今日は母の話の続きです。

前半が消えてしまい、なんだこりゃ…な方はごめんなさい。


母は本来は明るく情が深い人です。

ただ、あまりにも気難しい父を毎日相手する内に私が中学生になってから変わってしまいました。



※長いですし暗いのでご注意下さい。




思春期になると兄は反抗的になり、彼が高校生になる頃(私と兄は4つ違います)には父を完全に無視するようになりました。


父もその頃にはちゃぶ台返しするほど激昂する事はなくなりましたが、毎晩酔いながら相変わらず自分語りを私と母と弟に続けていました。


私も母もその頃には父の話にうんざりしていて、父のいない所で母は口を開けば父の悪口を言ってばかりでした。


不思議なもので、うんざりしている父の悪口を母が言うと、妙に嫌なモヤモヤした気持ちになりました。


毎日毎日忙しく仕事と家庭と夫の機嫌をとる生活に母も疲れ、ストレスが泥のように沈殿し溜まり、心の中の明るくて真っ白だった部分も淀んできたのでしょう。


母は次第に優秀な兄と私を比べ、また私が女性らしい服や髪型をすると皮肉をいうようになりました。

(外出時でも綺麗な女性やお洒落な女性をみると「あんな格好をして恥ずかしく(寒く)ないのかしら」と言うのでした)


しかし、私がボーイッシュな服装と髪型にすると「女の子なのに!勿体ない!」と嘆くのです。どうすればよいのかわかりませんでした。

(私が厚着をするようになったのもこの頃からです)


私が1度、中学生の時にとある絵の賞をいただいた時、父は大喜びしてお小遣いをくれましたが、母はニヤニヤしながら「へー…よかったじゃない…」といった後、「そんなものより勉強してしっかり将来の事を考えなさい」と冷たく言われ、とても悲しかったのを覚えています。

(それから絵をこっそり描くようになり、次第に描かなくなりました)


母は私の好きになるものを、その度に否定しました。

(なのでその内『私は自分の好きになるものは変なものなのだ』と思うようになりました)


また、何かと体型の事、姿勢の事、を注意され続ける内に、『私は太っていてみっともないんだ。不細工なんだ』と思うようになりました。


母は、私と二人の時にだけ、そういう言葉を投げつけてきたので、祖父母は何故私がこんなにも自信のない、体型にコンプレックスを持つような娘になったのかわからず、とても心配をしていました。

(でも私にとって祖父母がいてくれた事が、どれほど救われたかわかりません)


母は外では明るく朗らかで元気なおかみさんでしたが、家に帰ってくると怒りっぽくヒステリックで愚痴ばかりをいう人に変身するのでした。

(子ども目線なのでわかりませんが、母は祖父母の前でも良妻賢母を演じていた?ので、祖父母はそんな母の一面を知らなかった…か、わかっていてもあの環境ではどうする事もできなかったのだと思います。昔でしたしね)。


すぐ怒り出しヒステリックになる母に、父も思うところがあったのか、私が高校生になる頃には父は大人しい人になり、母の言われるまま、母の言うことに逆らわなくなりました。


今思うと、母はノイローゼのような状態だったのかもしれません。


母は、普段は父や弟や兄にばかり関心を向け私には関心を向けないくせに、私が何かをしようとしたり選ぼうとすると口を出し、母の思う通りにしなければ気が済まず、いつまでもぐじぐじと嫌な気分を引きづる状態でした。


家族を自分の正しいと思う基準で縛り、自分の思う通りにしないと不機嫌で怒り、いつまでも嫌みが止まらないのです。

そして「私はこんなに頑張ってるのに!誰もわかってくれない!」と怒りながら嘆くのです。


昔の父と同じことを母もするようになっていました。




子どもって不思議なもので、どんなに傷つけられても(母はこの一連のエピソードを1つも覚えておらず、むしろ私を可愛がっていたと記憶しているそうです)母親の事を嫌いになれないのです。


幼い頃に、お歌を歌いながら髪の毛を結ってくれた優しい手や、お風呂に入った時に感じた母の柔らかさ、いい匂い、ニコニコしながら「ひまわりちゃんが一番可愛いわよ!」と言ってくれた記憶が残っていて、大好きなのです。甘えたい、話を聞いて欲しい気持ちが消えないのです(今はもうありませんが)。


忙しい母が、私が大学受験をするための学校見学に一度だけ、一緒に行ってくれた事がありました。

その時、大学の近くにとても可愛い雑貨屋さんがあり、そこで毛糸でできた可愛いアラン模様の真っ赤な手袋を買ってくれた事があります。

(なぜあんな可愛い女の子らしい手袋を買ってくれたのかは謎です。きっと気まぐれだったのでしょう)

女の子らしい見るからに可愛いものを買って貰えた喜び、母と二人で出掛けられた喜び、そんな喜びの気持ちがいっぱいになって、当時は穴が空いても繕いながら使い続けました。そしてなんと…今もタンスにしまってあります爆笑

それくらい、母親への愛着というのは子どもにとって強いのだ…と身をもって実感しております(笑)



でも現実の母は、高校までの兄とは別人のようになってしまった大学を何度も留年する兄と、この頃には言語化できない気持ちを叫んだり壁を叩いたりすることでしか表現できない弟(今でいうASDとAHDHが合わさった状態でした)を何とかしないとと必死で、更に頼りにしていた祖父が亡くなり、祖母も認知症の症状がではじめていて、そちらばかりを見ていました(それは仕方ないことですね、大変でしたもの)。


私はそんな中、何とか母に振り向いて貰おうと勉強はそれなりでしたが、家の手伝いや祖母の介護、母の話し相手をし、私だけは母を困らせてはいけないと自分に言い聞かせていました。


だけど、どんなに頑張っても母は私を軽く扱いました(後になって母と話をした際、母はそんなつもりはなかったと言いましたが、私にはそう感じました)。


その頃には私は母にとって、いてもいなくてもいい人間なんだ…と思うようになっていました。


私が高校3年、第一志望に合格した(というか第一志望しかうけませんでした。この頃にはバブルが弾けて家計も苦しくなり始めていたので)頃です。



私は将来子どもなんか絶対生まない…私と同じような可哀想な思いをさせたくない…と思うようになりました。



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