知多半島中部に位置する美浜町の三河湾側、布土(ふっと)では明治から戦後しばらくまで磨き砂の採掘が行われていました。
磨き砂と言われてもあまりピンと来ない方も多いかもしれませんが、要するに洗剤のクレンザーに入ってるツブツブと同じ役割で金属などの汚れを落とすために使われる細かい砂粒のことです。
布土の一向山にその採掘跡があるということで行ってきました。
三河湾沿いの国道247号線から布土川沿いを1.5㎞ほど西へ向かい、川の北側の畑の奥に一向山への登り口がある。
登り口から五分と経たずそれっぽい広場に到着。
しかしこのような看板はあるものの、イメージしていたような採掘跡らしきものはない。
表面上は普通の山と変わらず、地面を見ても砂が特徴的なようには感じなかった。
いや私の目が節穴なだけで見る人が見ればわかるのかもしれないが。
まぁ下調べで痕跡が残っていないことはある程度わかってはいたのだけれど、一応確かめておきたくて訪れたのだった。
「磨砂の由来」碑。
ここでは磨砂の採掘が明治初年から開始されたとあるが、江戸時代から地元では米つきに利用されていたという。
また初期には伊勢湾側の上野間をはじめ知多郡内で他にも採掘が行われていた場所が複数あり、その中でも布土が最も産出量が大きかった。
石碑では布土の地名も磨き砂が由来としている。
白い磨砂が採掘の山から浜辺の加工場までの道路がさながら、白布を敷いたように続いたので白布の土、即ち布土という地名が生まれたと云われる
しかし布土の地名は磨き砂の採掘が盛んになる前からあっただろうし(調べてないけど)、「白布の土、即ち布土」という変化もちょっと苦しいように思える。
地名でよくある、漢字から由来を説明しようとした伝説なのだろう。
それとは別に柳田邦男の『地名の研究』では「疑いもなくホドすなわち陰部と同じ語である」として全国の地名を挙げる中に、まさにここ尾張知多郡河和町大字布土を数えている(『地名の研究』 一七 富土、風戸)。
個人的にはこの説明もあまり腑に落ちなかったが、受け入れられた説なのだろうか。
閑話休題。
広場の中央には地蔵菩薩像(?)を中心に名前が刻まれた石碑が並んでいる。
これは昭和六年一月二十一日に発生した落盤で犠牲となった十三名の慰霊碑で、当時は大きく報道されたらしい。
この事故のために一向山の採掘坑は閉鎖されたが周辺ではその後も採掘は続き、最終的に昭和三十三年に組合が解散したことで布土での磨砂採掘は終わりを迎えた。
(以上、『美浜町誌 本文編』参考)
今では磨き砂自体使われなくなり、ここが布土の暮らしを支えた事業の場所だったことは石碑以外からは想像できない。
ちなみに磨き砂は現在でも海を挟んで対岸の三重県津市半田(知多半島にも半田市があるのでややこしい)に採掘・販売している所があるようです(参考)。
ちょっと実物を見てみたい気はする。