気づいて

恥ずかしい気持ちになる。


自分も過去にそういう事が

よくありました。


今は「自分を棚に上げている自分」を

すぐに発見出来るようになったので


誰かの行ないについて

何かを言いたい(言ってやりたい)

という気持ちが起きた時は

自分を振り返るきっかけになっています。


寛大な映画監督

(もうひとりの自分)は


そんな自分もただただ、

観ているだけで

ダメ出しはしません。



大きい、小さいは関係なく

「その、響き。

私も過去に放出していたな」

と気付けると、


映画監督の自分の視点と

肉体をもつ演者の自分の視点が


だんだんと重なってくる事が増えて


拡大鏡が目に映る事があっても

心が反応する事がだんだんと

なくなってゆきます。



③時間差がある

なぜ、どのくらいの時間差が

あるのかは分からないけれど

自分の放出した「響き」

が還ってくるのに

時間差がある時と、

ほぼない時があります。


今、自分が放出した響きは

ほぼ同時に還ってくることもあれば

未来に還ってくる事もあり、


また、今放出している響きによって


「過去の解釈」が変わったりします。


「今」自分がどんな響きを

放出しているかによって

未来に還ってくる響きが決まり

過去の出来事に対する受取り方も変わる。


自分が発する響きは

大きく分けて肯定と否定の

2つの響きがあり

肯定(愛/感謝/祝福/喜び/慈しみ/平和など)

否定(憎しみ/嫌悪/嫉妬/恐怖/不安など)


今、自分がどんな響きを

発しているか、を意識する事で、

後のその反響がどんなものになるかを

予想する事も出来ます。


自分が放出した肯定感情、否定感情は

例外なく、

自分に還ってきます。

自分は放出していないのに、

「否定感情の流れ弾に当たる

(=心が反応する)という事は

ないと感じています。


心当たりがないのだとしたら

自分が放出した否定感情を忘れているか、

意識していないか。


心の中をサーチライトで照らしても

見つからないのであれば

その始まりはもしかしたら、

自分の記憶にないもの、

受け継がれた肉体から発せられた

響きなのかもしれない。


それも含めての時間差、と

私は解釈しています。


④すべてを時空を超えた

自分だと自覚する

この感覚は文字にしてみると

傲慢さも感じるけれど、


自覚しよう、

と思ってそうなるのではなく


自分が発したものを響きや音、

色などに変換してみると、


その欠片は現在過去未来

あらゆるところに、時空を超えて

散りばめられているように感じるため、


自分の内側を見つめ、

発する響きに目を向け続けると、


その事を自覚させられる

という方がしっくり来る気がします。


⑤事柄に注目するのではなく

その時の心の響きに注目する

外側の現象に目を向けすぎると、

自分の心の変化に気付きにくく、

自動思考に陥りやすい。


外側の現象に心が影響を受けやすい

サイクルが繰り返される事もあるので


その時の現象、事柄に

注目するのではなく、


その時の自分の心の響きに注目し、


自分が今何を感じているか、

自覚的になることで


サイクルを断ち切るきっかけになったり

結果的に楽になったりします。

自動思考とは




鏡の法則は

自分の発した響きと同じ(似ている)響き

を、持っているものが受け取り、

それを反響させることで


お互いを写し合う「鏡」

のように感じるもの


いつかの自分との、

響きのキャッチボール、

みたいなものだと感じています。



自分のこころ、その響きと

向き合い続ける事で


わたしは心の平和を取り戻し

自分や誰か(何か)を責めたりする

気持ちもなくなってきました。




誰かの心が

少しでも軽くなって


誰かがこころの中での平和を

取り戻したら


きっとその波紋は広がり


世界の端で泣いている

いつかの誰かにも、きっと届く。


争い合う気持ちを卒業したら


誰も攻撃する必要がなくなる。



自分が鏡に向かって

笑うことができたら、


自分の世界は

笑顔を返してくれる。


思いやりが溢れる世界。

 

そんな世界が波紋のように

広がったらいいな。。。


という想いを込めて。





この記事はなかなか

筆が進まなかったのですが


あるお方の記事をキッカケに

背中を押して頂き、


その方が持つ、誠実さや

温かさにチカラを頂いて

改めて筆を持つことが出来ました。


ありがとうございますクローバー虹




お読みくださった方

ご登録くださった方


ありがとうございます!


みなさまにますます素敵な出来事が

たくさん舞い降りますようにニコニコクローバー虹ラブラブ