6月1日、無事に第一子が生まれた。

 難産であった。

 当初、無痛分娩を計画しており、5月29日に入院して翌日30日の朝から陣痛促進剤を投与、前駆陣痛がついたまではよかった。

 しかし、その後産道の開きが悪いことから無痛分娩を断念。一度奥さんを連れて帰ったところからが大変であった。

 既に前駆陣痛がついていたことで、ここから奥さんは長時間の陣痛に苦しむことになったのである。

 陣痛は数分おきに来てその感覚もだんだんと短くなってくる。奥さんは食べることも眠ることもままならない様子であり、次第に私は一刻も早い分娩を願うようになっていた。

 その後一度病院に連れていくも、様子見で再度帰宅となる。奥さんはずいぶんと辛かったに違いない。

 5月31日金曜日になって陣痛間隔が短くなったことから再度病院へ奥さんといったところ、一晩病院で様子をみることになった。

 このときには陣痛は5分間隔以内になっていた。

 その晩には奥さんも大分疲弊しており、私も一晩中付き添って背中をさすったりテニスボールをお尻に押し当てたりしていた。

 なにもしてやれない自分を情けなく感じた夜であった。

 6月1日土曜日、朝になって、医師より再度陣痛促進剤を投与し、昼までに産道が開かなければ母体も疲弊していることから、帝王切開をするとの説明を受けた。そのころには私も奥さんも、なんでもいいから早く生まれて欲しいとの気持ちが強くなっていたが、私はとにかく産道が昼までに開いてくれることを祈るばかりであった。

 昼前になって触診があり、産道が開いて来ているとの診断があり、分娩台へ移動することに。

 昼から助産師の補助のもと、分娩を試みるも、なかなか胎児が出る気配がない。産道を手で開くということをやってみるも出る気配がないため、最終的に午後2時台になって吸引分娩を行うことになった。

 ここまで相当痛い思いをした奥さんであったが、ここからさらに痛い思いをすることになる。

 吸引分娩に関しては、複数人の医師、看護師により行われた。その内容は、胎児の頭に吸盤のようなものをくっつけて引っ張ると同時にお腹から胎児を押し出すという力業であり、したがって痛みも相当なものである。

 そして午後3時、吸引分娩が実施され、ようやく胎児が出生を迎えた。

 身長50センチ、体重3,000グラムの男の子であった。

 奥さんも私も、こんなに嬉しい思いをしたことはないといったところであろうか。無事に生まれてきてくれてありがとうという気持ちで一杯であったが、そんな感動もつかの間。

 胎盤が子宮に癒着していることが判明し、そこから出血が止まらなかったのである。

 会陰切開後の縫合処置を終えたあとであったが、出血も相当なものであったため救急対応が必要となり、即座に輸血(妻はAB型であるが、O型の血液を輸血した)し、胎盤を手で剥離する処置を行った。

 それまで私も立会っていたが、いままでみたこともない出血量と、顔面蒼白になる妻をみて、生きた心地がしなかった。

 一瞬、目の前で妻が死んでしまうのではないかと本気で思ってしまった。

 病院とは限られた人員を最大限効率的に活用する体制がしかれているのであろう。胎児の出生後、はけていた医師や看護師がこのときになって再び集まってくる。

 バイタルを図り、輸血および補液を行い、昇圧剤を投与する。看護師が奥さんに「○○さん聞こえますかー!?、輸液をすれば助かるよー!」と大きな声をかけていたのが印象的であった。

 私は治療の邪魔になってはいけないとそとに追い出されてしまった。廊下でまた妻の無事を祈るばかりの身となってしまった。

 結局、救急処置の甲斐あって、妻の命は助かった。

 医師が、「奥さん大丈夫だよ!」と笑顔で話して分娩室を出ていったのが記憶に残っている。

 本当に安心した、生きた心地がしなかった。

 あとで出た診断によると、出血量は推定2,500cc、血圧が50台まで低下したことから出血性のショックを症状が出て危険な状態であったとのことである。

 本当に難産であったが、奥さんも、赤ちゃんも無事で本当に良かった。出産とはまさに命がけである。

 私は、育休中の間は、奥さんが回復できるように、出きる限り家事全般をこなそうと心に誓ったのであった。