もうすぐ平成も終わりますね。
今 気になっている古代史について書こうと思います。
先月大阪に行ったんですが、その時 四天王寺へ行きました。
そのお寺は587年の排仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏➕聖徳太子の戦いで 聖徳太子が四天王に戦勝祈願をして 戦いで物部守屋が亡くなり蘇我氏側が勝利したため592年頃 建立されたという日本最古の本格的な仏教寺院が四天王寺だそうで、
元々は物部守屋の領地だった場所に建てられたそうです。
四天王寺には聖徳太子も祀られていますが、物部守屋も祀られています。
守屋の鎮魂のために建立されたという事のようです。
聖徳太子は最近は実在しなかったとか、厩戸という呼び名で言われたりしますが、
私は聖徳太子は古代からの日本の精神的な支柱の象徴だと思うので、そういう扱いは悲しいなあと思います。
実際のことは今となってはわからないわけですが、だとしたら なおのこと 和をもって尊しとするとする憲法を1400年前につくり
日出づる処 太陽の出る国 ヒノモト 日の本 日本の理念、
日本国の叡智を打ち立てたビジョナリーである聖徳太子の大切さを思ってしまいます。
そんな聖徳太子が 物部守屋との戦いに勝利した時 、wikiに書いてある生年月日を信じるとすると13歳という事になります。父親は用明天皇で母親が蘇我氏の女子といことですので、まだ少年であった太子が蘇我氏側へつくのは自然な事だったと思われます。
でも物部守屋を滅ぼし死せた事を、聖徳太子はものすごく気にしている感じで、法隆寺建立でも、守屋の鎮魂をしています。
聖地 生駒山をはさんだ河内と斑鳩は物部氏の勢力地だったそうで 、太子は河内に四天王寺 斑鳩に法隆寺を建てているのです。
滅んだ者と滅ぼした者とは実は裏 表 一心同体である。
滅ぼした者の思いも飲み込んで 共に歩く道。
死者と生者、敗者と勝者
目に見えるものと目には見えないものとが共存して 排除せずそれらを包括する、それが大和 大いなる和の精神。
そういう境地に守屋との闘いを通して聖徳太子は辿りついたのかも。
では 物部守屋とはどんな人だったんでしょうか?
続く。
四天王寺石舞台