1)日本は沈黙の国であり、人の間に上下構造を導入すること、そして、上下の人が持つべき心得として用意した“人の道”或いは“徳”の連携で、トラブルを事前に防ぐという文化を持つ。
また、トラブルを生じたこと自体を悪とし、当事者を咎めるため、名と恥を“空気(山本七平氏の云うところの)“の中に置いて、社会全体で共有する。名と恥の文化は、沈黙の文化に等しいと思う。
 
更に、沈黙の世界で“重さ”をました言葉には、霊が伴うようになる。つまり、沈黙の文化は言霊の社会を産むのである。言霊については多くの著作があるが、最近読んだ本に井沢元彦さんの「日本は何故、最悪の事態を想定できないか」がある。最悪の事態をことばにすると、それが起こってしまう危険が増す気がするのである。
 
例えば、受験を控えた子供を持つ家庭では、落ちると言う言葉が禁句になる。野球の選手は背番号をつけるが、日本人選手にない背番号は4番と42番である。数字に意味があるのではなく、夫々“死”と“死に”と同音だからである。
 
2)全ての言葉から、霊を除く努力をしなくてはならない仕事として、科学者がある。研究においては最悪の事態も想定しなければ、まともな仕事は出来ない。愚鈍とでも云うべき姿勢で、論理を追いかけるのが研究者の原点である。それを守らなかった人があの小保方晴子さんだ(注釈1)
 
科学者だけではない。占い屋や神社仏閣などでの仕事以外の全ての仕事、プロとしての仕事をこなすには、言霊の罠から自由でなければならない。当然、政治家も同様である。
 
政治の原点にあるのは、”国民の生命、安全、財産を守ること”だと思う。その原点を常に意識して、「何について、何を目的に、どこまで」議論するのか、が大切である。しかし、最近民主党の岡田さんの意見をテレビで聞いていると、議論や憲法ということばに存在する言霊を利用している様な気がする。ただ、議論の為の議論を永遠に要求し、国政を停滞させている様に見えるのである。当然、議論と言霊は矛盾する。つまり、言霊の国にまともな議論は存在しない。
 
憲法学者の大多数は、“自衛隊は憲法違反”だと思っている一方、最高裁判所は”自衛隊は合憲”としている。つまり、現在の日本は、憲法が言霊で守られていて改正出来ず、法治国家としての体を為していないのである。そのような状態で、安保法制に関して“憲法違反である疑いが濃い”などという言葉を鬼に金棒的に利用する野党は、上記政治の原点を離れていると思う。
 
憲法改正やそれに関連する法令改正は、国会議員全員が“十分な議論と民主的手続を経て行なった”と納得する形では、何処かの国から砲弾が打ち込まれない限り出来ないと思う。また、その様に法改正が出来たと納得するときには、全体主義的に政治が進むだろう。そう考えてしまう昨今である。

注釈:
1)あれだけの損害を日本の科学界と日本国に与えながら、辞職と後追い解雇だけで済んだ。余程この国の為政者や組織のトップは、個人攻撃に付随する怨霊・言霊が怖いのだろう。従って、オリンピック・エンブレムの疑惑の中心である佐野氏、オリンピック組織委員会、エンブレム審査委員らへの処分もあまりないだろう。

 1)抗日70周年記念式典
 
中国共産党政権は、抗日戦勝70周年記念と大規模な軍事パレード(始めて)を行なった。これは国内向けには、江沢民や胡錦濤の前で軍事パレードを大々的に行なう事で、習近平による軍の掌握を印象付ける意図があったのだろう。一方国外には、共産党政権がこの様な式典を行なうのは歴史の歪曲である上、記念式典の中で大々的に軍事パレードを行なうのは、時代遅れの印象を与える。更に、隣国には恫喝外交の用意に見える。
 
この様な場で、中国主席と韓国大統領が会談を行い、近い内に日中韓(多分、中韓日とよんだのだろう)3カ国首脳会談を行ないましょうと同意したという。
 
外務省は歓迎の意向だというが、周近平の式典挨拶に日本との関係において未来志向の内容がなかったのだから、韓国大統領の米国向け点稼ぎに過ぎないと思う。式典後に、日本の意向を電話かなにかでも確認したのなら兎も角、しなかったのならこのような三国間の会議開催を二国のみで発表するのは失礼だと思う。個人間の話に置き換えれば、犯罪人であった日本に対して、その後性格が矯正されているか、呼びつけて話をしてみようと言う場合、あの様な場は相応しい。
 
2)覇権国家の責任:

世界同時株安は、中国の経済停滞と米国の緩和の解消つまり利上げ予想が重なった結果だと云う。
 
米国の利上げは深刻な影響を途上国に与えると言われている。それは米ドルが世界の基軸通貨となっているからである。FRBは国内経済を考えて利上げを考えるというのが支配的な考え方らしいが、それは一寸不十分な姿勢だと思う。米国は基軸通貨としての地位を手に入れ、そのメリットを十分受けて来たのであるから、米国は世界に対して金融の安定化を考える義務があると思う。つまり、IMFの考え方、今は利上げに相応しくない、というのが世界全体をみた考え方であり、その意見を積極的に検討すべきであると思う。
 
また、歴史に言及する場合も、歴史学者が学問として研究した結果にもっと配慮すべきであると思う。人類が今後迷走して困難にぶち当たるとすれば、それは覇権国が自己都合で一方的に歴史を歪曲したときであると思う。

その真理(或いは歴史学者による歴史解釈)を優先するという義務を、派遣国である米国や中国、更に、国連などは十分果たしていないのではないか。

今回の中国の抗日戦勝70周年記念式典への参加に国連事務総長が参加したことは全く理解できない。抗日は国民党の行なったことであり、毛沢東は関係なかったのだから。潘基文氏は国連事務総長に相応しくない。
 
戦後70年、人類はグローバルな協力体制を築く方向を目指すとすれば、歴史も戦勝国の自己都合ではなく、世界が共有できる歴史を確認すべきであると思う。そして、各国に夫々都合の悪い事実が出て来ても、当事国はそれを受入れるべきであるし、他の国はそれに寛容であるべきである。そのような第二次大戦後の歴史と価値観の国際的構築において、国連は戦勝国連合から世界国家に向けた進化をするべきであると思う。
 
3)エンブレム問題
 
これは佐野氏ありきの選考であった疑いが極めて濃い。その証拠に、選考がおわったあと、類似デザインが外国にあった為、大会組織委員会が選考委員会に連絡なしにデザイン変更したことでも解る。丹羽氏が時事放談で発言していた様に、会社なら責任を追求し、責任者は首にするのが常識だ。

デザインを模倣して作った段階では、佐野氏個人の不正であり、処分すれば済む。しかし、デザインを変更してまで、佐野氏のデザインに拘る大会組織委員会の姿勢は、不正の範囲がずっと大きかったことになる。責任追及が明確な形でなされないと日本国の恥となる。
世界には二つの文化が存在すると思う。一つは日本を含めアジアに広く存在する沈黙の文化であり、もう一つは西欧の文化に代表される言論(能弁)の文化である(注釈1)。近代文明は言論の文化の下に築かれたので、それを日本などが取り入れるには、同時に言論の文化の成果としての諸習慣もとりいれなければならない。その結果、日本等アジア諸国の文化がキメラ的構造をなし、西欧型のオープンな社会が出来難い理由の一つだと思う。
 
沈黙の文化と言論(能弁)の文化の差が何により出来たかは、その地域で発生した言語と深く関係すると思う。しかしその問題は難問であり、しばらくはそのままにして、その現象面を先に考える。両文化の差は、先ず社会に於ける構成員間の利益調整の方法における差として現れる。
 
沈黙の文化では、利益調整が必要なケースを事前に減少させる様に、身分の上下を作る。その場合、上の者が圧倒的に有利になるが、そのままでは社会の破壊につながるので、上の者には人徳が必要だということにする。つまり、個人の内部で利益主張が正当かどうかを考えることで、トラブルの種を減少させるのである。
 
言論の文化では、利益主張をお互いに出し合って、その論理の正当性を双方或いは仲裁人を含めて検証する。そのプロセスの蓄積は自然と法を産みだすだろう。この場合、利益の正当性を個人の内部で深く検討するという教育や習慣が社会に根付いていないので、君主と臣民のような上下関係があれば、その君主は暴君になる可能性が大きい(注釈2)。
 
神のあり方も全く両文化で異なる。沈黙の文化では、開祖が深く思考して涅槃の境地に達したとしても、それを信者に伝える手段が限られる。経文があったとしても、涅槃の境地に辿り着く道案内に過ぎない。従って、信者ひとりひとりに厳しい修行と深い思考が要求される。つまり、色即是空は真理の言葉というより、真理に近づくための案内のことば(或いは標語)であると思う。
 
一方、言論の文化圏では、悟りを開くのは開祖であり、それは言葉で弟子や信者に伝えられる。聖典となった開祖の言葉を信じて実行することが、天国への道となる。宗教の真理は、教祖の言葉で全て伝えられるため、教祖は神に一致する。例えば、キリスト教のヨハネによる福音書冒頭には、言葉は神であったと書かれている。このような宗教が成立するには、ことばが完全でなくてはならない。そして、ことばと信者の間に、偶像(仏教では阿弥陀像など普通に存在する)があってはならないと言う事になる。
 
しかし、言葉には限界があれば、信仰にも書かれた真理にも限界がある。そして、異なる聖典が現れ、宗教対立が起こることになる。
 
以上基本的な両文化の特徴を書いたが、このモデルを基に国際的問題を含めていろんな問題の本質を解析できると思う。
 
注釈:
1)沈黙の文化をgoogleで検索すると、日本文化を沈黙の文化と紹介する文章はたくさんある。しかし、この様な言論(又は、能弁)の文化との対比の形で議論した例は、私の検索範囲では出てこなかった。
2)自分がその利益を受ける正当性を(心の)内部で考えることが、沈黙の文化の特徴だと書いた。これは、例えば、正当性を気にする中国や日本の王朝の特徴と関係があるのではないだろうか。史記や日本書紀という歴史書は、歴史上の出来事の記憶のためではなく、その王朝の正当性を示すことを目的に書かれたという。(岡田英弘著、歴史とはなにか)
 更に、過去の歴史において、この文化の違いがアジアの大国であった中国と西欧の覇権国であった英国や米国(現在も)の覇権構造(の違い)に反映したと考えられる。今後の覇権国のあり様(日本の選択する相手国)を考えるヒントになるのではないだろうか。