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ラマナ・マハルシは「(性欲は)區別心が消え去つた時に、消え去る」と仰有つたさうであるが、私は、生きるといふことと「差異」は殆ど同義だと考へてゐたので、それを捨て去るのは難しいな、と最初考へた。

その後、機会あつて、衣服を殆ど身につけない「裸族」にとつての「性的魅力」について考察したときに、現代人にとつての性的魅力は、その大半が衣服によつて覆ひ隠すことから「生じた」ものではないか、といふ点に思ひ至つた。

年がら年中「性」に心を奪はれてゐる現代人の性欲は、文化によつて作り上げられたものであり、人類の営為のなかで、それが占める割合が高まるのは、あたかもひとつの太陽の光が次第に暗くなつてゆくのと同様な、宇宙史的な「頽廃」過程なのではないか、と考へた。

ニーチェの『ツァラトゥストラ』冒頭の「没落」といふ用語は、「太陽の霊性」の極点から、霊性が流出下降することを意味し、これは、「エロティシズム」の発端を理念的に描写してゐると考へてよい。陽から陰へのエネルギーの流出下降がすなはちエロティシズムである。


裸族は、異性の裸体に、いちいち性的な興奮を覚えるわけにはゆかない。ヒトには、性以外に重大な関心事(狩猟や農耕や戦争)が山ほどあつたのであり、現代人のやうにヒマではなかつたのだ。


現代文明は、陰の霊性を発達させることで、性欲を発達させたのであり、ラマナ・マハリシのいふ区別心(差異)を発達させてきたのだ。文化文明とは「差異」の複雑化である。


かうしてみると、差異は生の同義語といふのは、文明人特有のかたよつた、陰の霊性に偏奇した思考であり、後生大事に抱へてゐる差異をある程度捨てて生きることは可能に思へてくる。


いきなり文化文明を捨てて、裸族に戻ることはできぬが、バランスを取りつつ、陽の霊性を育てることは可能であらう。タオイズムの目標は、道徳的強制ではなく、この霊的物質性に於ける「陽」を育てることにある。その実践によつて、エロティシズムを捨て去ることも可能と思はれる。