GDPがドイツに抜かれ4位になったというニュースがあった。

生産性の向上云々が言われるようになってから、一体どのくらいたったのだろう。20年ぐらいだろうか。

教育現場においては「生産性」「効率化」といっても馴染みがない。

教育は、なにかしらの労力を投入して具体物を生産・販売する仕事ではない。ずっと遠い将来に目の前の子どもたちが社会人となり、社会を支える存在になることを目標にしている。

ところが世の中の流れに沿って、教育現場にも「生産性向上」「作業効率化」の考え方が強く押し付けられることなった。

その最たるものは「学力テスト」である。学力テストの大失敗については、別記事ですでに述べた。失敗に次ぐ失敗の学力テストであるにもかかわらず、誰もそれを止めようとは言わない。今後も恐らくその場限りの数字を追い求め、ニッポンの教育はますますダメな方向に向かっていくに違いない。

そもそも教育界は、文科省を頂点として「あれも必要これも必要」という思考で凝り固まっており、ビルド&ビルドの政策はやるが、「何かを止めよう」という発想がない。本年度一年だけで「生成AI対応研修」「LGBTQ団体対応」「不登校のきめ細かい指導」「生徒指導要綱の改訂」「学力向上のための方策の報告」「不審者侵入マニュアルの作成」「プール水栓管理マニュアルの提出」その他豪雨のように次から次へと通達が届いている。本来的な意味での業務の効率化など、どこか別の宇宙の話である。

 

現場は今年度のもろもろの文書の取りまとめと、来年度の年間予定の作成に追われている。せっかくコロナの流行で削減したいろいろな行事も全部が全部復活してしまい、「これでもか」という詰め込み方になっている。年間予定検討会議では「何か意見があったらあとで言ってください」と言われるだけで、検討する時間がない。職員会議の議題は膨大であり、「次年度年間計画について」という議題の割り当て時間は10分程度だ。

しかし皮肉なことに、これが学校における「作業効率化」なのだ。

会議や話し合いが多すぎるから事前に資料を配って各自検討し、意見があれば全体会議で言えばいいだろうという発想。ところがそれをやると、誰も意見を言わなくなる。皆忙しいから、資料など読まないかナナメ読みするか、で終わる。考える余裕がないからだ。下手に意見を言うと「時間を長びかせるなよ」という無言の圧力を感じてしまう。また、2月になってそんなことを聞かれても、去年の6月7月のことなど、忙しさの中で忘れ去っている。本当は、例えば6月なら6月、7月なら7月にその都度問題点や改善点を洗い出した方が良いのだが、「年度末にいっぺんにやった方が効率的だ」という偉い立場の誰かが言い始めてから、こうした見直し作業は形骸化した。

いろいろと盛り込まれている会議で、割り当て10分の次年度計画が8分で終われば、それはもう管理職が小躍りするほどの効率化、と言うわけである。

こうしてできた次年度計画は、洗練されたものではなく、出来た時点でボロボロである。というのも、その計画はそもそもが大雑把であり、新しい年度になって入ってくる未定のもろもろが全く考慮されていないからだ。また、自分がどこの学年を受け持つのかによっても違ってくる。次年度の検討会議の時には、まだ次の受け持ち学年は決まっていないから、「これでは多分地獄の忙しさになるだろう」という想像力は働かず、あくまでも他人事として右から左に聞き流してしまう。新年度がはじまってから、「こんなはずではなかった」と思うのだが、もう手遅れである。

修学旅行の前日に「その日が空いているから」と機械的にスポーツ教室を入れてしまうとか、医者や講師の都合で診察や出前授業が水曜日しか取れないために、理科実験を変更しなければならなくなったとか、きちんと検討する場を設けないために起きる悲劇は多い。そしてその忙しさを通り過ぎると次の忙しい何かが待っているから、「こんな日程ではマズい」という反省すら行う時間が無いのだ。

そうした詰め込み日程が、いろいろな学年で起きている。

学校はそれを配信などで「○○の体験授業を行いました」とかいかにも有意義な活動を行ったように宣伝しているが、実は行き当たりばったりで何の教育的効果もない無駄な活動であることが多い。というか、それらのほとんどが組織的・系統的に計画されたものではなく、あとから無計画に突っ込まれたものなのだ。

現場はこのような状態なのだが、現場を知らない偉い人たちは「効率的な日程による、最大限の教育効果を得られる活動」だと宣伝している。そしてさらに「もっと効率よく教えろ」と要求する。教師たちのゆとりは、このような実態とかけ離れた「効率化」により、どんどん失われていく。

 

「デジタル化をすれば教員の仕事は効率化される」「これからの時代、学校のDX化は必須」

現場のことをまるで分っていない偉い立場の有識者はそう叫ぶ。

実際には仕事が増え、多忙の上に多忙が重なることとなった。

 

例えば、通知票はデジタル化で作業が減ったのだろうか?

昔の通知票は、手書きとハンコだった。所見は1カ所しかなかった。

今はどうだろう。評価しなければならない教科は増えた。国語は「3」とか「4」とかハンコ押しで終わっていたものが、関心意欲・書く・話す・読解・言語・書写など項目が6つに増えてしまった。教科数も増えて項目も増えたから、評価の煩わしさは、数字的には相対評価だった昔の4倍~5倍に増えた感じである。

しかも単純な点数では評価できない項目も多い。評価ソフトにテスト数字を打ち込んでそれで評価が出来るから楽になったじゃないか、という考えは現場を全く知らない人間のたわごとである。

その評価ソフトへの打ち込みも、DX化に伴って教室ではできなくなってしまった。

情報流出がチラッとでもあると全国ニュースとなって袋叩きの憂き目にあうから、学校以外の場所で仕事をすることができない。教室で仕事をしていてうっかり席を外したすきに子どもが教師用PCを操作して成績表をのぞき見をすると、それは教師の責任になる。それを防ぐために成績作業は職員室に限られることになった。

「今はリモートワークの時代なのに、どうしてリモートワークをしないのか」という声を聞くことがある。それをできなくしたのは不祥事を極度に恐れる官公庁と、学校のあら捜しをするマスコミと、マスコミに同調して学校を叩くことが大好きな国民のおかげである。国民的合意に基づき、学校はリモートワークが出来ない場所になった。

 

デジタル化による通知票仕事の増大はそれだけではない。

これは仕事を増やすことしか考えない文科省の責任だが、通知票というのは指導要録の簡易版のようなもので、文科省が指導要録に次から次へといろいろな評価を増やしていったおかげで、もう記入不可能なほど通知票の記載事項が増えている。

所見も増えに増えて特活・英語・道徳・総合・全体所見と5つもある。こんなにたくさんで細かいところまで評価をつけるのは無理だから、所見をパターン化してコピペで済ましたいところである。ところがそれをやると、「それはダメだ」と必ず指導される。

英語なんかは「英語のゲームに楽しく参加することが出来ました」とか、保護者から苦情が来ない程度の当たり障りのないことを書けば良いのだが、文科省が「個々の学習達成状況に応じた評価をしろ」「英語教育の各領域の目標に沿った評価をしろ」という通達をよこしたため、どの領域でどの程度目標に近づいたかという文言を入れなければならなくなった。上級官庁の言い分は、「DXして作業効率がよくなったはずだから、よりきめ細かい評価が出来るはずだ」というものだ。またそうした文科省の意向を汲んだ、上へ倣えの鬼指導主事が各学校を回り、あるいは管理職をつつき、ご丁寧にも通知票の所見にこれでもかと朱を入れるのだ。

 

「通知票に朱を入れる」とは古めかしい表現だが、これは実際そうなのである。

DX化しているはずの成績表だが、出来上がるとまずは紙媒体に印刷する。

学年内でチェックをし、文脈文法がおかしかったり誤字脱字の有る無しをチェックする。

どんなにミスのない人でも2つや3つは必ず間違いがある。それを見つけるのである。PC上で出来なくもないが、紙の方が便利である。というより、PC上で間違いを発見した場合、それを作成した本人に成り代わって間違いを訂正してしまっても良いのか、と言う問題がある。いちいち本人に訂正してもらっていたら、それこそ作業効率は悪い。紙の方が効率が良いのだ。

PC上で訂正を入れて、訂正されたものをもう一度印刷し、教務に提出する。教務⇒副校長・教頭⇒校長の順に検閲がなされる。人によっては、真っ赤に朱を入れられて戻ってくる。先述したように、単なるコピペがバレてしまったとか「○○の狙いに沿った記述が無い」「子どもの変容が分からない」とか、難癖に近いものまである。

こうなってしまうとその担任はもう一度PCに向かい、やり直しをしなければならない。やり直して印刷し直したものと最初の朱が入ったものを両方再度提出する。さらにやり直しを命じられる教師もいる。こうして残業は増え、土日も出勤しなければならなくなる。

紙に直接書いていた通知票の時代には、考えられなかったことである。

 

デジタル化を進めた結果、「PC上でいくらでもやり直しがきくのだから」と言う理由によってとことんまで修正を求められるようになった。どうでもいい些細な言い回し、どうなるわけでもない文言へのこだわりが教師たちを苦しめている。

 

そしてデジタル化によって、紙の消費量は飛躍的に増えた。

500人規模の学校で、通知票だけで年間何千枚の紙を消費することか。

通知票自体は、2学期制の学校では500×2で1000枚である。しかし、前期・後期にチェック用の紙媒体も提出するから、最低でも倍の2000枚は印刷する。印刷ミスややり直しを入れると2500枚とか3000枚とかになるだろう。3学期制の学校だともっと紙を消費するし、これに指導要録が加わるとなると、下手をすると1万枚以上になるかも知れない。

手書きの通知票の時代は、500人の学校だったら1年間で500枚の紙しか使わなかった。指導要録は、6年間で500×2=1000枚で済んでいた。

 

下書きの段階からPC上でやり、終業式で手渡す通知票だけ印刷すれば、紙の消費はとりあえずは抑えられる。しかし教師の仕事は減らない。というのも、通知票に全部の数字を打ち込んでも直前の変更があった場合は、印刷し直さなければならないからだ。例えば終業式の前日や当日に欠席があった場合は大変である。手書きならば書き込んで終わりであるところを、PCを立ち上げてクラスのデータを呼び出し、訂正し、印刷し、校長のところに持って行ってハンコをもらう。令和になっても、学校現場ではまだハンコを使っている。卒業証書にも、中学校に送る抄本にも、いちいち全部にハンコを押す。

通知票や要録の訂正前のものについては、間違いなく廃棄しなければとんでもないことになるから、誰かの立会いのもとシュレッダーにかける。終業式直前までインフルエンザで学級閉鎖だった場合は、悲劇だ。

 

一事が万事、こんな感じなのである。

 

ペーパーレス化を目指したはずのデジタル化なのに、紙の消費量が激増しているのは皮肉な話である。そしてそれを誰も指摘しないし、不思議だとも思わない。

仕事の量は、ガリ版刷りの時代の方がはるかに少なかった。

 

生産性や効率化が言われるようになってからの方が、仕事は増えている。

通知票の例は、氷山のほんの一角である。

DX化とやらでタブレットを配った結果、教師の仕事は激増した。IDPWを子どもに管理させたり「わからないわからない」と騒ぐ子への対処。「わからない」と言っている子などまだマシで、授業中に好きなスポーツのサイトをのぞいたり、ひそかにゲームをやって教師が巡回してきた時だけ何か調べているふりをする子どももいる。タブレットという具体物の管理や、それらに付随する物品の管理、破損や故障時の対応。電子空間上のなりすましや暴力的な書き込みやそれらを原因としたトラブルへの対処もある。「タブレット使用状況調査」というものまであり、こちらの保護者向けアンケートは紙媒体で提出と言うお粗末さだ。集計して教委に提出するのは、もちろん担任である。

 

「教育のDX化」と掛け声ばかりは勇ましいが、非効率極まりない、生産性などまるで考えていない教育行政が行われている。

なんの統一性も無く、縦割り行政が横の連携もなしにそれぞれ勝手に動いていろいろなものを「下」である学校現場に下ろしてくるからだ。

こうして効率化を叫べば叫ぶほど学校現場は疲弊し、若者はブラック職場である学校から離れていくようになり、精神疾患は増え、人手不足が深刻化することとなった。

 

「成績評価はすべてAI一任」とか、画期的なことをしない限り、学校現場はますます疲弊していくことだろう。