风起陇西 [第一部 漢中十二天 ]
第二章「忠誠と犠牲」(参/参)
運が良い事に悪い状況は長くは続かなかった。
郭剛はすぐに四人目の部下が塔楼へ右手を三度振っているのを見つけたのだ。
部下は続けて近くの牛記酒楼を指差している。
つまり目標は酒楼に入り出てきてないということである。
「必ずあの酒楼で落ち合うはずだ!」
郭剛は〝追跡継続“の黄旗を掲げさせると飛ぶように塔楼を駆け降りた。
郭剛は二十名余りの馬遵太守が手配した待機していた兵士へと手付きで着いてくるよう命令し馬に飛び乗ると牛記酒楼へと向かって馬を走らせた。
・・・・・・陳恭はゆっくりと牛記酒楼へと足を踏み入れた。この店は上邽で唯一の酒楼である。最近は駐屯兵が増えるに従って大盛況だ。
今この時、ちょうど昼時で多くの者がこの店で酒を一杯引っ掛け寒気を払っている。二階を占めているのは太守府の役人や軍官で、一階は一般兵と庶民である。
「陳主記、いらっしゃい!こちらにどうぞ!」
肩に白布をかけた店員が彼を嬉しそうに迎え入れた二階に案内しようとしたが、陳恭はそれに対して手をひらひらと振り案内は不用だと伝た。
すると店員は入口に戻り客引きを始め、陳恭はそのまま二階へと階段を登った。
彼が二階に足を踏み入れグルリと一周見回すと二十名程の客が思い思いに酒を飲み、雑談をしており賑わっている。
突然、陳恭は奇妙な視線が自分を注視しているのを感じた。
彼は無意識に振り向いて眼下の階段登り口が目に入ると、一瞬にして身体中の血液が完全に凍てついたかのように身体に緊張が走った…
郭剛が兵士を引き連れて牛記酒楼に駆け付けると、その厳しい様子に道行く人々はひどく驚き、皆、足を止め固唾を飲んでその様子を見つめた。郭剛は下馬するとすぐさま酒楼を包囲し誰一人として店から出すなと命令を下した。
店の外側では更に沢山の兵士が酒楼を中心として半径2里以内を封鎖し始めている。
三名の追跡者が郭剛の元に駆け付けると、既に一人の追跡者は目標を追尾して酒楼の二階に上がっている事を告げた。
「将軍、我々が目標が別の間蝶と接触するのを待って踏み込みましょうか?」
と、部下の一人が提案をしたが郭剛は
「必要ない!」
とばっさりと斬り捨て
「この付近は既に我々の手の内にある!奴らは1人として逃げ切れん!」
と強く言い放つ。
言うと同時に郭剛は手を一振りし十名の精鋭を引き連れて酒楼の中へと突進した。
二名の兵士がまず裏口を塞ぐと、その他の兵士は郭剛と共に階段下へと素早く走り寄る。
ちょうどその時、店員が空のお盆を抱えて降りてきており、郭剛をその運の悪い店員を一蹴りすると、階段を早急に駆け上りたくて顔をあげた!
その瞬間、彼の目に飛び込んできたのは、階段の中央に立ちはだかる目標だった。
郭剛は慌てて剣を抜くと叫ぶ。
「早く奴を捕まえろ!!!!」
上段で立ちはだかる“白帝‘’は冷笑を浮かべるとゆっくりと口を広げ高らかに叫んだ!
「漢室復興!!」
叫び終えるやいなや彼は自分の全てを投げ出して真っ直ぐに駆け降りた。
階段は細く狭く郭剛は一瞬にして白帝を自分の胸に迎え入れる事になった。二人は絡み合い階段を三段ほどもんどり落ちた後、やっと後ろにいた兵士に受け止められた。
郭剛が恐る恐る白帝の下から抜け出し立ち上がると、この時になってやっと胸元に刺痛を感じた。
頭を下げ胸元を見ると小さな匕首が突き刺さっている。しかし、幸いにも分厚い軍装束で守られ切っ先がわずかに皮膚を傷つけただけに終わっていた。
郭剛は慌てて横たわっている白帝の胸元を広げた。案の定、白帝の左胸にも匕首が突き刺さっている。兵士が屈みこみ白帝の息と脈を調べるとゆるりと頭を横にふった。
「くそ.....」
郭剛は匕首を悔しさで地面に叩きつけた。その心中には限りのない悔しさが充満していた。
・・・・・陳恭は無表情で帰路についていた。背後の牛記酒楼の喧騒は次第に遠くになっていく。
背中に流れる冷汗が風に吹かれ異常に冷たい。
先程二階に上って直ぐに彼の目に入ったのは、白帝がいる窓辺の席だった。彼は白帝のところに行こうと思ったが、白帝が彼に向けた一瞥は非常に厳しいものだった。その一瞥後、彼は視線を何事なかったように他へと移した。まるで陳恭は見知らぬ人かのように…。
陳恭が直ぐに何かマズイ事が起こったと察知し、階段の方へと向き直ると、手すりに二本の斜めの線が刻まれていた。
その暗号の意味は「事既暴露。立刻逃避!」
最高級の警告である。
陳恭はすかさず身を翻し、その場から後ろも振り返らずに離れた。彼が酒楼から1里程離れた頃、大部隊の兵士が街中に出現し、彼が今通ってきた道を封鎖したのである。
自分が逃げだした後、おこった騒動はすぐに知ることが出来た。
白帝の正体の暴露と郭剛の刺殺失敗、そして彼が自刃した事を……。
陳恭は白帝の死が惜しくてしようがなかった。彼は殉職した同僚の本名さえも知らなかったが、今の自分はいっそう孤独に感じられて仕方なかった。
最初の北伐以降、曹魏は蜀国の間諜活動を根絶やしにする為に厳重な戸籍制度を実行した。
庶民や士族関わらず、誰でも絶対にその住まう府や郡に登記するようにし、さらに度々調査を繰り返しているのだ。
この事は蜀が新たな間諜を送りこむ事を極めて困難にさせた。その土地に戸籍のない余所者はすぐに発見されてしまうからだ。
したがって敵国に於いて間諜工作を十分に発揮出来得るのは、北伐前より潜入している間諜のみとなっていた。
そう、陳恭や白帝のように……。
そして、そのような者達を失ってしまえば、新たには補充できないのである。白帝の死は蜀漢にとって、魏国に於いての諜報活動に大きな影を落とす事になった。
それと同様に落ち込んでいるのは郭剛である。彼は蜀の間諜の正体を既に調べあげていた。彼の名は谷正、字(あざな)は中則。太守の副都尉で、位は比較的高いほうだ。谷正の思わぬ死は彼の背後にある情報網の手掛かりを失い、魏に対してどれだけの危険を孕んでいるのか推測しようもなくなったのだ。加えて最も惜しいのは、もう1名の「梟」が完全に行方をくらました事だ。
これから後、再度、調べだそうにも困難であろう。事件後、牛記酒楼と付近の人々を何度も調査したが何の結果も出ぜずに終わっている。
今回の計画は蜀・魏、双方にとって心に深く刻み込まれる失敗となったでのある。
二月十二日、事件のあった深夜。夜間禁止時刻後の上邽は見張り場所以外はひっそりとしていた。城外の軍営の大天幕のゆらゆらとした蝋燭の灯りのみが、ぼんやりと二人の人影を映し出している。
「お前の派遣した尾行者は多すぎた。それは目標に尾行を発見させる機会も多く与える事になるのだ。」
「はい…」
「目標を見失った後の反応も浅はかだ。尾行者は常に策略を用い、己を突然消して、それにより目標が慌てるかどうかを観察し、尾行が本当に巻かれたのかどうかを判断すべきだった。」
「はい…」
「それから、判断も独断的だ。もし、目標の接触場所が牛記酒楼でなかったのだとしたら、お前の行動が計画を看破させていたという事だ。実際そうであったろう?」
「はい…」
「一番大事な事は、目標が接触者に接触する前に軽率な行動を取った事だ。忘れていたであろう?今回の本来の目的を。」
「はい…」
郭淮は一つ諭す度に指を一本一本立ち上げた。決して怒鳴る事はせず、静かに静かに年若い甥が犯した間違いを数え挙げていく。
彼は名誉を何よりも重んじる郭剛にしてみれば、このやり方の方が鞭打つより効果があると解っているのだ。
郭剛は左手に兜を持ち、項を垂れて郭淮の側に立ちすくみ自分の伯父の教えに対し厳粛な気持ちを込めて「はい」の一言のみで答えていた。と、同時に自分の下唇を悔しさと情けなさでキツく噛みしめていた。
鮮血が口の端から既にジンジンと一筋流れでている。
「穀定、お前は己の肩にかかってる責の重さを知るべきだ。蜀国は四六時中、身の程も知らずに我らの領土を狙っている。我々の失策が敵の計画を成功させ最悪の結果を招くのかもしれないのだ。」
郭淮はそう言いながら起毛したマントを羽織りながら幕口に足を向け、両側の垂れかかる幕布を掴み再度一緒に縛り治すと、力一杯引っ張った。幕布は引っ張られ外からの寒風はまったく吹き込まなくなった。
「今は蜀が何の軍事行動を起こしてないとしても、戦いは水面下で実際には行われているのだ。」
郭淮はここまで話すと、以前として項垂れている郭剛を見つめて続けた。
「この事がお前を曹真将軍に願い出て天水に派遣させてもらった理由だ。この水面下の戦での主役はお前なのだ。」
「解りました!伯父上!再度、谷正と関係のある疑わしい者を審議いたします!必ずやもう一人の梟を炙り出してみせます!」
郭淮は直ぐにでも飛び出して行きそうな郭剛を右手で制止し告げる。
「そんな事は部下に任せればいい。我々には他にもっと重要な事がある。目下、一番最優先に考えねばいけない事だ。軍方は間軍司馬の全面的な協力が必要だ。」
言い終わると郭淮は、胸元から薄い布を取り出し郭剛へと見るようにと渡した。
後者はそれを見終わると眉を高く上げたが何も意見せずにその布を郭淮にあっさりと戻すと答えた。
「伯父上なら絶対やり遂げられます!」
风起陇西 [第一部 漢中十二天 ]
第二章「忠誠と犠牲」(完)


