コぺルです。

 

批判している人を批判したい。

 

 

 

 

 

かつて、松井秀喜は期待されながら甲子園の土を踏み、

 

 

バッターボックスで、一度もバットを振ることなく夏を去った。

 

 

相手投手の徹底した敬遠作戦を受けたのだ。

 

 

 

 

 

5打席である。

 

 

 

 

 

高校3年間のすべてを野球に注いだ末路である。

 

 

松井の無念さは、想像を絶する。

 

打ちたかっただろう。

結果はどうあれ、勝負したかっただろう。

こんな悔しい思いは、甲子園の歴史で後にも先にもない。

 

大多数の国民が、テレビの前で松井に同情した。

 

 

 

 

 

だから、当時、マスコミの報道は過熱した。相手チームの取った作戦を糾弾する世論は日に日に増した。

 

 

相手投手は高校生らしくないと。

 

いや、作戦を指揮した監督が高校野球の監督として、失格だと。

 

 

しかし、である。

 

 

「敬遠」という作戦は、禁じ手ではない。ルールの範疇ではないのか。

 

 

「敬遠」すれば、相手バッターとの勝負を避ける代償として、一つの塁を与えなければならない。守備側からしても、相応のリスクを負うわけである。

 

 

 

 

 

相手投手・相手チームのやり方を批判する人々は言う。

 

そんなことは分かっている。それでも高校生らしくない。勝ち負けを越えてすがすがしく戦うべきだ、と。

 

 

 

 

○○らしくない。~べきだ。

 

 

 

 

 

こうして感情に囚われた意見がスポーツの見方を狭くしているように思われる。

 

 

  

 

 

白鵬の問題はどうだろうか。

 

 

相撲は立ち合いが勝負を左右する。いかに、相手より先に有利な態勢を整えるかの争いである。当然、得意なスタイルが生まれる。0コンマ何秒の世界で、形成が変わるのだ。

 

 

白鵬を批判する人々は言う。

 

 

かち上げや張り手は、横綱らしくない。

 

横綱だったら、受けて勝負をするべきだ。

 

 

 

 

 

私には、きわめて感情的で不合理な論に思われる。ルールの中で勝負するものを、後出しで批判する。

 

これは、己の美学を押し付けているだけではないのか。

 

もし、本当に改善の余地があるのならば、ルールを変えるべきだ。肘から相手に触れてはいけない。張り手は禁止。疑わしきは、取り直し。それだけの話ではないのか。

 

 

「横綱相撲」とは、堂々たる取組を評した言葉であり、横綱の在り方を規定したルールにはなりえない。

 

 

まるで、松井を敬遠した投手を批判する感情論と同じではないか。

 

 

 

いや、相撲はスポーツではない。神事なのだ。と、反対派は言う。

 

神事だから何だというのか。かち上げや張り手が、神の前で行うべきでない「卑小な技」だというならば、横綱に限らず力士全体の禁じ手とするべきではないか。「横綱らしくない」という言葉で一蹴する論には違和感を禁じ得ない。

 

 

 

 

○○らしくない ・ ~べきではない 

 

そうやって、簡単に他人を批判する社会の風潮に注意深くありたい。