答志島の和具集落から北の答志へ向かう坂の上に鎮座する美多羅志神社です。
和具から北へ坂を登り、保育園に突き当たった左手が美多羅志神社と潮音寺の入口となる。
江戸時代には潮音寺の境内に神社があるという関係だったようだ。
美多羅志神社入口。参道には三基の鳥居が建つ。
一の鳥居が昭和五十五年建立、三基の鳥居の中では一番新しい。
二の鳥居が昭和十四年建立、「山田市 石友製」の銘。
山田市は福岡県の中部に2006年3月まであった市で、現在は嘉麻市(かまし)となっている。
隣に建つ標柱にも「山田市岩淵町 岩本石材店 謹刻」と銘があった。
なぜ遠く離れた九州の、しかも内陸の土地から石材を手配したのか不思議だ。
山田市は筑豊地域ということで、島内から炭鉱への出稼ぎなどで縁があったのだろうか。
追記:
にしさんからコメントで、ここに書かれている「山田市」は宇治山田市(現伊勢市)のことではないかとご指摘を頂きました。
詳細は返信に書きましたが、調べてみると確かに宇治山田市のことを略して「山田市」としているようです。
上記は訂正させていただきます。
にしさん、ご指摘ありがとうございました。
白く塗られた三の鳥居は昭和三十四年建立。
鳥居の建立がほぼ二十年間隔となっているのは、美多羅志神社が伊勢神宮と同じく二十年毎に遷宮を行っているからだろう。
三の鳥居と、神橋?のみたらしばし。
橋を渡って伊勢灯篭型の常夜燈が並ぶ参道。
参道の奥で右に曲がり一段上がると拝殿の前へ出る。
美多羅志神社拝殿前。
拝殿は周りだけでなく中まで白い玉石敷で、開け放しの造り。
本殿前の子取り、玉取狛犬。製作年は確認していないが、昭和に入ってからのものか。
由緒については境内での掲示はないが、拝殿内に置かれている参拝のしおりで知ることができる。
創立年代は未詳。江戸時代の史料には八王子祠とあり、前述の通り隣の潮音寺の境内に祀られていた。
そのため主祭神は五男三女の八王子神。
一番古い棟札では享保八年(1719)のものなど、二十年間隔で七回の棟札が残るという。
ちなみに最近では令和二年に遷宮が行われ、本殿を建て替えている。
明治に入ってからは美多羅志神社を称している。
社名の「美」は美称で、「多羅志」は古代の海人族「タラシ」一族に由来するとのこと。
『日本書紀』の神功皇后(オキナガタラシヒメ)の巻の、いわゆる三韓征伐の下りに出てくる「尾田吾田節の淡郡に居る神」が当社のことであるという(田節=答志)。
その当否はともかく、神社近くには蟹穴(がにあな)古墳や岩屋山古墳があり、古くから人が住んでいたのは確かなようだ。
三重県神社庁のサイトには祭りの詳細などが載っている
明治四十一年に答志村の十九の社を合祀している。
流石に全部列記する気にならなかったので、境内の写真をあげておく。
そう広くない和具と答志でこれだけの神様が祀られていたというのは、まさに日本は八百万の神を祀る国だというのが実感できる。
おまけ。
参道の途中にある池で発見されたというオオウナギ。121cm、3,500gあったという。
池は写真の通りそう広くない。
オオウナギは本来熱帯を中心に分布する魚で、普段食べている二ホンウナギとは別の種類である(オオウナギも食べられるが身が固いらしい)。
なんかこういう神社の池によくわかんないデカい生き物がいるって話はワクワクする。