自分もそうだけど、大人になってから発達障害であることが判明した人にとって、『できない自分』というものを認めるまでには、とても大きなハードルがある。
もちろん、子供の頃から発達障害だと分かっていたとしても、今の日本の社会の現状においては、同じように感じてしまう人もたくさんいると思う。
大抵の場合、私達は小さい頃から「やれば出来る」とか「頑張れば出来る」と教わって育つ。
もちろん、その論理自体が間違いだとは思わない。ただ、そこには「やってもできない子がいる」とか「頑張っても出来ない事がある」とか「出来るけど、無理をしなくてはならない」と言うような発想は欠如していると感じる。
自分もそう教わって育ったから、出来ない自分を目の当たりにしたときに、認められなくて苦しんだし、今もその『みじめさ』とどのように向き合うべきか悩んでいる。
日本人はそれを『挫折』と呼んで美化しがちだが、それはあくまで乗り越えられた人間だけが辿り着ける『境地』であると言える。
乗り越えられない人間にとっては、理想と現実の狭間に、絶望的なまでの距離がある事を思い知らされるだけの、苦痛と自己否定の根源でしかない。
さらに、『出来ない自分』を苦しんで苦しんで、やっと認められるようになったとしても、その先には『そんな自分をどうやって社会に受け入れてもらうべきか』という現実が待っている。
私達が一歩、自分の殻を破ったその外側には、「やれば出来る」「頑張れば出来る」に洗脳され、それを乗り越えてきた途方もない数の人たちが、社会を形成しているのだ。
確かに、近代の日本という国は、潜在的な『敗戦』に対するコンプレックスのようなものから社会の成り立ちがスタートしている一つの側面があり、ガムシャラに身を粉にして働き、それを物や形、お金などの結果として示すことによって、高度経済成長やさらなる発展に繋げてきた事実がある。これは疑う余地も無いし、そうした時代を支えた人達が、今の日本の礎となったことは間違いないと思う。今を生きるすべての人たちが尊敬すべき、先人の血と汗と涙の功績だ。
しかし、当時の『最善』は現代の『最善』では無いということを、価値観や意識のレベルで理解している人がどれだけいるであろうか? 私はまだ半数にも、三分の一にも満たないと考える。
少子高齢化が進み、社会の発展スピードは鈍り、国の借金はどんどんと膨れ上がって、国際社会からは置いていかれる一方である。
日々のニュースは暗い話題とスキャンダルばかり。同じ国民同士で足を引っ張り合うだけでなく、その窮状から現実逃避する術として、外国の責任問題や脅威に目を向けさせようとするほどの地獄絵図がそこにある。
なぜここまで社会は二極化が進み、荒廃しつつあるのか。
その根底にこそ、「やれば出来る」、「頑張れば出来る」の悪しき洗脳があると私は思う。
結局のところ、「やれば出来る」とか「頑張れば出来る」というのは、過去の栄光を基にしてつくられた『希望であり幻想』でしかない。なのに、それを乗り越えることを『普通』に据えてしまうから、社会は破滅へと向かっていく。
「やれば出来る」「頑張れば出来る」に支配され、過去の栄光を美化し、あの頃の最善が今も最善のはずだと信じて疑わない人たちが、社会をダメにしていく。
そういう人たちだって、真面目に人生と向き合っていることに変わりはないはず。なのに、それが社会をダメにしていくことに繋がるのだとすれば、これほどやりきれないことはない。
全ては、「やれば出来る」「頑張れば出来る」の裏側に、「やっても出来ない人がいる」「頑張っても出来ない事がある」を理解できない世代が作った、時代錯誤の価値観が生み出しているジェネレーションギャップが原因だと思う。
セクハラやパワハラなどの多様なハラスメントもそう、過労死問題もそう、貧困にあえぐ人たちもそう、もちろん、発達障害者に生きづらい社会もそう。
今、無数に転がっている社会問題の根本には、無理や無茶をしなければ維持できないところに『普通』のボーダーラインがある、という部分から発生している『しわ寄せ』のようなものが数えきれないほど存在している。
今の日本の社会は、その『普通』のボーダーラインを苦も無く乗り越えられる一握りの人たちと、苦しんで苦しんで乗り越えた大多数の人たち。そして、そこから振り落とされた大多数の人たちで成り立っていると思う。
日本の幸福度が上がっていかないのも、それが原因の一つであろう。
みんな、ただ生きていくだけで息も絶え絶えだ。
そりゃあ、年間に二万も三万も自殺するわ。
多様な価値観、多様な生き方、と口ではキレイごとを言っているが、果たしてその中のどれだけの人が、それを理解できているのだろうか。
もし、自分がどれだけ理解しているか知りたければ、『やれば出来る』『頑張れば出来る』にどのくらい洗脳されているかを思い浮かべてみればいい。
無理だと思っていても「できない」と言えないことがあるなら、それは少なからず洗脳されている証に違いない。自分もそうだったと、最近気づいたから。
最後に重ねて言うが、『やれば出来る』『頑張れば出来る』という考え方自体を否定したいわけでは無い。それは『モチベーション』と言う意味では、効果的だと思うし、それによって何かを成しえる人もいると思うから。
しかし、それが普遍的なものでは無いことを理解しようよ、っていう話だ。
この話の結論としては二つ。
一つは、いい加減『やっても出来ない人がいる』『頑張っても出来ない事がある』ということを認知しませんか? ということ。
そうすれば、おのずと『普通』のボーダーラインを下げることが出来るし、無理や無茶をしなければ出来ない事を、維持し続けることがいかに社会をダメにするか。それを知り、見直すためのキッカケにもなるはずだ。
もう一つは、『やれば出来る』『頑張れば出来る』から『工夫すれば出来る』に最善の価値観をうつしませんか? ということ。
限られた資源と人材で、先細りの社会を生きていくためには、今までのやり方や価値観ではもはや太刀打ちできない現状である。
これから先の未来で、日本がまた大きな発展を遂げる可能性があるとすれば、それは『工夫する社会』というものが成熟した時だと思う。
無いところから新しいものを生み出していくために、ガムシャラに頑張る時代はもう遥か前に終わっている。
これからは、今そこにあるモノをいかに取捨選択し、自然に生きていけるような形で適材適所の工夫をし、人も物も活かしていこうとするか。
ここにかかっていると思う。
まぁ、議員に忖度して不正を働く人間が「適材適所」で税金を納める監督官庁のトップになってしまうのだから、まだまだ先は遠いだろうけど。
きっとあの人も「やれば出来る」に洗脳されたまま生きてきてしまった人なんだろうなぁ。
と、話はそれたけど、いつかこの『工夫すれば出来る』の価値観が多数派になった時に、もっと一人ひとりの人間が生きやすい世の中に、日本になるんじゃないかと思う。
この国が好きだし、これから先もこの国で生きていきたいから、早く社会が時代の最善に追いつけばいいのにな、と思いながら。
そして、そう感じた一人が声をあげて、それを聞いた誰かがまた声を上げる事によって、少しずつ日本の社会は時代の最善に追いつくことが出来るはず。
と思ったから、こんな事を書いてみました。
未だに仕事に復帰できず、ブログと占いで日々を過ごしている、イチ発達障害者の戯言です。
こうやってブログに書かないと、頭の中からあっという間に消えていってしまうので・・・。
明日はどっちだ?(=゚ω゚)ノ
