第一章「潜伏と忠誠」(完)
主記の執務室は本来、太守府に専門の場所があるが、今は太守馬遵の部屋を除いて全ての執務室が郭淮の部下に占領されているため、部下以外の文官幕僚は城内の領民の部屋に間借りする事を余議なくされている。
陳恭の仕事場である主記室は飼料小屋の近くにある。この場所はお世辞にも好い場所とはいえない。大風の日には藁屑が常に部屋に舞い込んでくるのだ。
陳恭が敢えてこのような部屋を選んだのには理由がある。朝廷の文書を収蔵している書佐台に近いからである。
色々と突き止める為に、分析の任務までもその肩に背負う間諜としては、広大な資料室を持ってなければないらないのである。
陳恭はまず主記室についたら点呼をうけた。本日、出勤している同僚は少ない、沢山の者が物資の調達に駆り出されまだ戻って来ていないのである。徹夜したであろう数名の同僚は未だ起床の気配もなく、この広い部屋で唯一、机に突っ伏して一心不乱で筆を走らせているのは孙令だ。彼は才能はあるが、それを鼻にかけているところがある男だ。二年前、彼は好き勝手に人を卑下したので、京城を追い出され、天水郡に移らされ文学祭酒として務めているのである。ほとんどの者が心中で天水の様に戦争が頻発する場所で文学祭酒を務めることはお笑い草だと思っている。よって、孙令はずっと鬱々としているのである。
「やぁ、政卿、早起きだな」
陳恭は傘を置きながら、孙令に声をかけた。が、孙令は顔も上げず依然として筆を走らせている。陳恭はそんな彼の気質を知ってるので気に掛けずに自分の机に行き、凍って固まった筆先を炉の前に置いてゆっくりとほぐし始めた。
香一本燃える時間が過ぎた頃に、孙令はやっと長い溜息をつきながら、パンッと大きな音をたてて筆を置いた。さながら遂に大仕事をやり終えたように。
「文礼、さっき俺を呼んだか?」
この時、やっと陳恭に気付いた孙令が言った。
陳恭は「うん。」と一声発してから、墨を摺りながら答えた。
「あぁ、だけど集中していて、聞こえてなかったね。」
「木材搬送の提案に忙しくてな。」
孙令は申し訳なさげに頭をかきながら、草書体でびっしりと埋め尽くされた紙を陳恭に見せて答えた。
「木材?」
陳恭は驚いて問うた。
「なんだ、今回の上頭に派遣されるのは木材を上邽から運び出す為か?」
軍方の命令により戦略物資(特に木材と食糧)は出来る限り上邽に集中させられている、そんな時期、意外にも上邽から別の場所にそれらを流出させるという事は何かあると思わずにはおられない。
「そうなんだ。おっと、間に合わない!話してる時間はないや。じゃぁな!」
孙令は大慌てで上奏文の下書きをしまいこみ、綿の鞄を肩からかけ、服装を正した後、陳恭と拱手をして別れを告げた。
孙令が去った後、陳恭は机に向き直り、正体不明の給事中の事を考え始めた。
まず、はっきりさせないといけない事は、朝廷中の給事中にどのような人物がいるかだ。
給事中の名簿が判りさえすれば、探っている者の捜索範囲を狭める事が出来る。
その時、魏亮が部屋の中に入ってきた。
魏亮は天水郡太守府の門下書佐で、歳は50歳余り、彼の風貌で一番目を引くのは紅く酒焼けした大きな鼻である。
そのせいで多くの人が彼は西域の血が入ってるのではないかと疑っている。
文書を保管する書佐台は、正に彼の職権範囲であり、それ故、実は陳恭は彼をずっと待っていたのだ。
魏亮は酒好きで、いつも酒の匂いをさせている。彼が入ってきた時のぼんやりとした様子で、昨夜も酒をコッソリと飲んだのが誰が観てもすぐに解る。
陳恭は彼の元に行き、小声で告げた。
「あの、昨夜も飲みましたね?」
魏亮は初め手をヒラヒラと振り、それから頭を振りながら いやいやいやいや…と酒腹をポンッと叩き
「文礼よ。昨夜、思わぬ好い事があってな、つい飲みすぎてしまったんだ。誰にも言ってくれるなよ。もし、郭将軍に知れたらえらい事だ。」
と声を抑えて言った。
彼の言う‘郭将軍‘とは、揚州刺史郭淮の事を指す。郭淮は現在の魏軍の陇西地区の最高責任者で、若い頃、夏侯渊幕下にて中級軍官を務めた事がある。その気質は典型的な軍人で、苦みつぶした風貌に厳格で、また粗暴である為、太守俯の文官は皆、彼を恐れているのだ。
陳恭は彼の肩をパンパンと軽く叩くと
「はは、安心してください。もちろん言いませんよ。しかし、少しは酒を抑えてください、いつか間違いを犯してしまいますよ。」
と笑いながら言った。
「一介の門下書佐がどんな間違いを犯すって?鼠に文書を噛み荒らされる位だろうよ。」
と魏亮はブツブツと答えた。
陳恭は文書の二文字が出てたのをいい機会に、自分が食糧と家畜の在庫状況の書類を書佐台に調べに行く必要がある事を告げた。
魏亮はそれを聞くと二つ返事で承諾して、胸元から自分の印章を取り出し、陳恭に渡し彼に自分で行くように言うと、机に突っ伏し小者に酔いざましの湯を持ってくるように命じた。
陳恭は印章を持って部屋を出ると、心の中でいささか感慨に浸った。
馬遵太守は天水太守を既に4年程務めている。臆病で無能な高級官僚で、自然と手下の官僚の大部分もこの太守と同様に凡庸であるか、怠惰な仕事ぶりだ。
諸葛丞相の初めての北伐の対戦相手が正に彼で、破竹の勢いで敗れたのは当たり前のことであろう。
書佐台は主記室の裏通り右側の突き当たりにある。この部屋は他のどの棟とも連なってはおらず、浅めの水路が棟の周りをグルリと囲っている。火災時の被害を避ける為である。
門を開けてもらう為に陳恭は年老いた書庫番に印章をみせると彼は頷きながら、腰元から連なった黄銅の鍵を取り出し彼に渡した。
その後自分の部屋に引っ込み炉の火を焚き続けた。
陳恭は一本廊下を抜けると書庫室の鍵を開け中に入った。
この部屋は広く採光も良いがひどく寒い。十数の木棚が並び、その棚には歴代の天水軍の文献、公布書、手紙等が積み上げられている。
埃や塵が静かに其れらすべてに散り積り、灰色のおびただしい書物がこの部屋の寒々しさを増している。
陳恭は此れらつまらない物には目もくれなかった。それら全ては彼の目標ではないのだ。
彼が探し出したいのは、去年(太和二年)の九月の百官の祝いの書である。
太和二年九月、皇帝曹睿は皇子曹穆を繁陽王に封じた。
慣例に従い、皇族子弟が初めて自分の領地を持つと百官は祝いの書を皇帝に捧げ、皇族の繁栄を祝うのである。
彼はこの一件を覚えていたのだ。
この祝いの書にはほぼ全員の朝廷官員の名前が記されており、書き写し各地に送られ、天下に慶事を示すのである。
この天水郡にもそれが保存されている筈であり、祝いの書の写しの署名を調べさえすれば知る事が出来るのだ。
給事中とは誰が担っているのかを。
見つけ出すのは難しい事では無かった。この祝いの書は整理されたばかりか、絹に綴られた祝いの書は黄麻紙にて装飾され金を用いて縁取られており、自然と本棚で目を引いた。
彼は両手を丸く合わせてハァと息を吹きかけ、数度バタバタと足踏みした。
そして、祝いの書を手にとり素早く開いた。彼の予想通り数千あまりの字が満面に書かれており、その左側には小さく祝いを述べた百官の職務、名前、戸籍が記されていた。この文書は去年九月のであり、まだ五カ月にも満たない。
そんなに大きな変化はない筈であり、参考にしても良いだろう。
`給事中‘この職務は官職に付け加えられ事が多い。朝廷の多くの官員が皇帝からこの職務を賜り栄誉を示すのである。
例を挙げるならば、大将軍曹真、中書監劉放、博士蘇林らである。彼ら皆、官職に給事中の名が連ねられている。
しかし、彼らは陳恭の探し求める其れではない。彼が欲しているのは‘給事中‘を本職としている者の名である。
陳恭は五名の給事中を探し当てた。彼はその五名の名前と戸籍をしっかりと記憶すると祝いの書を元の位置に戻した。
今回の成果をこれのみで、この五名の中で一体全体誰が彼の探し求めている給事中なのかは、次の情報を得られるのはを待ってからの判断とするところのようだ。
この調査が終わると彼はいてもたっても居られずにこの部屋を飛び出した。
書庫はあまりにも寒かったのである。
陳恭は鍵を老書庫番に返して書佐台を後にした。
この時、空に厚く積み重なっている雨雲からはまだ降雪の兆しはないようである。
突然、陳恭は自分を窺い視るような視線を感じ振り向いた!
だが、しかし、彼の視線の先はガランとしており、何も存在してはいなかった。
(太和三年二月七日)
第一章「潜伏と忠誠」(完)
第二章「忠誠と犠牲」に続く。
謝謝。
*登場人物*
・陳恭 字 文礼・・・蜀漢間蝶
・魏亮 字 ・・・魏国 天水郡太守府門下本佐
・孫令 字 政卿・・・魏国 天水郡太守府文学祭酒(学問所長官)


