私が心のことを学ぶ理由。

それは、2020年長男を出産して、

子育てがしんどくてしんどくてしんどかったから。

機嫌が良いときの子供、

自分の思い通りに動く子供しか

可愛いと思えなかった。


保健センターからもらった

教科書通りに努力しても

「我慢」が必要で、

つらくなった。


仕事は辞められるけど、

母親は辞められなかった。


私はどこかおかしい

うすうす気が付いてはいたが、

認めたくなかった。

認めたら、自分が消えてしまいそうだった。


私はおかしい

子供を産んだら明確になった。







間違えのないように、空気を読んで、

間違えのないように、顔色を伺って

間違えのないように、萎縮して

間違えのないように、努力して

間違えたら、落ち込んで

間違えたら、反省して、

間違えたら、次は間違えないように。



この思考が当たり前すぎて、

当時はこのように言語化すらできなかった。






なぜ間違える前提なの?🥺




誰が間違いを決めるの?🥺







正解、不正解を、

自分の外に求める私がおかしかったのだ。






私のやってた子育ては、

不正解なら怒りと不機嫌による【コントロール】子を見張って、正解に導こうとしていた。

私がさっさと正解にする【過保護】も。

さらには正解、不正解は私(親)の感情により変わっていた。












泣いてもいい。

怒ってもいい。

どんなあなたでも大丈夫。

どんなあなたでも可愛い。


あなたが自分で選ぶのだ。

そして、あなたが自分でその責任をとる。




親は信じて見守って、子が納得するのを待つ。



そのうち、1人で歩き出す。





私が子供だった時、して欲しかったことをすればいいだけだった。




子育てなんてなかった。




我が子は私を見て育つ。










私は心というものは

【思考と感情】と考えている。


『ナリ心理学』で、思考の癖は、

主な生育者(母)と

育った環境が大きいことを知った。

他にもたくさんの知識や、

信じて見守って納得するまで待つを

私にやって見せて姿勢で教えてくれた。






思考から

行動して、

現実を創る



ならば、

思考を変えれば

行動が変わって

現実も変わる。




全て己でやるのだ。





どんな私でもいい

正解、不正解を他人に求めなくていい


知識を入れて

思考と感情は分けて、

思考を手動で切り替える。



感情(テンション)は楽しむ時だけ。





自分の精神を己で育てる。









私は日々学んで、

自分の心を解明しているのだが、

【お話聞く屋さん】は

楽しく話を聞くのもいいが、

希望があればついでに

あなたの心も解明する手伝いがしたい。

友だち追加

「楽しくお話聞いて」

「悩みを聞いて解明手伝って」

どっちも聞きます。





おしまい。