気がつけば前回の投稿から10日以上空いてしまいましたガーンすみませんアセアセ

どうしても、自分の話になると思いのほか時間がかかってしまうみたいです…

 

今回は小学生時代、特に恩師である杉原先生について書きたいと思います。

長文ですがお付き合いいただけると嬉しいですにっこり

 

 

 

 

私は物心ついた頃には人と合わせるという事が苦痛に感じる人間でした。

 

幼稚園時代は、近所の子と楽しく夕方まで遊びまわることができており、幼稚園でも仲良しの友だちがふたりいて、よく粘土でペンギンを作ってそのペンギンを使っておままごとをして楽しいと思えていました。

 

私は兄や弟のような色白でふっくらとした可愛い顔ではなく、よく外で遊びまわっていたので色が黒くサルのような顔をしていて痩せていて、自分でも自分のことが「可愛くない」と思っており、大人から「可愛いね~」と言われても全く信じられず「可愛くないもん!」と言って黙り込むような気難しいところのある子どもでした(母親は「あんたは本当に可愛くないね」とそんな時、いつも呆れていました)

気難しい所が目に表れているような、暗いぎらぎらとした怖い目をした幼子でした。

(卒園アルバムの写真は、まるで挑発するように肩ひじをテーブルにつけてカメラをにらみつけるような表情をしていました)

 

小学校に上がるタイミングで引っ越しすることになり、それまでの友だちと別れ、まったく新天地で小学生時代をスタートすることになったのですが、

周りは幼稚園、保育園から持ち上がった友人どおしで既に人間関係が出来上がっており、目が暗くぎらぎらした私が入り込むような隙はなく、友だちはいつまで経ってもできませんでした。

 

その寂しさからきっと、「人がいなくても私は大丈夫、人と合わせるなんて面倒だ、寂しくなんてないぞ…」と無意識の内に自分に言い聞かせた結果、厭世的になり、協調性が失われたのかもしれません。

 

とにかく自分のペースを崩されたくない感情が先にきて、相手がどんなに優しい良い人でも嫌だ、面倒だと思ってしまうところがありました(そしてその傾向は未だにあります)。

 

近所の同級生の子が毎朝当然のように迎えに来てくれる事が不思議で苦痛で、「どうしてこの子は毎朝誘いにくるのだろう」「ひとりで登校したい」と思いつつも、同級生の優しさと母親の「毎朝ありがとうね」と彼女に言う姿に本音をいえるはずがなく、上部では笑顔で登下校していました(今振り返ると、当時学区外ギリギリの所に住む同級生が私と彼女しかいなかった為に義理で通学してくれたのだと思われます)。

 

女の子たちが、登下校や休み時間にトイレなど、とにかく常に誰かと一緒にいたがる事や、さして興味の持てないその時々の流行りのキャラクターグッズ(文房具)を見せ合ったり、お揃いの物を欲しがったりする気持ちもわかりませんでした。

 

キャラクターグッズに関しては、男兄弟で育ったせいか、自分の好きなものが男子寄りで、愛読書の漫画が少年ジャンプやコロコロやVジャンプだったり、テレビゲームはドラクエやファイナルファンタジー、アニメはドラゴンボールやシティーハンターやキテレツ大百科だったので当然といえば当然でしたが。

 

小学生当時の女子が好きなものの主流は、漫画はリボンやなかよしで、姫ちゃんのリボンやセーラームーン、アニメはきんぎょ注意報やセーラームーンで、とにかくセーラームーンを好きじゃない女子は女子ではない、という空気が蔓延しており、ゲームは男子がするもの…というのが当然だったので、そのどれも当てはまらない自分は女子とどうやって会話をすればいいのかわからず(セーラームーンも少女漫画も可愛いなとは思いましたが、少年漫画ほど心を動かされなかったので)、たまに話しかけられても、主に聞き役でした(登下校の同級生ともほとんど聞き役でした)。

 

自分の好きなものが異端に扱われるのではないか…と黙っていたせいで、ほとんど自分の話をしない私は当然仲良くできる友だちが出来るはずもなく(近所の同級生は隣のクラスでした)、毎日が退屈で、休み時間が苦痛で、周りの目を気にせず一人になれる時間がほしくて、昼休みは毎日図書室に通っていました。

 

そんな学校生活でしたが、担任の先生には恵まれました。

特に三・四年の時の担任だった杉原先生に自分の世界観を拡げてもらえたことは、いくら感謝しても足りません。

 

当時20代半ばだった若い女性担任が自分のクラスの担任になると聞き、ワクワクしたのを覚えています。

 

そして初めて会った杉原先生は、デニムのロングワンピースとセミロングの髪が良く似合う、スリムで素敵な先生でした。

 

杉原先生はパソコンを使って色々な音楽を作り聞かせてくれ(当時パソコンが使える教師はほぼいませんでした)、歌が上手で、三回同じ事を言わせると怒るよ!と宣言する、面白い先生でした。

 

演劇と歌と本が大好きな先生は、よく朝礼の後に本を読み聞かせてくれたり(そのおかげで相田みつをや谷川俊太郎、ナルニア国シリーズや宮沢賢治を読むようになり、それらは今でも私の糧になっています)、パソコンの伴奏に合わせて合唱したり、強制ではないけど書いてくれたら嬉しいなーと私たちに心に浮かんだ言葉をノートに書き留めさせ、それが詩なんだと教えてくれ、それを提出してくれた子には毎回丁寧な感想を書いてくれ、まるで先生と交換日記をしているような感覚をもたせてくれました。

 

クラスの中で浮いた存在で、誰にも心の内を話せない私にはそのノートがとてもありがたく、心の中の葛藤や疑問をぶつけていました。

杉原先生は毎回それを決して否定せず、温かく受け止め、時には厳しい指摘もありましたがなるほどと思う意見を教えてくれました。

 

私は自尊心が低くひねくれた子どもだったので、先生の事が大好きなくせに先生の前では何も話さず、いつも黙ってノートを提出していました。それを毎回丁寧に読んで感想を書いてくれたことにどれほど救われたか。杉原先生とのノートが楽しみで、それだけを楽しみに通学していました。

 

杉原先生は劇団四季のミュージカルが大好きで、劇団四季にファンクラブがある事を知るきっかけの人でもありました(笑)

 

先生は放課後になると四季のCDを聴かせてくれました。

中でも私は四季オリジナルミュージカルの『夢から醒めた夢』が好きで、それが流れる度にカセットデッキの周りに集まる女子たちの輪の中には入れない私は、そっと離れた所で聴いていました。

そんなある時、先生はそっとダビングしたカセットテープを私にくれました。

天にも昇るような嬉しい気持ちでした。

何度も何度も家でテープが伸びる程聴きました。今でもソラで全部歌えます(笑)

その優しい記憶のおかげで、私は今でも『夢から醒めた夢』が1番好きなミュージカルです。

 

切なくやり切れない摂理を乗り越え、みんながそれぞれの立場で相手を思いやる心を持ち、幸せに向かう物語は、それまで見てきた私の世界とはまるで違い(少年漫画にも同様のメッセージ性はあったのでしょうが当時の私にはそれらがそうゆう風に響くことはありませんでした)、私の憧れる世界になりました。

 

ピコやマコのような友情って素敵だな。

自分の悲しい現実、苦しみを受け入れて、相手を許したり愛を与えるって素晴らしいな、と毎回涙を流して感動しました。

私はもしかしたらメソになってないだろうか。

自分の弱さ卑屈さを誰かのせいにしたり、被害者ぶったりしているのではないだろうか。

 

夢から醒めた夢、は私の中で人間関係について振り返るスイッチを押してくれた作品でした。

 

杉原先生はきっと、私の自尊心の低さに気がついていたのだと思います。

優しい先生でしたが、敢えて言葉で特定の生徒を褒めるということは決してしない先生が、些細なことではありましたが、そっと私を褒めてくれたことが何度かありました。

 

クラスで特に仲の良さそうな友だちがおらず、いつもひとりでいて、何も話さない生徒(だけどノートにはたくさんおしゃべりがある)。

 

先生が担任になった3年の時に、弟が新1年として入学したのも先生が何かと気に掛けてくれたきっかけかもしれません。

 

朝礼の時間、弟が1年の列でケタケタ笑って騒いでいると(当時なぜか1年の隣に3年の列がありました)私が弟に「静かにするんだよ」と手を繋いで静かに並ばせていたのですが、それを見て杉原先生は「ひまわりさんは弟思いで優しいお姉さんだね」と微笑みながら褒めてくれたことがありました。

 

当時私は、同級生たちから私だけでなく弟の事まで「変わったやつ」という目でみられることが耐えられなく、弟のことを「私の平和な学校生活を脅かす迷惑な存在だ」と思い始めていたのですが、杉原先生のその言葉で「私は間違ってない」と堂々と弟と手を繋ぐことが出来るようになりました。

そして弟の事を嫌いにならずに済みました。

もし、あの先生の言葉が無かったら、私はきっと弟をもっと酷い気持ちで見ることになってたかもしれません。

 

また杉原先生は、行きたい子はチケット代と交通費を出せば、四季のミュージカルを観に連れていってもくれました(その時に四季会員になればチケットが安く手に入ると知りました)

 

そこで生まれて初めて生の舞台の凄みを体感し、私は舞台が大好きになりました。

 

四季の人々が綺麗な姿で伸び伸びと歌い踊り、笑い泣き、現実ではない全く別の世界へ連れていってくれる素敵な空間。衝撃を受けました。

 

中でも夢にまで見た「夢から醒めた夢」を観れた感動は忘れません。

保坂さんのピコ、のびやかで可愛らしくて元気いっぱいなピコ。

CDで何度も聴いたピコの声を実際目の前で聴けた感動は言葉になりませんでした。

 

そしていつしか私は歌を歌うことが大好きになっていました。

(そして杉原先生と音楽の先生がとても上手だと褒めてくれて、ますます歌が好きになれたのでした)

 

そんな背景もあり、小学五年の時の部活を選ぶ際には迷わず演劇部を選びました。

演劇部は杉原先生とウォーリーそっくりな図画工作の花輪先生が顧問でした(この花輪先生もユニークな性格で人気がありました。とても絵が上手な先生で、私の描いた絵を褒めてくれたことで、絵を描くことが好きになるきっかけになった先生です)

 

この大好きな先生たちと過ごす演劇部の時間が大好きで、私は夢中になって演技をしていました。

演技を通して自分ではない別の人や生き物になることで

自分以外の他人というものに意識を向けられるようになり、彼らの思考を体験する内に、自分以外の視点をもつ想像力を持てるようになりました。

 

この想像力が無かったがために、私は友だちができなかったのだと思います。

 

そして、その演劇部でNという友人ができました。

隣のクラスだったNはそれまで接点がなく、噂では感情の起伏が激しく、泣き虫でわがままな女の子、ということでしたが、

実際の彼女は感情が豊かで、感情が高ぶると涙が出てしまい、弱いものにひたすら優しいゆえに納得のいかないものには梃でも動かないというだけの、意思の強い子でした。

 

少々我が強かった為に、女の子の中では浮いた存在となってしまっていたようですが、私とは不思議とウマが合いました。

Nは演劇が大好きで、漫画が大好きで、特に少年ジャンプが愛読書だったという事がとても嬉しく、親しみを覚えた最初のきっかけだったと覚えています(彼女の家には漫画好きな父親の書斎にたくさんの漫画がありました)

 

よく放課後、Nの家に遊びに行って漫画を読ませてもらったのは良い思い出です(そこで高橋留美子や手塚治虫の漫画をたくさん読みました)

 

Nとはその後、成人し社会人になるまで付き合いがありました。

(その後Nとは色々とあり今は連絡を取っていません。Nとの話は色々あるのでまたおいおい書きたいと思います)

 

演劇を通して人間について考えるようになり、少しずつ柔らかな人間になった私は気がつくと、クラスで話が出来る女の子が2~3人できるようになりました(そのクラスメイトたちも実は少年漫画が好きだったという共通点がありました。皆隠してただけで実は別に好きなものがあるのだと、外に出している姿だけが全てではないのだと気づかせてもらえた出来事でした)

 

そして小学六年になる春の前に、杉原先生は他の学校へ転任されました。

 

楽しい三年間をくれた杉原先生との別れは本当に苦しく悲しく、でも人前では決して泣いてはいけないと思っていた私はぐっと堪えて最後の日、杉原先生にお別れの挨拶をしました。

 

その時、杉原先生がかけてくれた言葉が今でも私を支えています。

(それは私の胸に秘めさせてください)

 

杉原先生とはその後、偶然最寄り駅で会うことが何度かあり、中学生になり成長した私を見てとても嬉しそうにしてくれたあの笑顔が今でも忘れられません。

 

その後、杉原先生はご結婚され、私の街から引っ越されました。

それ以降、お会いすることはありません。

 

杉原先生、会いたいです。

私を変えてくれた恩師です。

あの時先生に出逢えて本当によかった。

人間とは豊かなものだと教えてくれました。

本当に、ありがとうございました。

 

 

花輪先生も杉原先生と同時に転任されてしまい、一気に寂しくなりましたが、

その後の五・六年では年配の優しい女性の渡辺先生が担任となり、渡辺先生も弟と私のやり取りをそっと見守ってくださったり、年賀状に描いた私のイラストがとても上手だと褒めてくれて、家庭訪問の時には母親にもそう言って褒めて下さったりして、とても穏やかに楽しく過ごすことができました。

 

学芸会では3年間、四季のファミリーミュージカルをする事ができ、四年生ではだかの王様でホック役、五年生で桃次郎の冒険であんず役、六年生で念願の夢から醒めた夢のピコを演じる事ができました。

特に、夢から醒めた夢の最後『ふたりの世界』を歌いきった後に最前列にいた1年生たちが大きな声で「ピコー!ピコー!」と呼んでくれた感激は忘れられません。

普段地味で目立つことのない、自分を表現できない私にとって舞台は別人格になれるとても素敵な空間でした。

 

色々ありましたが、小学校はそんな感じで無事卒業し、楽しい思いをしたな、という記憶を残すことができました。 

 

色んな評判のある先生たちがいた中で、私はとても素敵な担任の先生に恵まれたなぁ…と今でも思います。  

 

自分のこれまでを振り返っているのですが、

私は気がつくと必ず誰かに救われている人生です。

もう駄目だ…と思うと必ず誰かが助けてくれるのです。

杉原先生はその最初の人でした。

 

誰かに助けてもらえる人生。

不思議ですね。

 

とてもありがたいです。

今は心からそう思えます。

 

 

 

リニューアルされ衣装や演出が当時と変わってしまいましたが、素敵なメッセージと音楽とこの世界観は変わらず大好きです。(昔の衣装がとても好きだったので少し残念ではありますが…)

 

 

 

 

保坂さんのピコは今でも特別なピコです。

 

 

生きることの喜び、死ぬという事、相手を大切に思う気持ち、大切なものがたくさん詰まった作品です。

 

赤川次郎さんの原作も北見隆さんの不思議絵と相まって素敵です。

 

 

機会がありましたら是非一度、ご覧になってみてくださいニコニコ

 

 

今日も皆さんの素敵な願いが叶いますようにおねがい