中教審の特別部会の審議が、現場教師たちを失望させている。

彼らは給特法を変えるつもりなどサラサラなく、定額働かせ放題を延々と続けることを聖域にしている。

 

「給特法」について簡単に説明しよう。

給特法は、正確には「公立の義務教育諸学校などの教職員の給与等に関する特別措置法」という名称である。教職員には時間外勤務手当を支払わない、という考え方からこの法律が出来た。なぜ残業代を支払わないのかというと、教師の仕事というのはあいまいで線引きがなかなか出来ない、と主張する偉い人が居たからだ。(実際には線引きできる。が、線引きしてしまうと膨大な手当てが発生するため、線引きできないものとされた)

丸付け仕事を家に持ち帰るとか、理科の学習のためにちょっと昆虫を取りに行くとか、社会で地域の歴史的異物を探しに行くとか、牧歌的な昔はその程度の「残業」だったので、4%を上乗せしてやるからその範囲内で残業していなさい、というものだった。

 

ところが平成に入ると様相が変わった。

仕事がどんどん積み重なるようになった。

「生活科」「総合学習」というわけの分からない教科が出来た。教科書が無い。何を教材にし、どう教えるのかも手探りである。

今のプログラミングの黎明である「ロゴ言語」という取り組みを行う学校もあった。公開するための1時間分の授業を組み立てるのに300時間の準備時間が必要だったそうである。それはもちろん事実上は職務命令による残業なのだが、給特法は実に都合よくできていて、300時間は教師たちが自主的に行っている趣味の範疇なので、残業代をビタ一文払う必要はないのだ。

 

「ゆとり教育」もはじまった。教科書の内容は薄くなり、週5日制となり、子どもたちの授業時数は減ったが、教師の仕事は逆に増えてしまった。というのも、前述の生活科や総合学習の準備をしなければならないほか、「ゆとりカリキュラム」のおかげでこれまでの年間計画が全部ひっくり返る事態になってしまった。通知票も「新しい学力観」「生きる力」に即したものでなければならなくなった。早い話、全部作り直し、である。この時代から残業地獄が始まった。

「ゆとり」の神髄を学ぶためにこれでもかと研修が義務付けられ、レポートを書かされた。

ところがそのわずか数年後、5年と経たないうちに今度は「学力低下」が叫ばれ、宿題を出せ、本を読ませろ、授業時間を確保しろと口うるさく言われるようになった。次の指導要領の改訂を待てず、薄い練習問題冊子も配られ、授業の中でやるように「上」から指導された。すでに授業時数はいっぱいいっぱいだというのに、そんな冊子をやっている時間なんかあるもんか!という現場の要望に応え、授業時数は拡大の一途をたどることになった。

 

ゆとり教育の反動からか、中教審の審議はもう何でもありの無茶苦茶状態になった。

授業のコマを増やすことは全会一致で可決したほか、あれも増やせ、これも増やせと「これでもか」というほど現場の負担を増やそうとした。

4泊5日の宿泊学習や、2週間の無償の奉仕活動を提案する識者も居た。この主張は一部取り入れられ、学校では無償奉仕活動の時間ができてしまった。しかし教師もお人よしのバカではないので、奉仕活動は卒業間際の校内清掃2時間程度、という形で誤魔化すことになった。

 

宿泊学習の過酷さは、経験が無ければ分からないだろう。

タテマエ上では勤務時間は休憩時間を含めて朝6時から夜22時までとなっている。だが、引率教師は1分たりとも気を抜くことが出来ず、食事中も児童生徒のいろいろに対応しなければならない。アレルギーはもちろんのこと、宗教上の対応とかも近年は増え、なにがなんだかわからなくなっている。休憩休息時間は、もちろんゼロである。トイレに行く事はもちろんのこと、水を飲むのも容易ではない。

22時を過ぎても勤務から解放されることなどありえず、たとえお子様たちが良い子たちばかりでぐっすりと静かに寝ていたとしても、夜の見回りがあり、夜尿の子どもを起こしてトイレに連れて行き、急病人の対応をしなければならない。夜尿の子が3人居てそれぞれ0時、2時、4時にトイレに連れて行ってくれと保護者に頼まれたら、どう対応すればいいのだろうか。

この過酷な宿泊学習には特別手当がつくが、それは1日1700円である。時給1700円ではなく、1日1700円である。この物価高のおり、今年から1750円に上がるらしい、というウワサはある。

中教審の偉い人たちは、宿泊学習に同行し、3日間ほとんど寝ずに働いてから提言に盛り込むべきだった(きっと何人も廃人になっただろうが)。どんな肩書の偉い人たちかは知らないが、高邁な理想を、空調が整った部屋の中でのんびりとくつろぎながら述べていたところで、現場は地獄になるだけである。これまでの中教審の話し合いが、一度でも現場のためになった試しがあるのだろうか。

 

全国学力テストも、時の政治家が意向を示すとあっという間に中教審で決まってしまった。

その後の地獄は、別記事で述べたとおりだ。

英語教育も中教審答申から見切り発車をしてしまい、カタカナ英語しか話せない担任が教えざるを得なくなった。裕福な自治体はALTを雇ったが、欧米の英語講師は勤務条件に対して相当シビアであり、英語を教える以外にも「一緒に掃除しろ」「休み時間は子どもと遊べ」という現場の暗黙の圧力に対して反発し、年度途中だろうが授業やりかけだろうがさっさと辞めていった。労働契約という点では彼らの方が正しい。日本の教師は、あらゆることをやりすぎているのだ。

 

キャリア教育も中教審から出てきた現場無視の恐るべき教育負担だ。

小学校高学年と中学生の全員に職業体験をさせろ、というのが当初案だった。

「夢職業体験」とかのキャッチフレーズで、自分の希望する仕事を見学し、体験に行く、というものだ。ところがそんなことは不可能である。受け入れ先は誰が探すのだろうか?100人の児童生徒が居て、100の希望があったらどうする。「宇宙ロケットを飛ばしたい」という子が居たら、その子だけ種子島まで行くのだろうか。あまりにも実現不能なので、仕方ないから近所のスーパーだとかパン工房だとか農場だとか介護施設とかにある程度人数を振り分け、「1日体験をさせてください」と教師が頼み込みに行くのである。受け入れ上限は決まっているし、断られることもある。夏休みを丸々潰して、教師たちはキャリア教育の受け入れ先確保のために必死に走り回ったのだった。

「こんなことはとてもやっていられない」と教師たちは音を上げ、小学校ではだれか人を呼んでそれで「キャリアをやったことにする」とか校外学習でキッザニアに行ってそれで体験したことにしたとか、その程度でお茶を濁している。賢い教師はそうやって身の破滅を招かないように上手に手抜きをするが、「キャリア教育をしなければならない」とガチガチに凝り固まった考え方の教師が居ると、その学校は悲惨である。中学校はその点、職場体験に行かなければならないから大変だ。あれもほとんど形骸化し、先生方にとっては負担以外の何ものでもない。すぐさま止めるべき悪しき教育の筆頭である。

このキャリア教育はいまだに教師たちを苦しめている。どこの教委のHPをみても、「キャリア教育の充実」を謳っている。中教審の罪は重い。

 

数々の中教審の失敗を列挙していくときりがないので、最近のものに触れておこう。

2016年の中教審答申である。

あいも変わらず「生きる力」という中身のない言葉を使っている。中教審の委員にテストしてみたらいい。「生きる力とは何ですか」。採点者は現場の教師たちだ。「ちょっと何言っているのか分からない」という意味不明の答えが大多数を占めることだろう。

当人たちは立派な理念を持っているつもりだろうが、現場の人間はそんなに理想や哲学に造詣があるわけではないので、立派な理念は現場に届くころには原型が何だか分からない、ただのガラクタになっている。

その一例が、「アクティブラーニング」である。これほどわけの分からない言葉はない。

誰かがアクティブに学んでいるのか、どうやって分かるというのだろう。べらべらとしゃべっている子はアクティブなのか?黙って本を読みこんでいる子はアクティブではないのか。外側から子どもたちを見ている教師たちは、ある教師は「おお、あの子はアクティブに話をしているじゃないか」と評価する。前者は軽薄で何も考えずに言葉を並べているだけと判断する教師もいる。後者の子は、他とはコミュニケーションは取っていないが本を深読みし実は内面は深まっている、だからアクティブなのだと判断する教師もいる。

実は軽薄だと思われた子は他者とのやり取りで考えを進化させていたが書くことが下手なのでそれが表出されなかっただけ。一方で本を深読みしていた子はそれは単なるフリであって、実はゲームのクリアの方法を一生懸命に考えていた・・・・なんて言う内面はどうやって分かるというのだろうか?

こういう現象は、あちこちの研究授業で散見されて問題になった時期があった。いったい、誰にとってのアクティブラーニングなのだろう。子どもの頭の中のことをそもそも評価できるのか、と。

すると指導主事は答えた。「考えているだけでアクティブなんです」。

じゃあ、考えているのかどうかは、どうやって分かるんだ。話すのか、書くのか。脳に電極をつけるのか。そういうのが苦手な子はアクティブじゃないのか。書いたもの、話したもので評価するならこれまでと変わらないじゃないか。そもそも、そのクラスにたった30分か40分しかその授業しか見ていない指導主事様が、どうして「あの子はアクティブ」「この子はアクティブじゃない」なんて判定できるのか。意味無いでしょう。アクティブラーニングなんて。

 

そしてコロナがやってきて、アクティブラーニングは消滅した。

消滅しても誰も困らず、かえって歓迎された。

しかしコロナ騒ぎも終わってしまい、またぞろ「探求的学習」「アクティブラーニング」が復活しつつある。幸いなことに、コロナ前ほどトーンは上がっていない。矛盾や欠点に気が付いたからだろうか。だが、「探求的」云々は盛んに言われるようになった。これもアクティブと同じの言葉遊びに過ぎない。偉い人たちは言葉遊びが大好きなのである。

文科省やらマスコミやらが最も気にしている学力テストの点数は、コロナの授業でもそんなに点数は変わらなかった(むしろ上がった)わけだから、アクティブだとか探求だとか、そんなことはやってもやらなくても大した違いが無いことは証明されている。それどころか言葉遊びに興じることなく、一人一人をアクリル板で仕切って「あなたのやるべきことはこれ」と課題を示して黙々とそれに取り組ませた方が、良い結果が出るということがバレてしまった。

つまり、中教審はここでも無駄な提言をし、現場を振り回していたのである。

 

今回の特別部会の答申は、要するに自民党のあるグループから出てきた「4%を10%にすればいいじゃないか」という案をそのまま踏襲したものだ。給特法の仕組みは変えず、「これからも定額働かせ放題の仕組みは維持します」と宣言しているに等しい。

 

一定年齢以上の教師たちは恐らく、皆、怒りを感じている。

これまで中教審の数々の失策によって仕事は膨大に増えてきた。それを一遍も顧みることなく、歴代の委員たちがやって来た負担の数々を見直すことをせず反省の意をチラッとも見せず、「手当を上げておけばそれでいいだろ」的な、相変わらず教師を単なる使い勝手の良いコマとしてしか見ていない、そういう態度にムカつくのだ。

 

ウラで官僚が「教師の待遇改善をした、そういう事実があればいいんです」と入れ知恵をしているのではないか。近い将来、次の指導要領あたりで新しい「ナントカ教育」を付け加えるために。

 

こんにちの教育課題は、とても通常の人間の能力では処理できないほど膨大になっている。

学校教育制度の崩壊は近い。あるいは、もう実質的に教育制度は崩壊している。

偉い人たちにはそれが実感できない。