※今回も長いです。
4歳違いの兄は私が物心ついた頃から優等生でした。
顔立ちが優しく色白で、目が大きくて睫毛も長く、女の子みたいに可愛い顔で、近所の人にも可愛いと評判の兄でした。
兄が小学校中学年頃までは、私と弟とよく遊んでくれた優しい兄の記憶があります。
当時、ドラゴンクエストやファイナルファンタジーが大人気で、兄はお小遣いを貯めて買ったゲームを私たちの前でプレイし見せてくれ(兄がクリアすると私たちにも遊ばせてくれました)、三人で楽しく過ごしていた時間がとても楽しかったのを覚えています。
高学年になると同級生の友だちと遊ぶようになり、中学生になると吹奏楽部の練習と生徒会の活動で忙しくなり…と、兄とは家でもほとんど顔を会わせる事がなくなってゆきました。
また、中学生になった兄は一人部屋を与えられるとほとんどの時間をそこで過ごし、ご飯の時間以外は出てこなくなりました。
その頃から兄は家族とあまり会話をしなくなりました。
私と弟にも関心を示さず、ただ同じ家の中にいる人…というイメージになりました。
そんな兄でしたが、成績抜群、吹奏楽部では部長、生徒会長に選ばれ、先生からも同級生からも一目置かれる存在でした(後に私が中学に上がると「あのお兄さんの妹さんね」と先生たちからよく言われ、プレッシャーを感じるほど兄は人気がありました)。
高校は地元の進学校へ、そこでもブラスバンドの部長を務め、生徒会に入り活躍していました。
母はよく定期演奏会に通い、兄の姿を惚れ惚れと眺めて誇らしげでした。
そして、父兄や先生方に「兄くんのお母さん」と呼ばれる事に喜びを感じていたように思えます。
そんな兄が高校3年の夏、部活内での意見の食い違いから孤立したのをきっかけに(後に兄から聞いて知りました)人間不信が始まりました。
私の知る中で初めて兄が挫折した出来事です。
この頃の兄は家でほとんど話さず、私が部屋に入ろうとすると怒るのでとても話をできる状態ではありませんでした。
兄はなぜか両親だけでなく、祖父母の事も嫌ってましたので、家の中で誰も彼の胸の内を知る人間がいませんでした。
予備校にも行ったり行かなかったり、あんなに夢中にしていた部活動も辞め、志望校には全て落ちてしまい浪人することになりました。
浪人中、始まったのが喫煙とお酒です。
部屋がとてもタバコ臭かったのを覚えています。
その頃から、兄に話しかけると「ははっ…」と人を食ったようなわらいかたをし、家族の事を蔑むような発言をするようになりました。
何を話しても兄に言葉が通じず、全てを屁理屈で返され不快な気持ちにしかならなかったので私は兄と話すことをやめました。
3年後、兄は浪人を三回したので、私と大学受験が重なり、この頃は家計も厳しくなってきていたので「私も頑張るからお兄ちゃんも合格してね」と私が話すと「わかった」とめずらしく反応し、その年ようやく教育学部のある大学に合格し、小学校の教員を目指すことになりました。
※奇しくも、父は大学で教員免許をとり先生になるのが夢でした。兄が無意識の内にかつての父と同じ道を進もうと決めたのは無関係ではない…と私は勝手に思っています。
大学時代の兄は深夜のアルバイト仲間と夜遊びをする毎日で、学校に行ったり行かなかったり…だったそうですが、よくわかりません。
お酒とタバコの量が増え、灰皿に常にタバコの吸い殻が溢れ、部屋の押し入れには一升瓶が何本も入っていて(兄は押し入れに漫画をたくさん持っていたので私はコッソリ借りに行きコッソリ返していました)驚いたのを覚えています。
大学では教授と揉めたり気に入らない授業はでない…などで単位が足りず、2回留年をしました。
しかし、教師になりたいという夢は本気だったらしく、最後の年に教員免許を取得し、無事小学校の教員になる夢を叶えました。
(そして家の姿からは想像もつかないほど、教育実習先の生徒さんたちや赴任先の生徒さんたちに慕われ、その後何年も年賀状をもらうのです。)
小学校の教員になった兄は自信を取り戻したのか、3年ほどは家族と会話が増え、仕事も順調そうに見えました。
母は大喜びで、毎日兄の学校生活の話を聞いては私に話し得意気で、近所の人に兄の話をするのが嬉しくてたまらない…という顔で話していました。
兄は同僚の先生方にも恵まれ、生き生きしていたと思います。
そんな中、会社の資金繰りが厳しくなった母は、兄の名義で借金を作りました。
兄は大変嫌がりました。
(それはそうですよね、私も嫌です)
そして、家を出て行きました。
そしてまた、家族の誰とも連絡をとらなくなりました。
それからしばらくして、兄は鬱病になり休職することになります。
弟と同じADHDの児童の担任を務めたものの、学級崩壊してしまい、責任を問われた兄は心を病んでしまったのです。
長くなったので続きます→二