なにかを食べること。
なにも食べないこと。
どちらも「全く同じ」だと最近になって気づいた。
ここまで読んだ皆さんの胸中には「なに言ってるんだ、コイツは?」「いよいよおかしくなってしまったんじゃ…」「じゃあもう一生食べるな」などといった不信感が駆け巡ったかもしれない。
もし駆け巡らせてしまったのであれば大変申し訳ないが、もう少しだけ私の持論にお付き合いいただきたい。
その上で、私が言わんとしていることの大筋をご理解いただけたらば、おそらく今度は爽快感が皆さんの体内に駆け巡ることでしょう。
私は皆さんの体の中に、何かしらを駆け巡らせたいのです。
例えば、ある会社の会議で1人の社員が意見を出す。
「我が社の売上を上げるために、私はA案を進めるのが良いと思います!」
良い意見だ。ハキハキとした話し方。きっと彼は前髪を上げているし、歯磨き粉はキシリデントだろう。
すると、もう1人の社員が立ち上がる。
「A案は前年度で一度売上を5%ほど落としているため、今年度の施策としては最適ではないかと思われます。私はB案を推奨します。」
これも良い意見。前例と具体的な数値からの冷静な分析だ。賢者は歴史から学び、愚者は経験から学ぶ。なんと言っても、彼は絶対にメガネをかけているはずだ。パソコンもMac。A案出したキミ、ちょっと前髪を上げたくらいで調子に乗るんじゃないぞ。
さて、会議で上がったA案とB案。
この2つは正反対の意見だろうか。
私は「全く同じ」だと思う。
もしかしたら、2つの提案内容は全く違うかもしれない。
でも、2つの意見の目的はどちらも「売上を伸ばし、会社の目標を達成すること」。
だから、本質的に「同じ」だと感じるんです。
じゃあ、A案の反対は?
A案の反対はB案ではなく、「会議の中で意見を出さないこと」だろう。
A案が良いともB案が悪いとも言わず、C案も考えずに会議の終わりを待つ姿勢こそが、会議の目的であるはずの「目標達成のための施策を考える」から最も遠い振る舞いであることは明白だ。
この例は自戒もたっぷりと含んでいるが、仕事の話を続けてもなんだか偉そうになってしまうので、ちょっと別の例を出す。
高校野球、夏の甲子園、決勝戦。
チーム全員で3年間流してきた汗と涙の結晶、その努力の成果を、目の前の試合に全力でぶつける。
両校一歩も譲らぬ激闘の末、延長戦を制しA校が優勝を決めた。
A校キャプテンの高崎くんはインタビューを受けているが、カメラの前で泣きじゃくり、上手く言葉が出てこない。
1年生の頃は過酷な練習についていけず、一度は退部を考えたこともあったのだろう。それでも必死に喰らいつき、その熱意が監督に買われてキャプテンに選ばれたんだな、よかったよかった。
そんな高崎くんの後ろでカメラに写りたがる、お調子者の副キャプテン泉谷は、高崎くんとは打って変わり、優勝に浮かれ舞い上がっている。
彼は持ち前の明るさとここ一番の勝負強さから、ムードメーカーとしての役割も果たしているが、実はチーム屈指の負けず嫌いで、努力家な一面もあるのかもしれない。たぶんショート。
泣き続ける高崎くんと、にこやかな泉谷。
2人の表情は正反対だが、もちろんこれは「全く同じ」と言えるはず。
表現の違いこそあれ、2人の感情を揺さぶるものは「甲子園優勝の喜び」に他ならないからだ。
この話には皆さんも共感していただけるかと思いますが、本題はここから。
惜しくも優勝を逃したB校キャプテン東田の悔し涙。
私はこの涙を、A校キャプテンの嬉し涙と「全く同じ」だと思う。
もちろん、お調子者の泉谷の笑顔も、東田の涙と「全く同じ」。
だって、みんな「甲子園の決勝戦」という共通のものに起因した感情だから。
感情が揺さぶられている人がみんな「同じ」ならば、ここでの「反対」は感情を揺さぶられていない人。
そう、「ようやく受験勉強に集中できる」「部活だるかったよなー」なんて飄々としているお前のことだ!アルプススタンドの杉本!!!
そういうことです。
(この物語はフィクションです。実在の人物や団体とは関係ありません。)
あんまり良くない例も出す。
「ワクチン打った方がいい」も「ワクチン打たない方がいい」も健康でいたいと言う気持ちから生まれる意見だから「全く同じ」のはず。
「なんかよく分からないけど、友達も打ったらしいからとりあえず打とう」みたいなのが一番良くないと思う。
…そうだろうか?
良し悪しで言えば、もしワクチンを打って病気を予防できたのなら、それはそれでよかったのではないだろうか。
じゃあ意見を持たず、ワクチンを打つというアクションも起こさなかった人が悪?
いや、でも「細かいことは気にせずに生きていくことこそが、私の健康の秘訣なんです」と田中トメさん(90)に言われてしまえば、その場合も「全く同じ」の仲間入りだ。
どれも全部「正解」なのかもしれない。
仮に「反対」だったとしても「不正解」ではないのかもしれない。
部活に熱中しきれなかった杉本も、学校側から部活動への入部を強制されていたかもしれないし、親のエゴで野球を続けさせられていたかもしれない。
そう考えると、部活からの解放は彼にとって人生を大きく変える瞬間だったかもしれない。
会社で意見を出さない社員も、生産性のない定例会にうんざりして、「こんな会議を続ける暇があったら、他の業務に集中したい」と思い、敢えて発言を控えていたかもしれない。
B案を出したメガネくんのことが嫌いだから何も言わなかったんだとしても、それも過度なストレスを避けるための自己防衛であるならば、強くは否定できないのではないだろうか。
勝手に嫌われ役にしてごめんね、メガネくん。
でも、そういうことだ。
意見の内容や有無に関わらず、個人の考え方が個人の数だけあるということだから、やっぱり全員「全く同じ」という表現が私は一番しっくりくる。
私は。
こんな意見に共感してくださる方も、到底理解には及ばないという方も、どっちもいたほうがいいんです。
なんやかんやでタイトルに戻ると、「食べること」と「食べないこと」は全く同じ。
おなかが空いてごはんを食べるのも、おなかが空いてなくてもお昼休みになったからお弁当を食べるのも、なんとなく口寂しいからお菓子を食べるのも、幸せになるためにケーキを食べるのも、全部同じ。
とするならば、ダイエットのために夕食を我慢するのも、ボクサーが減量のために食事を断つことも、健康維持のためにファスティングして内臓を休ませることも、全部同じ。
だから、「食べること」と「食べない」ことは全く同じ。
そんな気持ちで書きました。
ちょっとでも爽快感が駆け巡ってくださると嬉しいです。
私は皆さんの体の中に、何かしらを駆け巡らせたいのです。
もし別のご意見や感想があれば、ぜひコメント欄に駆け巡らせてください。文字を。
皆さんだって、何かしらを駆け巡らせたいのです。
どんな意見も、「全く同じ」と思えるから受け入れられる。
いろんな意見を、おいしく食べよう。
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私は1日3食のうち1回か2回「食べない」を選んでます。
食べたいものがない時とか、食べること以外に時間と体力を使いたい時とか。
そんな時は、飲み物だけで過ごします。
100歳まで、自分が本当に食べたいものを食べ続けたいから。
「食べたいから食べない」という選択は、「食べたいから食べる」という選択をするすべての人ができるはず。
少しでもご興味があれば、ぜひ。