ポーランドは、ちょっと街を離れると
このようにのどかな田園風景がどこまでも広がる国だ。
クラクフ駅のバスターミナルからミニバスに乗り込んだ。満席だった。
東ヨーロッパ(というかヨーロッパ全体?)のドライバーはバンバンにぶっ飛ばす。
オシフィエンチムまで約1時間40分と聞いてたが、それより早く着いた…が
Ponkoは少し車酔いしてしまった。
「アウシュヴィッツ!」と運転手が叫び、そこでほとんどの客が降りた。
美しい緑の風景が広がり、心地よい風に、車酔いからすぐに復活。
そこはアウシュヴィッツミュージアムの裏手?だった。
昼前だが、ミュージアム前の駐車場には大型観光バスがなん台も。
日差しはきついけど、湿度が低いためか汗もかかず、とても気持ちの良い気候。
柳の葉もキラキラしてて、素敵なヨーロッパの夏だが、
このレンガ造りの建物が、アウシュヴィッツミュージアムの入り口だ。
強制収容所は、あらゆる意味で「人が人でなくなる場所」らしい。
強制収容所から戦後、生還できた人たちは5万人ほどといわれる。
彼らは「サバイバー」と呼ばれていたらしい。
強制収容所から生きて帰ってきた人は、「自分は運がよかった」と言う。
自分より体力もあり、忍耐強く、要領がよい人はたくさんいたのに、
自分が生きて帰ってこられたのは、ただただ運がよかったとしか思えないのだという。
1945年に第二次大戦が終わったその2年後の1947年に
ポーランド政府はこのアウシュヴィッツを
ナチス・ドイツの凶行を証明するモニュメントとして残すことを決定する。
ここは、広島の原爆ドームと同じく
人類が犯した悲惨な出来事を伝え、そうした悲劇を二度と起こさないための戒めとなる
いわゆる「負の遺産」として1979年に世界遺産登録された。
以前からホロコースト全般に関心のあったPonkoは
ずっとアウシュヴィッツを訪れたいと思っていた。
しかし、その場所ゆえに、なかなか行動に移せないでいた。
そろそろイイ年になり、今後そんなに海外旅行もできないなと思ったとき、
ポーランドに行きたい、アウシュヴィッツにいっておくなら今だと。
日本で旅程を組む作業をする中で、
むずかしいポーランド語をマスターし、日本人で唯一の
アウシュヴィッツ公式ガイドである中谷さんに連絡を取った。
9月4日14:00に日本人を案内する予定があるのでいかがですかとの返事に
では!ということで、やってきたのだ。
この日は11人の日本人が集まった。
一人旅、カップル、ご夫婦とさまざまだが
ぜひここに来たいと思って来ている人が多いせいか
一緒に周っていると、みなさん一様によく前勉強しておられるようだ。
中谷さんは長年ガイドをやってる方らしく
抑揚を抑えた低音の柔らかい声はとても聞き取りやすい。
お顔立ちは、芸能人にたとえると俳優の「渡辺裕之」さんに似ている。
そんな彼が冒頭に言ったこと。
アイシュヴィッツに来たら今まで分からなかったことが分かるだろうと
思っている方がいるかも知れないけれど、申し訳ないが違います。
ますます、モヤモヤ感が増すことになりますと。
確かにそうだった。
第1次大戦後のドイツ国内の動き、ナチスの台頭、そして
アウシュヴィッツの成立ち、収容所のシステムなどを、
資料を交えて説明を受ければ受けるほど・・・
なんでこんなことになっちゃったの?
ここまでなるまでに誰も止めなかったの?なぜ止められなかったの?
本を読んでも、頭では分かるけど、理解できない感覚。
アウシュヴィッツにきたら、分からないなりに、
なにか「感覚」として分かるかもと思ったけど、
確かに少し「感覚が鋭敏になった」気がするから、少し理解が深まった気がするけど
それでもその時代の流れ、事情、空気、雰囲気・・・それで果たして
ここの収容所だけで短期間で130万人もの人たちが殺される事態がどうして起こるのか?
こないだ『風立ちぬ』の映画で、航空技術を学ぶために主人公が視察に訪れたのがドイツだ。
あの頃のドイツは、軍事技術をはじめ文化芸術、あらゆる点で世界最高水準を誇っていたはず。
だから第2次大戦終結後、連合国側が強制収容所に踏み込んで目の当たりにするまで
だれもこの事態を信じなかったのだ。信じられなかったのだ。
続く。




