风起陇西 [第一部 漢中十二天 ]

第二章「忠誠と犠牲」(参/参)

 

運が良い事に悪い状況は長くは続かなかった。

郭剛はすぐに四人目の部下が塔楼へ右手を三度振っているのを見つけたのだ。

部下は続けて近くの牛記酒楼を指差している。

つまり目標は酒楼に入り出てきてないということである。

「必ずあの酒楼で落ち合うはずだ!」

 郭剛は〝追跡継続“の黄旗を掲げさせると飛ぶように塔楼を駆け降りた。

郭剛は二十名余りの馬遵太守が手配した待機していた兵士へと手付きで着いてくるよう命令し馬に飛び乗ると牛記酒楼へと向かって馬を走らせた。

 

・・・・・・陳恭はゆっくりと牛記酒楼へと足を踏み入れた。この店は上邽で唯一の酒楼である。最近は駐屯兵が増えるに従って大盛況だ。

今この時、ちょうど昼時で多くの者がこの店で酒を一杯引っ掛け寒気を払っている。二階を占めているのは太守府の役人や軍官で、一階は一般兵と庶民である。

「陳主記、いらっしゃい!こちらにどうぞ!」

肩に白布をかけた店員が彼を嬉しそうに迎え入れた二階に案内しようとしたが、陳恭はそれに対して手をひらひらと振り案内は不用だと伝た。

すると店員は入口に戻り客引きを始め、陳恭はそのまま二階へと階段を登った。

彼が二階に足を踏み入れグルリと一周見回すと二十名程の客が思い思いに酒を飲み、雑談をしており賑わっている。

突然、陳恭は奇妙な視線が自分を注視しているのを感じた。

彼は無意識に振り向いて眼下の階段登り口が目に入ると、一瞬にして身体中の血液が完全に凍てついたかのように身体に緊張が走った…

 

郭剛が兵士を引き連れて牛記酒楼に駆け付けると、その厳しい様子に道行く人々はひどく驚き、皆、足を止め固唾を飲んでその様子を見つめた。郭剛は下馬するとすぐさま酒楼を包囲し誰一人として店から出すなと命令を下した。

店の外側では更に沢山の兵士が酒楼を中心として半径2里以内を封鎖し始めている。

三名の追跡者が郭剛の元に駆け付けると、既に一人の追跡者は目標を追尾して酒楼の二階に上がっている事を告げた。

「将軍、我々が目標が別の間蝶と接触するのを待って踏み込みましょうか?」

と、部下の一人が提案をしたが郭剛は

「必要ない!」

とばっさりと斬り捨て

「この付近は既に我々の手の内にある!奴らは1人として逃げ切れん!」

と強く言い放つ。

言うと同時に郭剛は手を一振りし十名の精鋭を引き連れて酒楼の中へと突進した。

二名の兵士がまず裏口を塞ぐと、その他の兵士は郭剛と共に階段下へと素早く走り寄る。

ちょうどその時、店員が空のお盆を抱えて降りてきており、郭剛をその運の悪い店員を一蹴りすると、階段を早急に駆け上りたくて顔をあげた!

その瞬間、彼の目に飛び込んできたのは、階段の中央に立ちはだかる目標だった。

郭剛は慌てて剣を抜くと叫ぶ。

「早く奴を捕まえろ!!!!」

上段で立ちはだかる“白帝‘’は冷笑を浮かべるとゆっくりと口を広げ高らかに叫んだ!


「漢室復興!!」


叫び終えるやいなや彼は自分の全てを投げ出して真っ直ぐに駆け降りた。

階段は細く狭く郭剛は一瞬にして白帝を自分の胸に迎え入れる事になった。二人は絡み合い階段を三段ほどもんどり落ちた後、やっと後ろにいた兵士に受け止められた。

郭剛が恐る恐る白帝の下から抜け出し立ち上がると、この時になってやっと胸元に刺痛を感じた。

頭を下げ胸元を見ると小さな匕首が突き刺さっている。しかし、幸いにも分厚い軍装束で守られ切っ先がわずかに皮膚を傷つけただけに終わっていた。

 

郭剛は慌てて横たわっている白帝の胸元を広げた。案の定、白帝の左胸にも匕首が突き刺さっている。兵士が屈みこみ白帝の息と脈を調べるとゆるりと頭を横にふった。

「くそ.....」

郭剛は匕首を悔しさで地面に叩きつけた。その心中には限りのない悔しさが充満していた。

 

・・・・・陳恭は無表情で帰路についていた。背後の牛記酒楼の喧騒は次第に遠くになっていく。

背中に流れる冷汗が風に吹かれ異常に冷たい。

先程二階に上って直ぐに彼の目に入ったのは、白帝がいる窓辺の席だった。彼は白帝のところに行こうと思ったが、白帝が彼に向けた一瞥は非常に厳しいものだった。その一瞥後、彼は視線を何事なかったように他へと移した。まるで陳恭は見知らぬ人かのように…。

陳恭が直ぐに何かマズイ事が起こったと察知し、階段の方へと向き直ると、手すりに二本の斜めの線が刻まれていた。

その暗号の意味は「事既暴露。立刻逃避!」

最高級の警告である。

 

陳恭はすかさず身を翻し、その場から後ろも振り返らずに離れた。彼が酒楼から1里程離れた頃、大部隊の兵士が街中に出現し、彼が今通ってきた道を封鎖したのである。

自分が逃げだした後、おこった騒動はすぐに知ることが出来た。

白帝の正体の暴露と郭剛の刺殺失敗、そして彼が自刃した事を……。

 

陳恭は白帝の死が惜しくてしようがなかった。彼は殉職した同僚の本名さえも知らなかったが、今の自分はいっそう孤独に感じられて仕方なかった。

最初の北伐以降、曹魏は蜀国の間諜活動を根絶やしにする為に厳重な戸籍制度を実行した。

庶民や士族関わらず、誰でも絶対にその住まう府や郡に登記するようにし、さらに度々調査を繰り返しているのだ。

この事は蜀が新たな間諜を送りこむ事を極めて困難にさせた。その土地に戸籍のない余所者はすぐに発見されてしまうからだ。

したがって敵国に於いて間諜工作を十分に発揮出来得るのは、北伐前より潜入している間諜のみとなっていた。

そう、陳恭や白帝のように……。

そして、そのような者達を失ってしまえば、新たには補充できないのである。白帝の死は蜀漢にとって、魏国に於いての諜報活動に大きな影を落とす事になった。

 

それと同様に落ち込んでいるのは郭剛である。彼は蜀の間諜の正体を既に調べあげていた。彼の名は谷正、字(あざな)は中則。太守の副都尉で、位は比較的高いほうだ。谷正の思わぬ死は彼の背後にある情報網の手掛かりを失い、魏に対してどれだけの危険を孕んでいるのか推測しようもなくなったのだ。加えて最も惜しいのは、もう1名の「梟」が完全に行方をくらました事だ。

これから後、再度、調べだそうにも困難であろう。事件後、牛記酒楼と付近の人々を何度も調査したが何の結果も出ぜずに終わっている。

 

今回の計画は蜀・魏、双方にとって心に深く刻み込まれる失敗となったでのある。

 

二月十二日、事件のあった深夜。夜間禁止時刻後の上邽は見張り場所以外はひっそりとしていた。城外の軍営の大天幕のゆらゆらとした蝋燭の灯りのみが、ぼんやりと二人の人影を映し出している。

「お前の派遣した尾行者は多すぎた。それは目標に尾行を発見させる機会も多く与える事になるのだ。」

「はい…」

「目標を見失った後の反応も浅はかだ。尾行者は常に策略を用い、己を突然消して、それにより目標が慌てるかどうかを観察し、尾行が本当に巻かれたのかどうかを判断すべきだった。」

「はい…」

「それから、判断も独断的だ。もし、目標の接触場所が牛記酒楼でなかったのだとしたら、お前の行動が計画を看破させていたという事だ。実際そうであったろう?」

「はい…」

「一番大事な事は、目標が接触者に接触する前に軽率な行動を取った事だ。忘れていたであろう?今回の本来の目的を。」

「はい…」

郭淮は一つ諭す度に指を一本一本立ち上げた。決して怒鳴る事はせず、静かに静かに年若い甥が犯した間違いを数え挙げていく。

彼は名誉を何よりも重んじる郭剛にしてみれば、このやり方の方が鞭打つより効果があると解っているのだ。

郭剛は左手に兜を持ち、項を垂れて郭淮の側に立ちすくみ自分の伯父の教えに対し厳粛な気持ちを込めて「はい」の一言のみで答えていた。と、同時に自分の下唇を悔しさと情けなさでキツく噛みしめていた。

鮮血が口の端から既にジンジンと一筋流れでている。

「穀定、お前は己の肩にかかってる責の重さを知るべきだ。蜀国は四六時中、身の程も知らずに我らの領土を狙っている。我々の失策が敵の計画を成功させ最悪の結果を招くのかもしれないのだ。」

郭淮はそう言いながら起毛したマントを羽織りながら幕口に足を向け、両側の垂れかかる幕布を掴み再度一緒に縛り治すと、力一杯引っ張った。幕布は引っ張られ外からの寒風はまったく吹き込まなくなった。

「今は蜀が何の軍事行動を起こしてないとしても、戦いは水面下で実際には行われているのだ。」

郭淮はここまで話すと、以前として項垂れている郭剛を見つめて続けた。

「この事がお前を曹真将軍に願い出て天水に派遣させてもらった理由だ。この水面下の戦での主役はお前なのだ。」

「解りました!伯父上!再度、谷正と関係のある疑わしい者を審議いたします!必ずやもう一人の梟を炙り出してみせます!」

郭淮は直ぐにでも飛び出して行きそうな郭剛を右手で制止し告げる。

「そんな事は部下に任せればいい。我々には他にもっと重要な事がある。目下、一番最優先に考えねばいけない事だ。軍方は間軍司馬の全面的な協力が必要だ。」

言い終わると郭淮は、胸元から薄い布を取り出し郭剛へと見るようにと渡した。

後者はそれを見終わると眉を高く上げたが何も意見せずにその布を郭淮にあっさりと戻すと答えた。

「伯父上なら絶対やり遂げられます!」

 

风起陇西 [第一部 漢中十二天 ]

第二章「忠誠と犠牲」(完)

 


 

 

 

 

风起陇西 [第一部 漢中十二天 ]

第二章「忠誠と犠牲」(弐)

 

大和三年二月十日。

陳恭は会う必要があると思っていた。

彼はずっと給事中の正体を暴きだす方法を模索しているが結果を出せずにいた。もっと正確に言うならば、可能性はたくさんある、が…どの可能性も頼りになるものではないのである。

来たる二月十四日は定例に従い沔县に総括情報を送らなければいけない日である。もし今回得られた情報に何の分析結果も出せずに送る事は何の意義もない。

彼は「白帝」と会う事を決意した。

「白帝」とは上邽城内に潜んでいるもう一人の蜀の間諜の事である。

彼ならば価値ある情報網を持っているかもしれない…!

陳恭と白帝は元々認識はない。蜀国司聞曹の原則では第一線で動く間蝶同士は横の関係は持たず決して交わってはいけないと定められている。


このような取り決めを効率性を低めるとしても、よしんば、間蝶が一人捕獲されてしまったとしても他には損害を持たらす恐れがないのである。

司聞曹の者達は彼らが敬愛する諸葛丞相と同じく、ひどく用心深く保守的なのである。


最初の北伐の失敗の後、蜀の秘密情報網は徹底的に壊滅させられた。陳恭と白帝は捜査の最中に思いがけず互いの正体を知ったのである。

これを陳恭は皮肉な事だと感じていた。


二人は幸いにもに魏の大捜索を免れ、この時から互いの存在を知る事となったのである。

彼ら二人は普段は会わないに等しいが、ある特殊な連絡方法だけは保持している。


陳恭は二月十日の夜、上邽城外の歩兵の訓練場に赴き木製の門の右下の角に三個の石を積み上げた。そして、その頂上に更にもう一つ積み重ねた。その最後の石の底は黒く塗られている。

それらを速やかに終わらせると陳恭は夜の帳の中へと消えていった。

次の日、陳恭は太守府の仕事を口実にして、再度、昨夜の場所を訪れ石塔のわずかな変化を確認した。頂上の石が裏返され黒く塗られた面が天を向いている。

白帝からの返事があったようだ。

 

二月十二日の朝、陳恭は巳之刻(午前9時半頃))が少し過ぎた頃、家を出て落ち合い先へと向かった。

彼は期待していた。

白帝から彼の知り得ない情報を得、かの給事中の正体を暴く手助けを得られるだろうと…。

 

陳恭は通りを二つ過ぎると、二名の兵士が街の門付近に長槍を抱え壁に寄り掛かり話をしてるのに気付いた。陳恭は彼らが馬太守の手下である事にも気づき不思議に思った。更には近くの酒場にも数名の兵が座りこんでいる。だが、兵士たちは酒場にいるのも関わらず酒を飲んではいない。


通りをもう一本過ぎ、左側に向きを変えると道の右側にある門を兵士が守っている。ここは平時も兵が守ってはいるが、今日の守備兵は二倍ほどだ。

兵の中の一人が陳恭に気付いて親しく話しかけてきた。

「陳主記、どちらまで?」

「あぁ、まだはっきり出来てない在庫があってね。早く明確な帳簿を出せと上司の催促が五月蠅いんだよ。」

陳恭はその兵士に向かって恨みごとで返した。上司への愚痴が同僚との距離を縮めるには一番の手段だ。案の定、兵士は同情的に頷きながら溜息交じりに返してくる。

「あぁ!俺達だって今日は元々休みだったのに、突然駆り出されてこの場所でいつでも動けるようにと命令の待ちぼうけですよ。」

「いつでも動けるように命令待ち?」陳恭は心中に大きな疑問符を描きながら聞いた。

「どうして?」

「俺達はココで待つように命令を受けただけで。一体全体何をするのかは上は何も教えてくれなかったんで。」

その後、陳恭は適当に話をするとその兵士と別れた。

何故かは解らないが彼の心中には不安が広がり始めている。しかし、不安に駆られながらも落合場所に向かうしかなかった。

 

「確かに、この者か?」

郭刚は土壁の後ろに立っており、彼の部下の一人が壁後方から頭だけ出しおもての路を探り見てこらひっこめると上司の質問を聞き取り頷きながら答える。

「そうです。奴に間違いないです。」

この時、対面の屋根の上で監視をしていた兵士が緑色の旗を西に向けて三度振った。

【目標が西へ移動し始めた。】という合図である。

この合図を得て郭刚は無意識に口をすぼめ既に町民に扮装した数名の部下に向かって言った。


「お前たち二人は先回りして別の路地から奴の前につけ。お前たち二人は後方に着け。絶対に気づかれるなよ!」


四名の部下は「はい!」の声と共に土壁を離れそれぞれ散っていった。

郭刚はというと、身を翻して高さ六十メートル程の棟楼に上った。その場所からは街の西側すべてを見渡すことができる。

彼にしてみればこのような高い処から見下ろす事は全てを把握できるような気がするのだ。

 

陳恭は遠い棟楼からの決して好意的ではない視線で街を伺い看る者の事など気付く筈もなく、普段と変わらぬ歩調で目標に向かって歩いていた。

彼の前方では婦人二人が水路で衣服を洗っている、二つの大きな袋を力の限り抱えている者もいれば、数名の子供が道の真ん中で売られている鶏をからかい、道行く馬車の士夫から怒鳴られている。

陽当たりのよい壁際にはだらけている兵士がよりかかっており粗末な鎧を自身の膝の上に内張りを天に向け広げ、一名の兵士などは一心不乱に虱(しらみ)と戦っている。

何もかもが普段と変わらない。


「お役人、内臓湯で体を温めていきませんか?」

道端の小店の大将が頭をだして声をかけてきた。濃厚な羊の香りが店の入り口から漏れ漂ってきている。

陳恭は足を止めなかった。太陽を仰いで僅かに歩調を速め角を右へと曲がった。


この時、郭刚は棟楼の縁をしっかりと両の手で掴み下を覗き観ていた。身体は前のめりになり目つきは鷹の様に鋭い。

目標は角を曲がり、市場のある方向へと向かっている。二名の部下は目標から少し離れて尾けており、他の二名も並行して歩いている。

「早く鳴け!フクロウめ!」郭刚はそうぶつぶつと口中で言うと知らず知らずに拳を強く握りしめていた。

郭淮が間軍司馬に役に自分を推薦してくれた時、多くの者が彼が若いのを理由に反対した。

その為、彼は早く成果を出し叔父の決定は間違ってなかった事を早く証明したいと常に焦っているのだ。

突然、数名の兵士の一隊が目標の前を通りすぎた。大きな甲冑と飛散する砂埃が郭刚の視線を遮った。郭刚は両の眼を大きく見開き恨みがましく心の中で罵った。

「ばかやろう!早くどけっ!」と。

兵士が去ると目標は見当らず驚き慌てた!

どこか目の届かない死角に入りこんだに違いない。

遠い棟楼上にいる郭刚にはどうこうする事も出来る筈もなく部下に期待を寄せる事しかできなかった。

彼は後方にいる伝令兵に楼上の旗を緑に縁取られた底辺が赤色の貔貅(ヒキュウ)牙旗に変えるように命じた。この旗は目標を見失った事を表し、尾行者に直ぐに目標の方位を連絡するように告げるものであった。旗を掲げると同時に伝令兵は太鼓を鳴らし尾行者に注意を促す。

三名の部下がすぐに暗号を返してきた。

「目標消失」と…

郭刚は拳を爪が皮膚に食い込む程にきつく握りしめた。

目標は一体何処にいる?もし、彼を見失ったのだとしたら、奴は既に尾行に気づいていて身を隠したというのだろうか???

様々な疑惑が混雑し彼の体中を駆け巡っていく。

細い細い汗が彼の額を流れおちていた。

 

 

第二章「忠誠と犠牲」(弐)完


※巳之刻、近代以前の中国十二時辰に基づく。た、1日をおよそ2時間ずつの12の時に分ける時法。

 



风起陇西 [第一部 漢中十二天 ]

 

第二章「忠誠と犠牲」(壱)

 

郭淮はゆるゆると手揉みをしながら、容赦のない目つきで天水太守の馬遵を睨みつけていた。

馬遵はというと袖でしきりと流れる汗を拭っている。彼を見ているとまるでこの議事室が溶鉱炉の中になったかの様に灼熱なのかと思わせる。

暫くして彼は顔を上げしどろもどろに郭淮に問うた。

「将軍、お間違いでは?この上邽内に蜀軍の密偵が潜り込んでいるなど…」

「しかし私の部下が確かな証拠を既に掴んでいるのだよ。少なくとも秘密連絡網が1つはあるとね。」

郭淮は遅すぎず早すぎずの絶妙な口調で答える。その声には落ち着きと重みがあり、圧迫感を与えている。彼はこの上邽の真の統治者であり、馬遵のように使えない者は鼻にもかけないのである。

 

馬遵は汗を拭い続けながら、自分の面子の取り戻しを試みてみた。

「もし、本当にそのような連絡網が存在しているのなら、私の手の者が察知してる筈、彼らは…」

「問題はそこだ。君の手の者は微塵も察知していないではないか。」

郭淮は遠慮のえの字もなく馬遵の話を遮った。

「貴殿の部下は全て現地にて召集した者だ。彼らの武勇は尊敬に値する、が…諜報活動においては劣っているのは明らかだ。まぁ、これは論外だかな。穀定!」

郭淮は突然声を高くしてある者の名を呼んだ。

それに呼応しドアが開き、鎧に身を包んだ若い武将が入ってきた。

彼は部屋の中央までくると体をピンッと伸ばし姿勢を正して被っている赤色の兜を高々と上げた。胸当てを固定している皮紐は几帳面に結ばれている。

「彼は私の甥だ。名は郭剛と言う。字(あざな)は穀定。今年で24だ。私の軍で突入部隊に属している。」

右手を挙げて郭淮が紹介すると、郭剛は二人の主要軍人に挨拶をするそぶりをした。が、顎を高々と上げて一目たりとも馬遵を見ない。

その顔つきは傲慢で冷やかである。

「誠に才気あふれて。なんとも素晴らしい。」 馬遵は愛想よく褒めそやす。

「彼は他にも役職があってな、間軍司馬だ。天水地区で蜀国の諜報活動調査の責を負っている。」

郭淮がそう言うと馬遵はギョッとした。

軍方がこの天水郡で反間諜組織を設立したなど、太守である彼の耳には一言も入ってきておらず、蔑ろにされたのと同じだ。

「一体、どういう事です!そんな話、聞いてないですぞ!」

「あぁ、間軍司馬は地方の管轄ではないからな。朝廷の 中 書 省 の直属である。地方の干渉は受けない。」

郭淮がわざとゆっくり「中書省」の三文字を告げると、効果は抜群で馬遵は顔を白黒させている。

中書省とは朝廷の中枢であり、馬遵のような臆病者にとっては口出しなどできない存在だ。

「よし、郭剛、事のあらましを告げよ。」

郭淮は馬遵を黙らせたのを確認しすると甥に声をかけた。

「了解です!」郭剛は顎をグッと引いて答えた。

郭剛の声は彼の名前と同じで堅く、厳冬に張る氷のように冷ややかだ。

「一月十二日、私どもの軍は上邽と𠧧城の中間の山道に於いて漢中から来た塩売りを捕獲し彼らの荷物からは軍と朝廷の令牌を発見しました。無論、偽物です。」

郭淮を同情を含んだ視線で馬遵を一目見た。馬遵は机の後ろで小さく身を縮ませている。その顔つきは今にも泣きだしそうだ。

「その塩売りの供述によると、彼らは出発前に蜀軍より多額の報酬を受け取り、それらを翼城まで運び特定の人物に売るように頼まれたということでした。一月十五日、私は二名の兵士を塩売りに変装させ翼城にて目標人物と接触させ捕縛し、その者は現地のとある役人から雇用された事を聞き出しました。既にその役人の名も探りだしております。」

馬遵は不安気に指をしきりと擦り合わせていいる。偽造令牌のことを告げられた頃から彼は疑い出していた、今日は自分の災厄日ではないかと…それは、裏切り者の役人の話しで確信に変わった。


郭剛の口調は抑揚にかけ淡々としている、それは却って鉄器のぶつかり合う音と似通っていて心地よくさえある。

 

「一月二十九日からその役人を監視し始めました。その日からその役人は上邽城内にて五回わが軍の士兵に接触し、接触者は下級兵士から士族まで含みます。接触者の話からその役人は聞き出し方は非常に巧妙でごまかし方も巧みであると発覚。奴の関心は武都と陰平の我が軍の防御兵力、天水地区の主要糧食の位置。一番重要なのは監視期間中にその者がの一度城外へ出た事です。我々は他の潜伏者と情報交換をしたと疑っております。紛う事なくその役人は蜀軍の差し向けた間諜''梟"だと思われます。」

狐に包まれたような馬遵の様子に郭淮は説明する。

「梟…これは我が魏国の情報部門が敵国の間諜をさして言う呼称だ。」

この報告を受けて馬遵は喉をゴクリと鳴らすと、不安げに問うた。

「その者とは誰だ?太守府の役人か?」

郭剛は頷きで答える。

「そんな恥ずすべき行為が行われているとは!!何者だ!?教えろ!!すぐに人をやってて捕まえてくれる!」

馬遵は突然いきりたち机を叩いて大声で捲し立てた。

その振る舞いで自分の立場の悪さを覆い隠そうとしているのは明らかである。

「必要ない。」

郭剛は冷ややかに言い放った。

「軍方にはすでに考えがある。穀定の判断によると、近いうちに奴は別の梟と接触するらしい。その時、一網打尽にするのだ。馬太守、貴殿は天守郡の部隊を周辺に配置してもらうだだけで充分だ。」

馬遵の心中は屈辱と怒り、羞恥がごちゃ混ぜになり彼の顔をプルプルと小刻みに震えさせていた。

自分は何はともあれ名義上では太守府の最高長官である。

で、あるのに、現在、自分の基盤が安易に他人に踏みにじられているのである。

これはひどい侮辱に値する。怒り心頭に発するとかこの事だ。

しかし、彼に何が出来るであろう?

相手は軍権を握る雍州刺史であり、さらには中書省の間軍司馬なのである。

馬遵は必至の思いで耐え忍び歯噛みと共に腰に下げている玉塊を握りしめながら、何とか笑顔を作りだした。

「いいでしょう。そのようにしよう。」

「くれぐれもご注意を…馬太守。この事は他の者に絶対に知られませんように。太守府の者はあてになりませんからな。」

この郭淮の一言は馬遵に最後の一撃を与えた。

彼の反応を待たずに郭淮をは立ち上がり、炉の中の炭をかき混ぜ炎の勢いを増させた。

無言で送客の意を示したのだ。

こうなると馬遵は退席しない訳にはいかない。

恨みがましくも議事室を後にした。

 

馬遵の影が消えるのを待って、郭剛は郭淮に向かって尋ねた。

「伯父上、朝廷は何故にあんな無用の者をこのような重要な席に置いているのですか?」

「穀定、朝廷の事は天子の采配だ。我々はただ自分の勤めをはたせばいいのだ。」

郭淮は甥の前まで来ると彼を見つめて続ける。

「間軍司馬として観察をしっかりしておけばよい。他の者の事は構うな。偏見は大事な事を見落とすぞ。いいか、よく覚えておけ、お前の偏見は敵の間諜の生き残る根源になる。」

「はい!私が間違っておりました!」

「うむ。もういいから、お前も下がって細かい段取りを取れ。」

「既に適任の者を選出しております。今回の作戦の主要要員は6人に抑え、その他の要員には行動開始の寸前まで説明しないようにしております。」

郭淮は頷き、ここを離れていい意思を示した。

郭剛は畏まった態度で拱手をしてから、身を翻し議事室を後にした。


今、議事室に残ったのは郭淮一人だ。

彼が机の傍に戻り壁に掛けられている黄色い布を引き剥がすと、そこには詳細に描かれた陇西地区の地図が掛けられていた。


彼は地図の前をゆっくりと行ったり来たりし、時折、炉の端から炭を取り出すと地図に何かを書きこんでいく。

それは既に郭淮が蜀間諜捕縛作戦よりも遥かに重要な事を思案している事を明らかに示していた。

 

第二章「忠誠と犠牲」(壱) 終