医師から絶対安静を言われた私は、落ち着くまで実家でお世話になることになった

トイレ以外はほぼ横になる生活で、食事は母親が作ってくれた

当時、会話の弾まない父親と二人暮らしだった母親は、傍で横になっている私に色々な話をしてきた

昔の話や、親戚や友人知人の近況を悪口を織り交ぜながら一方的にまくしたてた

「お父さんと二人だと笑う事もない」と言っていた母親にとって、動く事ができない私は格好のストレスを発散できる相手になった

具合が悪く、お腹の子供を守りたい一心の私にはどんな話も興味はなく、たまに相づちを打ちながらただただ母親の話を聞いていた

ある日、母親は横になっている私の傍で友人に電話をして、私が妊娠した事を話していた

それを聞いた相手の人が何か言った後に、母親は「まだ海の物とも山の物ともわからないから」と答えていた

「それはどういう意味?」「お腹の子供がダメになるかも知れないって事?」
「それを私に聞こえるように言うの?」

ショックを受けた私は、母親に背中を向けたまま何も言う事ができなかった
私は自分がいつから母親を嫌いだったのか、はっきりとはわからない

ただ母親の私に対する言動を思い出すうちに、明らかに悪意からと思われる出来事がいくつかあった事に気づいた

だいぶ前になるけれど、結婚して体調が悪くなったので、もしかして妊娠したかも知れないと思い、帰省した時に母親に病院に付いてきてもらった事があった

私の実家は山道の中腹にあって、バス停までは15分くらい下り坂を歩かなければいけない

母親は腹痛がある私になんの気遣いも見せず、スタスタと振り返りもせず山道を下り、私は追いかけるので精一杯だった

病院でおめでたが分かっても母親から「おめでとう」のひとこともなく、私は医師から切迫流産で絶対安静を指示され不安になった

しかし、母親は帰り道も行きと同じように自分のペースで歩いていき、バス停に向かう私と母親の距離はどんどん開いていった

目的のバス停に乗るべきバスが止まった時、母親はバスのドアの前に居て私は20mくらい後ろを歩いていた

このままでは一緒のバスに乗れなくなると焦った私は、お腹を押さえながらゆっくり走り「お母さん待って!」と大きめの声で叫んだ

母親はバスのドアの前で止まり、私が追いつくと黙ってバスに乗った

隣同士に座われたけど、私に対する言葉は一切なかった

自分が母親からひどい態度を取られた事にその時は気づかなかった

私と母親はケンカをしていたわけでもなく、仲良し親子ではないけれど普通の親子だと思い込んでいたから、何をされても母親の悪意を見抜く事はその時の私にはできなかった
母親と音信不通になって半年が経った

まさか50歳を過ぎて80代の母親が嫌いだと気づき、自分から離れて行くことになるとは思わなかった

色々なきっかけがあって、私は母娘関係の真実と、母親の正体に気づいてしまったからもう後戻りはできない

今、高齢で一人暮らしの母親から離れる罪悪感よりも、このまま母親に支配されたまま私の人生が終わる事の方が恐ろしかった

母親が怖い私は真っ正面から戦うのはやめて、少しずつ離れて行くやり方を選んだ

電話をしなくなり、お中元やお歳暮、母の日のカーネションなど、今まで長い間続けてきた贈り物をやめていった

最後まで続けた年賀状は、母親から些細な事でクレームをつけられたので、少しだけ迷ってやめた

こちらが色々とやめるに従って、母親も同じように今までしていた事をやめて行った

私達の母娘関係は利害関係だったんだと、思い知らされた

私だけではなく、母親にと
ってはたった一人の孫である子供にも連絡をして来なくなった

想像してた以上に、私達の母娘関係は呆気ないものだった