正月について考える。
それは新年明けましておめでとうの渦中で、突然問われた「今年の抱負」という無理難題に対し、慌てて「更新の止まっていたブログを再開します」と口走ってしまったからではない。
そもそも「今年の抱負」を12月まで記憶し、実践できている人間の方が不自然だ。
どのくらい不自然かというと、リレー選手がバトンを次の走者に託したかと思えば、そのままゴールまで並走するくらいだ。
それはもうリレーではなく、中距離走だろう。
「中距離走」という種目も不自然だ。
瞬発力や速さを競う短距離走。
持久力や駆け引きを要求される長距離走。
中距離走とは、そのどちらの才も持ち合わせた人間だけが踏み込むことを許される、超高等領域なのだろうか。
「纏」と「錬」の応用技「円」みたいなことなのだろうか。
私はきっと違うと思う。
恐らくは陸上競技会の重鎮の御子息が陸上の英才教育を受けたものの、短距離でも長距離でも花開かず苦しんでいたところに、重鎮が「我が子の才能は短距離でも長距離でもない、中距離だ!!」と鶴の一声を上げ、協議会もそれに逆らえず、中距離走が正式な種目として制定されたと推察した。
その後、御子息が中距離走で自らの才を見出したかどうかは定かではない。
それくらいの不自然さだ。「今年の抱負」を覚えておくことは。
なお、中距離走者の皆様に対して一部不適切な表現があったことを、謹んでお詫び申し上げます。
中距離走はほんとはすごいんです。
正月について考える。
考えているうちに、もう正月は終わっている。
正月は終わり半月が経とうというのに、年を跨いで初めて会う人には「今年もよろしく」と決まり文句を交わす。
正月の賞味期限の長さは異常だ。
例えば、これをバレンタインデーに置き換えてみる。
3月頭に再開した友人に対して、突如チョコレートを催促する。
そんなことしてはいけない。
状況が状況なら、何かの罪で訴えられる可能性すらある。
というか、バレンタインデー当日も催促とかはしない方がいいと思います。
考えてみれば、クリスマスが1番かわいそうだ。
もっともクリスマスグッズやプレゼントが横行する店内にも、その傍らでは門松やしめ縄が並び、
虎視眈々とそのポジションを狙っている。
12月26日の朝には、赤と白のキラキラはすべて撤収され、厳かな琴の音色が店内に響き渡っている。
クリスマスの賞味期限は当日。
かわいそうに。
正月について考える。
「正月らしさ」とはなんだろうか。
除夜の鐘に耳を澄ませ、お屠蘇で乾杯し、初詣で今年の運気がなんであれ、イオンに行って福袋を買うのだろう。
あるいはたまの休日くらいとこたつに籠り、餅もおせちも用意せずに日々の疲れだけを癒す「寝正月」と洒落込むのだろう。
他にもいろいろなお正月の過ごし方はあれど、すべてあくまで「人が作り出した正月らしさ」に過ぎない。
正月そのものが我々に「正月とは何たるか」を知らしめてくれているわけではないのだ。
初日の出だって清々しい心だって、私たち人間が自発的に作り出す正月のアイデンティティに過ぎない。
もっとごく自然に、我々の意図せぬところで「正月らしさ」を実感するところがあるのではないか。
私には一つだけ、心当たりがある。
それは正月がもたらす奇跡の瞬間。
ちっぽけな人間の力では抗えない、誰もが抱く感情。
それは、「『1月』と書いたときの、なんとも言えないもの寂しさ」である。
あれしか有り得ない。
昨年10月から3ヶ月かけて培われてきた、二桁月に対する圧倒的な信頼感。
これが「1」という一桁月の中でも群を抜いて頼りない数字に直面したとき、我々の胸中はもの寂しさでいっぱいになる。
と同時に、「そうか、また1月を迎えたんだ…」「正月になったんだ」と感じさせられるのだ。それはもう、しみじみとだ。
つまり、正月とはもの寂しさ。
諸行無常と定者必衰の理を表してくれている。
異論の余地はないはずだ。
満場一致。
もし「日付も人間が考えたんだから違うだろ」と問う方がいましたらば、その意見は至極真っ当です。
ただ、そうなってくるといよいよ「正月とは何か」が分からなくなってくる。
日付だけで言えば、もともとは旧暦における正月いわゆる「旧正月」があり、これを新暦に置き換えると毎年日付が違うそうだ。
「旧正月も新正月も正月ではない」となると、いよいよ新たに「中正月」を制定するよう協議会に申請する必要があるかも知れない。
そういえば「新正月」ってあんまり言わないですよね。
「新正月」ってなんか「新生姜」っぽいですよね。
じゃあ本当の正月は、新生姜が出回る6月と10月の年2回?
今年もよろしくお願いします。