誰だって間違いや勘違いをしたり、
それで人を怒らせてしまったりすること、
時にはある。
けど心から反省し、ちょっとした美味しいものを買って謝っても、
そこからどん底まで罵声や、信じられない追い詰め方をする人が世の中にはいる。
土下座の代わりに何かを課したり、
暴言や、信じられない言葉の暴力を自分の感情が収まるまで吐いて、
やめてと言っても止まらない。
その相手が気力を無くすほど徹底的にねじ伏せ、
悪びれることもない。
怒らせた者が悪いと考え決して許さずそれは繰り返される。
私の家はそんな家だった。
よく考えると、そこまで悪いことをした訳でもなく、加害者の単なる怒りの感情が大きくなっただけであり、それが収まるまで暴言や暴力が終わるのを待つしか無くなり、人間としてのプライドを失わせていく拷問と同じだ。
絶対的な父に長い間暴力も加えられながら、ずっと逃げたかった。
心の底で、
そんなに私が憎いのか。なぜそんなに憎いのか、
家族なのに、どうしてそこまで傷つけるのか、
自分の子供なのにどうしてそんなに嫌うのか、
最後まで答えは分からず死別した。
しかし父の最後の言葉や日記には、
私への謝罪や、なぜ手を上げてしまうのか苦しみの内容が書いてあった。
謝りひれ伏す人を徹底的に傷つける行為は、家庭の中でも行われ、
私は思う。
加害者は相当被害者より偉い、頑張っている、俺のおかげで生きていられる、
こいつには何言っても俺がいないと生きていけない、だから何を言っても縋ってくると、縋るしかないだろうと、
被害者に対してだけものすごく立場が上だと思っているのでは無いかと考えた。
子供は親がいないと生きていけない、
そんなものを利用して。
どんなことがあっても、人を傷つける言葉や暴言をやめてと言っても自分の感情優先で止められない人は
1人になればいいと、
私はいつも思っていた。
生きているうちにきちんと謝罪してから。
せめて生きているうちに謝罪を貰えばすこしはちがう。
いなくなってから、
謝罪や後悔やそんな日記を読んでも何も響かない。
何故それをもっと早く言ってくれなかったのかと、
切実に思う。
彼らの特徴は、死ぬまで謝ることが出来ず、人生の半分以上無駄にし、信頼を失い、孤独になり、
それが自由だと勘違いしている。
ごめんなさいと言って許されることは、沢山ある。
その一言を彼らは死ぬまで言えない。むしろ言ったものはいじめのターゲットにしてボロボロになるまで傷つける。
大切な人がそれで離れていってしまったとしても、
いじめるターゲットが居なくなっただけで、
そこに情はなく、むしろその時は喜び、世間体だけを気にして、
決してその性格は変わることはない。
私は父に最後に、頑張れと言われた。
正直父を赦した今、
哀れに思う。
最後まで御付き合い下さり大変ありがとうございます。