憲法発布略図(1889年、楊洲周延画)

 

明治以前の日本人は、自由の概念も、平等の概念も、博愛の概念ももっていませんでした。

 

これらの言葉は、すべて明治維新後に外国語の対訳としてつくられた日本語です。

 

つまりそれまでの日本人は、こうした考えを持っていなかった。

 

なぜでしょう? 

 

私たちにとって、自由がないこと、平等がないこと、博愛がないことが、

 

彼らのように恐怖の対象にならない環境だったからです。

 

つまり、その反対のもの、不自由、差別、憎しみや嫉妬、といったものが

 

日本の環境には希薄だった、あるいは彼らに比べ、ほとんどなかったのです。

 

どれほど当時のイギリス人が身分制度でがんじがらめになっていたか、

 

どれほど貧富の差が激しく、差別が過酷だったか、

 

どれほど人々の間に優しい気持ちが枯渇し、憎しみが全土を覆い、搾取が度を越し、

 

奴隷的残酷な運命のなかにあったか(つまり極端に不幸だったか)は、

 

日本人には実感としてわかないでしょう。

 

想像を絶する不幸が、彼らにあったのです。

 

私たちにはなかった。

 

なぜ?

 

なぜなら日本人は神代の時代から平和で、他民族の侵略もなく、

 

豊かな自然のなかで、繊細な人情をもち合って生きつづけてきたからです。

 

 

イギリスと日本の関係はいつ始まったのか? 

 

答えは、幕末・明治維新です。 


幕末はアメリカの黒船の印象が強いのですが、 

 

幕末維新の時代を通して日本に最も強い影響を与えたのはイギリスです。 

 

英国の武器商人トーマス・グラバーは日本に 

 

イギリス製の武器を大量に販売しましたし、

 

幕府を見限り 倒幕のシナリオを描き、

 

坂本龍馬を初めとする維新志士達を陰で

 

支援していたのもイギリスだという説もあるくらいです。 

 

当時、イギリスの首都・ロンドンは 

 

世界の中心として最も栄えていた先進都市でした。 

 

世界中からモノが集まり、工場では物資が 

 

大量に生産され、地面の下には地下鉄が走っていました。 


そしてそんな世界の覇権国家イギリスに 

 

伊藤博文(初代内閣総理大臣)、井上馨(初代外務大臣)、 

 

森有礼(初代文部大臣)といった多くの才能ある

 

日本の若者が留学していきます。 

 

世界最先端の都を見て、大英帝国の凄さと日本の工業化の遅れを 

 

肌で感じた彼らは勉学に励み日本の近代化に大きく貢献していきます。 

 

イギリスはそんな「親英派」の彼らを通じて

 

明治新政府に影響を与えていくのです。 


しかし、なぜイギリスは極東の島国の明治維新に関与したのでしょうか? 


当時、欧米列強は植民地争奪合戦を繰り広げていました。 

 

日本のお隣の国、清国もイギリスに

 

アヘン戦争を仕掛けられ、ボロボロにされてしまいます。 

 

日本はそんな植民地争奪合戦の最後に

 

残った極東の島国だったのです。 

 

そして、そんな植民地支配に長けたイギリスが、 

 

なかなか言うことを聞かない旧支配者の江戸幕府を倒して、 

 

親英の新支配者を擁立し、裏で操ろうと

 

考えていたとしても不思議ではありません。 

 

そう、明治維新とはイギリスの世界戦略の一つだったのです。 


そして、この戦略の上に踊らされたのが幕末の維新志士でした。 

 

イギリスにとって用のなくなった彼らは

 

明治以降、次々に暗殺されていきます。 

 

坂本龍馬(暗殺)、大村益次郎(暗殺)

 

西郷隆盛(西南戦争で自刃)、大久保利通(暗殺)などなど。 


最後に残った英国留学生の伊藤博文が 

 

初代内閣総理大臣になったというのは

 

果たして偶然だったのでしょうか? 


こうして歴史を辿っていくと、われわれ日本人は 

 

明治維新をもう少し詳しく知る必要があるのかもしれません… 


戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

 

そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

 

私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

 

客観的に情勢を判断する必要があります。


 

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