
先日、貝田禎造氏の著作[古代天皇長寿の謎 日本書紀の暦を解く]という書籍を読んだので、このブログに読んでの感想というか見解を書いておこうと思います。
もう絶版で古書しかないようで、幸いにもAmazonに古書で5300円で出ていたので、ちょっと高いですが、即、購入して読んでみました。
なぜ、この本に興味を持ったかというと、日本書紀で、初期の天皇が100歳を越える長寿であることについて、一部の識者の間で「建国初期の日本の暦は、春秋暦といって、春夏で一年、秋冬で一年だったので、2倍になってるだけなんです」という主張があり、何を根拠にしてるのだろう?と思っていたところ、ある識者の方が、この[古代天皇長寿の謎 日本書紀の暦を解く]を紹介されていて、これが根拠の一つのようなことを仰ってたので、是非読んでみようと思ってのことでした。
ただ読んでみて、少しニュアンス違わないか?というモヤモヤしたものがいくつかありましたので、その辺などを書こうと思います。
①[春秋暦]について
[春秋暦]という言葉について、とりあえず、ググってみました。ウィキペディアには、[春秋二倍暦説]というものはありまして、そこには、一部の学者が、裴松之(はいしょうし、372-451年)による魏志倭人伝の注釈の中に、
その俗、正蔵四節を知らず、ただ春耕し秋収獲するを計って年紀と為す)」とあることを根拠にこの説を展開した。
とありました。
この魏志倭人伝の裴松之注は、貝田氏もこの本の中でまったく同じ箇所を引用していて
「魏略に曰く、その俗は正蔵四節(春夏秋冬)を知らず、ただ春耕秋収をもって年記とする」。
本居宣長の述べるところに近い。
貝田禎造 [古代天皇長寿の謎 日本書紀の暦を解く]26頁
と述べ、更に魏志倭人伝の本文にある倭国の貿易に関する記述から、
この記述からすると、すでにかなり高度な社会制度を整えていたようであり、暦を全く必要としないと説明するのは困難である。
だが、今日、一般には『魏志』倭人伝の右にあげた斐松之の注や、本居宣長の述べるところをもって、古代の日本には、暦がなかったという説明の根拠とし、また『日本書紀』の紀年を虚構だとする意見の有力な根拠にもしているようである。
貝田禎造 [古代天皇長寿の謎 日本書紀の暦を解く]27頁
と主張を展開しているので、むしろ、貝田氏は、この記述を「暦が無かった」とする人の根拠として認識しているようです。
※本居宣長の述べるところ、とは
「古代の日本には、暦がなかった。月の順序も、日の順序もなかった。青菜の花の咲くのを見て苗代時を知り、麦の穂のあからむを見て田植時を知り…」という意見を述べている。
貝田禎造[古代天皇長寿の謎 日本書紀の暦を解く]18頁
そもそも魏志倭人伝(三国志)の著者である陳寿は、西暦297年になくなっており、注釈者の裴松之は、西暦372年生まれ。何年に書かれたものかはわかりませんが、100年後くらいに書かれた注釈書の一文という具合です。
②貝田氏の説による日本書紀の暦
春秋暦について述べられる識者の方たちの主張によると、「昔の日本の暦は、二倍になっているので、半分にすればいいんです。神武天皇は、127歳で崩御されてますが、これは半分の63歳ということです。」というようなものがあります。
それで、貝田氏の説の結論部分を以下に引用します。
(a)仁徳紀以前は(イ)〜(ハ)より、一ツキを一ヶ月、一トシを一年として置き換えられており、それぞれ二倍、したがって一年の長さが四倍に伸びている。
(b)(ロ)〜(ハ)により履中〜雄略紀間は、一ヶ月三〇日とされながらも、一年は一トシ、半年にとられている。すなわち一年は六ヶ月二回になり、一年の長さは二倍に伸びている。
(c)(ハ)により太陰暦で読めるのは清寧紀以降である。ただし日本で太陰暦が使用されていたかどうかは別の問題である。
[古代天皇長寿の謎 日本書紀の暦を解く] 147頁
※著者は、直前に(イ)(ロ)(ハ)で、それぞれの説明をしています。
※一トシ、一ツキというカタカナ表記は、大陸から伝わる太陰暦とは異なった日本独自の暦における一年、一月を意味します。一ツキ=15日というのが、この本の主張の大きなものとなっています。
これも少し識者の方たちの主張と違っています。貝田氏の説によると、神武天皇は、4倍期の方なので、約31歳で崩御となります。
崩御されたのは、日本書紀では、御即位から76年。四分の一とすると、約19年です。
12歳での御即位となります。
45歳で、東征に向かわれたので、約11歳でのこととなります。
半分ですと、22歳で東征に向かわれ、25歳でご即位。63歳で崩御されるというので、確かに現代人にも、受け入れられる年齢になるとは思いますが、貝田氏の主張とは、少し違っているようです。
③第12代景行天皇紀
[春秋暦]について僕は懐疑的な立場なのですが、それはなぜかといいますと、僕の好きな日本武尊命のことが書かれている景行天皇紀がやはりおかしなことになるからです。
開化天皇〜成務天皇までの天皇のご寿命は
9代 開化天皇 115歳
10代 崇神天皇 120歳
11代 垂仁天皇 140歳
12代 景行天皇 106歳
13代 成務天皇 107歳
と[日本書紀]ではなっています。
景行天皇の御代もまだかなり長寿の時代です。ヤマトタケルは、景行天皇27年冬10月13日16歳で熊襲を討伐し、景行天皇40年秋7月16日に東征の勅命を受け、その後、30歳で薨去され(景行天皇41年?)、白鳥として、天高く飛び去ったのは、景行天皇43年と日本書紀には記されています。
これも、仮に半分だとすると、
8歳で熊襲征伐、14歳で東征し、15歳で薨去。しかも、何人かのお妃との間に御子も何人もいらっしゃるわけで、おそらく初潮をむかえられたばかりの幼い宮簀媛とそんなに年も変わらなくなってしまいます。
そして、貝田氏の説だと、ここもまだ4分の1の時期なので、更に半分で、4歳で蝦夷討伐・・・となります。
④貝田氏の「寒い六月」と「暑い六月」
貝田氏の「月」に関する考察の中で、日本書紀の中に「寒い六月」と「暑い六月」がある、という主張があり、この例として
『日本書紀』のなかには、自然を無視したような記述が当然のことのように記されている。
允恭二四年六月 御膳の汁が凍った。
推古三四年六月 雪が降った。
六月とは現在の七月になり真夏である。奈良県の山間部で4月に雪が降ったことはあるらしいが、七月に降ったという記録はみあたらない。
中略
ところが顕宗元年六月には「避暑殿にいでまして…」とも記されている。
右の三件の記事がでたらめでないとすれば、「寒い六月」と「暑い六月」があったことになる。
これほど明確な矛盾を示す記録はない。
しかし一年は旧暦ではニトシになっていて、一年のなかには「前のトシ」と「後のトシ」が存在することになり、両者は異なった季節になるはずである。
[古代天皇長寿の謎 日本書紀の暦を解く] 127頁
※「旧暦」とは、貝田氏の主張する古代日本春夏で一トシ、秋冬で一トシとする暦をさす。
これについては、そもそもわざわざ国史に残すのだから、珍しいことが起きたので書き記しているのであって、当然のことなら、逆に書き記すだろうか?というように考えました。文脈によっては、当たり前のことも記されるとこもあるでしょうが、基本は、天変地異を記す方が当然なのではないでしょうか。
それで、実際、記事を引用すると
允恭天皇紀より
ニ十四年夏六月、帝の御膳の羹(あつもの)の汁が凍ることがあった。天皇は怪しまれて、その原因を占わされた。ト者が、「内に乱れがあります。思うに同母の兄弟の相姦があるのではないでしょうか」といった。
宇治谷 孟 [日本書紀(上)全現代語訳]274頁
木梨軽皇子と妹の近親相姦の発覚の記述で、やはりただ事ではないこととして、天皇は、占い師に占わせています。
推古天皇紀より
三十三年春一月七日、高麗の王は僧恵灌をたてまつったので、僧正に任じられた。
三十四年春一月、桃や李の花が咲いた。
三月には寒くなって霜が降った。
夏五月二十日、馬子大臣がなくなった。
…中略…
六月、雪が降った。この年は三月より七月まで長雨が降り、天下は大いに飢えた。老人は草の根を食って道のほとりに死んだ。幼児は乳にすがって母子共に死んだ。また盗賊が大いにはびこり止めようもなかった。
三十五年春二月、陸奥国の狢(ムジナ)が人に化けて、歌をうたった。
夏五月、蝿がたくさん集まり、十丈程の高さになり、大空に浮かんで信濃坂を超えた。その羽音は雷のようであった。東の方上野国に至って、やっと散り失せた。
三十六年春二月ニ十七日、天皇は病臥された。三月二日、日蝕で陽が全く見えなくなった。
六日、天皇は病重くなられ、なす術もなかった。
宇治谷 孟 [日本書紀(下)全現代語訳]116-117頁
※推古天皇33年は、西暦625年
桃の花は、三月下旬から四月上旬
李(すもも)の花は、四月〜五月に咲くとのことです。
これだと、今いうところの旧暦一月、今の二月に桃や李(すもも)の花が咲くというのも少し早い気がします。
そして、やはり蘇我馬子が亡くなってから急激な天変地異が続き、ついにその天変地異の最中、推古天皇は崩御されるという流れになっています。
これは、私見ですが、近年、天明の大飢饉やフランス革命の頃、大きな火山の噴火により、地球全体の気温が下がり、それが天候異常を起こし、世界的に飢饉が起こったことが言われています。
これも、そのようなことなのかもしれません。近い時代の朝鮮半島や中国大陸の歴史も調べる価値はありそうです。
貝田氏も述べいるように、推古天皇の御代には、最新の暦が渡来したということもあります。
やはり、「寒い六月」というのは、[当然のことのように]は記されていないと思います。
とりあえず、今回はこのくらいで。
なんかこのモヤモヤを書いておきたくて、今回の記事となりました。
貝田氏の主張そのものは、一つの可能性として絶対ない!というものでもないし、神功皇后あたりから、他国の資料と辻褄があってるというのも興味深く、また、当時の暦についての詳しい説明なども丁寧にされていて、とても興味深く読む価値はある本だと思います。しかし、問題は、貝田氏の主張と少しズレて、広まってないかな?というところでしょうか。
春秋暦については、他にも根拠があるのかもしれませんので今後も機会があれば、調べてみようと思います。
[参考文献]
貝田禎造 [古代天皇長寿の謎 日本書紀の暦を解く] ロッコウ ブックス
宇治谷 孟 [全現代語訳 日本書紀](上)(下) 講談社学術文庫
【2024.10.5追記】
536年 アイスランドの火山噴火により、大寒冷化がこの後、続くことになった。
蘇我稲目が大臣になった年とのこと。
天皇記の寒い冬問題での、描写で年代なのど考察をしようと思う。




