1)米国が、西太平洋地域での覇権を失うとすれば、現在の米国の属国的な位置から静かに逃げる道を探さなければならない。もし、米国が不死鳥の様に、太平洋地域で覇権を維持出来ると考えた場合、そして、日本が米国と同盟関係を深化させることで、この地域で日米同盟を命綱的にして生き残る方針なら、その鍵になるのは米国と日本の相互理解が今までとは違った次元に深まるかどうかである。
 
また、仮に日米同盟を当てにしないで、生存を図る場合でも、米国と友好関係を保ちながら独自の軍事力を整備し、国家としての体制を作り上げることが大切なステップであると思う。しかしながら現在、親米国の日本は、米国にとっては仮想敵国であると思う。米国の中枢は、たとえ朝鮮が核武装しても、日本だけに核武装はさせないと考えている。つまり、キッシンジャー&ニクソンの訪中のときの密約は未だ健在だとおもわれる。(http://blog.nihon-syakai.net/blog/2007/10/493.html
 
米国在住の国際政治の専門家である伊藤貫氏は、2013年夏の西部邁氏との討論で米国国務省のアジア担当官の半数は、日本の憲法改正にすら反対していると言っている。https://www.youtube.com/watch?v=DLrGGEymC8Q (24分以降)その後、安倍総理や日本への印象が変化した可能性はあるが、核保持に反対する態度は変わっていないと思われる。
 
上記動画の中で、例えば中国と米国で太平洋を二分するという話になった場合、日本は単なる搾取の対象となる可能性大だそうである。それは、日本とロシア(ソ連)に挟まれた朝鮮の様であり、ドイツとロシア(ソ連)に挟まれたポーランドの様でもある。伊藤氏の発言によれば、米国の覇権が東アジアに残る可能性は殆どゼロであり、日本の環境は当にその方向に進んでいる。
 
何れのシナリオでアジアの歴史が進行するとしても、日本は近代史の総括を行い、世界の歴史認識とこれまでの日本の歴史認識のズレを客観的な視点でレビューしなければならないと思う。勿論、国が違えば歴史認識が違うのは当然である。しかしその違いは、「国家が自国の尊厳を維持し、今後の繁栄を目指すのは当然である」という観点から、他国が理解可能な範囲になくてはならない。
 
つまり、世界に主張可能な歴史認識を持てば、少なくとも話の通じる相手であると認識され、普通の国家となる障壁は低くなるだろうと思う。しかし現状では、日本の保守勢力の歴史認識は自分勝手なものであり、且つ、野党勢力の歴史認識は全く売国奴的であるので、何れも日本国が世界に主張すべきものではないと思う。
 
2)日本が世界の中で生きていく為には、世界の標準的な歴史認識の方法を持ち、それを前提にして普通の国としての要素を持つことが必須である。それら要素は、経済力、軍事力、それに固有の文化と価値観である。(上記動画での西部邁氏の解説参照)それは、一人の独立した人間の要素と同じである。しかし、現在の政権政党右派の歴史認識は、我が国国民一般のものとはずれていると思う。そして、それは江戸時代までの伝統的文化や価値観に根ざしては居ないと思う。
 
右派民族主義者達は“明治維新”は日本の歴史的快挙であり、その結果西欧の国民国家と同じタイプの国家が出来上がったと主張するだろう。しかし実際は、 “明治維新”の主人公である薩長土肥の武士たちと下級貴族らが天皇を利用してクーデターを起こし、新しい貴族階級を形成して作った専制の帝国主義的国家であった。そこでは、国民は国家を担うという意志のないままに、強制的に兵士として駆出された。(次のセクション参照)
 
つまり、暗黒の江戸時代の戸を開け、やがて新貴族になる人たちによって行われた政変を一種の市民革命であると考えるのは偽造史観であり、それを作り上げ守り通したのは、現政権までの150年間日本政府の中心にいた上記新貴族とその子孫たちであると思う。(補足1)
 
中国侵略からの“大東亜戦争”は、欧米列強からの防衛と大日本帝国の生存空間の拡大であったのは事実だろうし、それを現在の価値観で非難するのは可怪しいだろう。ただ、それを「西欧の植民地主義をアジアから排して、大東亜共栄圏を構築することであった」と主張するのは、説得力に乏しいと思う。そして、そのような計画は、右派の人たちの主張と違って、国民の総意に基づいたわけではなく、当時の軍事独裁政権が作成したものである。
 
歴史を後から裁くのは、愚かなことであると一般に言われる。それは、歴史は事実と事実をつなぐ物語であり、その物語の書き方は主観的であるのは当然であることと、判断ミスまで裁くのは神以外は不可能であるという主張が根拠だろう。その部分について裁くのは確かに愚かなことである。しかし、事実を偽って書いた歴史を裁くことは、まったく正当な行為である。
 
歴史認識問題で最も象徴的なのは、靖国神社に対する姿勢である。大陸侵攻も、痛々しい敗戦も、伴にその軍事独裁国家の中心人物たちが主導したのであり、その責任を負うべきである。靖国神社には、その本来責任者として弾劾されるべき人たちが軍神として祀られている。上記明治の新貴族に由来する民族主義者達(=上記右派民族主義者)が何と言おうと、普通の日本人の感覚なら、軍神として祀られる優先順位は将軍が最上位であり、佐官、尉官が続き、兵士は最下位である。従って、靖国参拝は、戦争責任者である将軍たちを崇拝すると解釈されるのは当然である。(補足2)
 
米国が日本との同盟を、属国と宗主国との同盟から普通の国の間の同盟に(考えを)変換する際の最大の障害は、日本の明治以来の支配層とその延長上にいる現在の上記民族主義的勢力だと思う。彼らの多くは現在、米国との同盟関係を実利の面から支持するだろう。しかし、同時に彼らはより深いところで、米国を敵視している。米国が日本を不審感を持って眺めるのは、その右派勢力から与党勢力に広がる民族主義的傾向であると思う。
 
つまり、日本が世界の中で生きていく為には、保守主義者一般と右派の薩長土肥歴史観に基づく民族主義者たちの区別化、つまり、分断が大切なステップだと思う。そして、新しい上記民族主義者以外の保守勢力をつくることが大事だと思う。
 
3)日本人に国家を担う意識はなかった:
 
西欧諸国では、王族支配に反発して市民戦争を経験し、その結果として国民国家の実体と概念を対で得たが、日本はそうではない。江戸時代には、殆どの日本人は地元の殿様(=王)の下で、革命の気配など一切なく暮らしていたのである。幕末の政変は、薩摩と長州の両藩と京都の下級貴族が中心になって行った倒幕(クーデター)であり、国民が立ち上がった訳ではない。彼らは、外国の力(英国)と知識を、幕府よりもそれ(フランス)を有効に利用することに成功した。(補足3)
 
明治以降、日本列島の住民は、天皇の臣民という形で大日本帝国の国民として訳も分からない内に入れられた。支配層民族主義派は、それをあたかも市民革命の結果獲得したかの様に記述し、歴史の捏造をしたであった。明治維新を下級武士達が達成したという、“下級武士”という表現もその為に用いただろう。実体は、身分は兎も角、殿様の高い評価を得た武士たちであり、殿様の意思が全く働かない訳ではなかった。実際、長州の殿様は、彼らの立案した方針を「そうせい」と命令形で承認していたので、“そうせい候”と呼ばれていた。
 
つまり、国民国家が前提の「戦争も外交の延長である」という西欧の政治思想など国家の“主人公でない国民”に理解出来る筈はない。米国の支配者たちが考える、或いは考えたい、原爆が軍事独裁の全体主義国家を退治するために使われたという論理も、同様に理解出来るはずはなく、原爆による被災を単に天災の一種と感覚的に把握しているのである。それは、昨年広島でオバマ米国大統領と原爆被爆者との間の抱擁が証明している。その感覚は現在でも全く変わっていない。あの光景は、被災者と米国は直接の敵ではないことの一つの証明である。
 
つまり、日本国民の多くが「戦争だけは避けなければならない」と考えているのは、単に平和主義を採っているからだと考えるのは間違いである。そもそも国家を自分たちが構成しているという意識などなく、国家が行う外交と自分たちの生活の間の関係についても、現実的にシミュレートする頭脳の活動は全く無いのだ。つまり、戦争は上記のように日本国民にとって天災と同じであり、自分たちの意思が反映した結果だとは考えていない。(補足4)
 
一方、日本の上記民族主義者、つまり右翼の人たちはそうではない。彼らは、明治の政変を国民国家の創生と捉え、明治維新と呼ぶ。明治の政治を立憲君主制とし、議会は民意を繁栄したもので、過去の戦争遂行も全て日本国民の総意と考えている。そして、東京裁判で戦争犯罪人とされた全ての人の名誉回復に努力し、彼らの全てを靖国神社という国営慰霊施設を兼ねる神社に祀った。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2013/08/blog-post_29.html
 
日本の政権与党と政治評論家のかなりの人々は、この民族主義的な人たちを多く含んでいる。彼らは、靖国神社に参拝することを義務と考えているのである。しかし、それは米国が主張する対日戦略の“正当性の全て”を否定することになる。そのように米国が日本の政権与党を構成する人たちととそのブレイン達をを考える限り、米国は真の同盟国として日本を受け入れないだろう。
 
(以上は、理系人間のメモです。批判等歓迎します。)
 
 
補足:
 
1)現在の安倍総理や麻生副総理、その祖父に当たる岸信介と叔父の佐藤栄作、戦後長期政権を担当した麻生の祖父の吉田茂など、薩長土肥の侍の子孫である。勿論、これは事実の列挙であり、現在の安倍政権を批判している訳ではない。
2)右派民族主義者たちは、靖国神社を国家を守るために命を捧げた兵士たちを祀る施設であるという。しかし、敗戦に至る指揮をとり、兵士の命を消耗品の様に扱った人たちを何故祀るのかという問には、まともに答えない人が殆どである。更に、その時の国家は、日本列島の住人を真に代表したものではないにも拘らず、「日本列島の住人全てとその住処」と同一視している。
 
3)日本にとって幸運なのは、諸外国にとって日本は侵略する魅力に乏しい上に、軍事力としての武士は勇敢だったことである。その武士団と武士が構成する優秀な官僚団は江戸時代までに作られたものである。江戸時代を低く評価して敎育するのは、明治のクーデターを美化するためである。
4)従って、大日本帝国と当時の国民との関係は、支配者と被支配者の関係であった。敗戦後、米国マッカーサー将軍を簡単に受け入れたのは、帝国の敵将であっても、国民にとっては支配者の交代に過ぎなかったからである。現在でも国家に対する関心は薄く、国政選挙は単に芸能人やスポーツ選手の人気投票の感覚か、幾分意識の高いレベルの国民でも、議員となるべき人間をその能力ではなく、日常生活の中でその人物の行動を想像して、より好ましい“人格”を目安にして選んでいる。

日馬富士の暴行事件について:言葉の暴力と身体的暴力

 
1)ここ二三日、一番話題に上っているニュースが、横綱日馬富士の貴ノ岩に対する暴行事件である。モンゴル出身力士の懇親会で、貴ノ岩が非常に失礼な言葉を横綱に対して浴びせたことが暴行に至った原因のようである。法的な処罰は、違法行為を行った日馬富士が受けることになるだろう。
 
この事件はテレビなどで頻繁に放送されているが、その捉え方は、相撲協会の隠蔽体質だとか、相撲協会や所属部屋の親方の責任や謝罪などに、拡散している。しかし、この件は個人的犯罪であり、今後責任問題に関係するのは、基本的には被害者と加害者の二人と、法的処分をする国家だけだと思う。相撲ファンや相撲部屋の親方の介在する余地はあまりないと思うし、そのように問題を広げるのは日本の悪習であると思う。
 
今朝のとくダネ!でも、司会を補佐する人間が、親方が相撲ファンにまだ謝罪していないことを問題視していたが、そもそも親方に謝罪する義務など全くない。モンゴルでも報道されており、一部にはモンゴル人の横綱が多いので、日馬富士を追放する陰謀だと言う意見を紹介しているものもあると報道されていた。兎に角、報道機関というのはどの国でも、煽って視聴率を稼ぐことばかり考えているようだ。
 
この国では、組織に属する人間が個人的な事件を起こした時でも、組織のお偉方が揃って頭を下げる場面がよく放送される。そのようなテレビ放送を見る度にうんざりした気分になる。普通、謝罪とは責任を認めることであり、責任を認めることはそれに対する償いの義務を負うことと捉えるだろうが、この国では問題を小さく治めるために謝罪するのである。(補足1)
 
この件も、手続きに従って処分をして、あとは当事者に任せることで十分だと思う。そして、今後相撲で頑張って欲しいと思う。彼ら当事者にサジェストするとすれば、今後閉鎖的な場で、アルコールは飲まない方が良い。
 
また、横綱もそれ以下の地位にある相撲取りも普通の人間であり、大相撲を殊更神事と考えることは時代錯誤的だろう。相撲協会が、それらの刑事事件を隠蔽することがあったとしたら、それは無くすべき古い体質だが、それを殊更相撲協会全体の問題と考えることもまた無くすべき別のタイプの古い体質である。
 
2)この事件だが、一方的に日馬富士の方に非があったとは言えないと思う。つまり、貴ノ岩の言葉の暴力が、日馬富士の物理的暴力となって返されたのだろう。言葉のやり取りが、傷害事件に発展したことは、彼ら二人には本意ではなく不幸なことだったと思う。
 
似たケースで思い出すのは、セレブ達が集まったパーティー(米国)で、デビ・スカルノ夫人によるフィリピン大統領の孫娘だったミニー・オスメニャに対する暴行事件である。https://matome.naver.jp/odai/2139040955692250701
 
デヴィ夫人は喧嘩の原因として、「ミニーが自分を娼婦(Whore)呼ばわりしたため」と主張したという。失礼な発言をした方はその瞬間はスッキリするだろう。しかし、それを許さないでシャンパングラスで相手を殴ったデヴィ夫人の気持ちも分かる。
 
現在の法制度では、そのような発言があったとしても、それを処罰する法令はない。しかし、言葉であっても、個人の尊厳を汚した人間には処罰が加えられるべきである。その場合、自分の尊厳を守る意味で国家による処罰を覚悟して、相手を殴るしか処罰の方法はない。
 
つまり、肉体的な暴力は絶対にいけないが、言葉の暴力はやりたい放題ではない筈である。勿論、喧嘩両成敗が正しいのだが、現行制度でも暴力を振るった方が刑事罰を受けることで、解決すれば良いと思う。ただし、その後加害者に関係する組織が他の罰を加えるには、慎重に考えることが条件である。
 
日馬富士と貴ノ岩のケースで説明すると、日馬富士がうける処罰は、貴ノ岩の痛みと怪我と九州場所からの欠場という損害とバランスが取れれば良いということである。それ以外のところに、大きな痕跡を残さない様にすべきだと思う。相撲協会が受ける損失など計算できない部分の責任も、事件化した日馬富士が負うべきだろうから、相撲協会が出場停止などの処分をするだろう。それだけをルールに従ってすることが、相撲協会の仕事だと思う。
 
因みに、言葉の暴力は現在ハラースメントという範疇に入れられている。ハラースメントだけでは法的に罰することは難しい。法的に罰せられない悪事は、普通、社会から例えば人事面での冷遇などの法的でない処分を受ける。
 
閉鎖空間では、そのような処分が期待できないので、ハラースメント的暴言が炎上的に連続して、最終的に物理的犯罪に至る場合が多いと思う。従って、トラブルが考えられる人の集まりは、閉鎖空間に閉じ込めないで、出来るだけオープンな空間を利用することだろう。
 
言葉でのハラースメントとそこから発生する上記のような事件は、完全に無くすることは不可能である。従って、言葉は場合によっては相手の尊厳を汚す暴力となること、従って、個人的な話題に関しては、相手の情況などを考えて慎重にするべきであることなど、年少時によく敎育すべきであると思う。
 
勿論、社会についての基礎を敎育すべきことは言うまでもない。それらは、現在の社会は独立した個人によって成り立っていること、個人の間の信頼は社会のインフラであること、言葉でも身体的なものでも、暴力はそれらを破壊することである。
 
(以上、17日早朝に加筆修正しました。オリジナル・バージョン(1116日)は、https://ameblo.jp/sakizakimademo/entry-12328800176.htmlに残します。)
 
補足:
1)この国では多くの場合謝罪と許しがセットになっている。従って「こちらがしっかり謝罪したのに許さないあいつはけしからん」という、会話が成立する。
1)あるブログサイトに青木直人著「田中角栄と毛沢東」の紹介記事を見つけた。印象的なのは、日中国交回復の際の毛沢東と田中角栄との会談の様子である。すこし長くなるが、それを紹介したい。 
 
毛沢東から招かれた時、田中角栄は護衛官抜きで、大平正芳、二階堂進とともに会った。護衛官は、一緒に行くことを主張したが、田中は「ここまで来れば煮て食われようと、焼いて食われようと、いいじゃないか」と云って、ニッコリと笑った。 
 
毛沢東の家でのやりとりは以下のようである。相手の品定めかも知れないが、雑談的な話の後毛沢東は「田中先生、日本には4つの敵があります」と切り出した。「四つの敵」という言葉は、中国を訪問する前に行われた外務省のブリーフィングで、何度も聞いていた言葉だったから、田中は内心くどすぎると思った。「アメリカ帝国主義」、「ソ連修正主義」、「日本軍国主義」、「日本共産党宮本修正主義」の「四つの敵」は、中国革命外交のキーワードだった。(補足1)しかも、日本の軍国主義については、中国訪問の当日からさんざん説明し、中国側の理解も得たはずのテーマである。  
 
だが、毛の口から出た「四つの敵」は田中の想像を裏切るものだったのである。指を折りながらその4つをあげた。「最初の敵はソ連です。」それから、アメリカ、ヨーロッパ、そして最後に、中国の名をあげた。(補足2)毛沢東は、田中に本音のレベルの話ができる能力をみて、それをぶつけたのである。 
 
そして、世界中を敵に回して負けたヒットラーと東條英機を馬鹿な男と評し、「あなた方は、もう一度ヒットラーや東條の選んだ道を歩むのですか。よく考えなければいけません。世界から孤立して、自暴自棄になって自滅するのですか。アメリカ、ソ連、欧州、そして中国、この四つを同時に敵にまわすのですか」と言った。 
 
その先の会話をブログのオーナーは推理している。「今後の世界は、アメリカ、ソ連、欧州、中国が基軸になる。この4大国は歴史的に見ても相容れず、今後とも協調しつつ対立していくだろう。そこで日本はこの4大国とどう関わり合うか、それが問題である。4大国全てと仲良くできそうにない。どちらかの陣営と連合する以外に生き延びる事ができない」と。 http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/phirosophy_higekisei.htm 
 
2)毛沢東の指摘は、ソ連がロシアに変わったとしても、本質的に正しかった。日本を取り巻く情況は、現在もその時の情況と全く変わっていない。キッシンジャーが「ジャップめ」といって、日中国交樹立を悔しがったことがよく知られているが、それも毛沢東の予言した範囲内であった。しかし、その本当の意味を探らず、単にキッシンジャーを「反日ユダヤ人」ときめつけて納得して済ませている人が多い。(補足3) 
 
日本は、田中角栄がアメリカに潰されてから、アメリカを選択したかのようにアメリカ追従を続けているが、アメリカはそのようには受け取っていない。米国に本音を聞けば、「日本が我々アメリカと組んでいると思ったとしたら、思い違いだ。日本は、単にアメリカの属国として甘えているだけだ」と言うだろう。日本経済の長期低迷を失われた20年というが、政治的には田中以降でも失われた40年である。 
 
上記、毛沢東が田中に言った問が、北朝鮮問題を契機に45年後のこんにち、日本の喉元に突きつけられたナイフの様に不気味に姿を現した。2006年の北朝鮮の最初の核実験のときに、米国ライス国務長官が飛んできて「日本は米国が守る」と発言した時にも、目の良い人にはそのナイフは明確に見えた筈である。そして、そのライス長官の言葉を「日本は、米国の属国(敵国)にすぎません。決して、核武装はさせません」と翻訳できた筈である。
 
このままでは、米国が何と言おうと、米国の覇権ラインが近いうちに第二列島線まで後退するのは必至である。そこで日本のとる戦略は、米国に協力して米国圏のフロンティアになるか、北方から降りてくるロシア圏のフロンティアになるか、中国圏に入るか、それとも十分な独自防衛力を持ちどの勢力圏にも入らないか、その四つの道の中の一つだろう。しかし、どれをとってもかなり困難である。なかでも自主独立は、毛沢東の指摘通り殆ど不可能である。 
 
国際正義と信義に基いて、非武装中立を貫くという選択は、よほどの幸運に恵まれなければ成立しないだろう。それを訴える政党やその支持者が、今でも日本に1/3位は存在する。地球上での争いは常に存在しているが、日本がその争いから避けられる位置に今後とも座り続けるという可能性はないだろう。 
 
田中角栄なら、毛沢東の言葉を心に刻み、差し当たり米国への依存を減らすべく独自防衛の道を模索しただろう。何れかの領域の中で生き残ると決断しても、独立国としての一定の体裁を整えなければ、そこへの移行は不可能だからである。属国のまま存在し続けることもまた不可能である。属国は家畜と同様であり、売られるか、屠殺されるかしかない。日本はアメリカの愛玩動物であると思うほどの馬鹿は、流石に居ないだろう。 
 
3)米中露の覇権が錯綜する西太平洋地域において、自主独立が許されるのならその単純さは魅力的である。しかし、上に述べた様に、そして、毛沢東が45年前に予言したように、まわりの大国に妨害され、自主独立の必須条件である独自核武装など日本には許されないだろう。(補足4) 何れにしても、米中の反対を巧みに躱しながら、憲法9条の改正から、再び国家としての威厳を取り戻す位は実現しなければ、日本に将来はないと思う。 
 
その次に、将来の米中露の西太平洋地域における力のバランスがどのようになるかについて、日本は考えなければならない。もし、真の意味での日米同盟が構築され、且つ、日本の協力があれば、①米国が今後とも西太平洋地域で覇権を維持出来ると考えるのか;或いは、②米国は何れ第二列島線まで20年位の間に後退するのかの予測を立てる必要がある。それには、米国の能力と意思の両方を読まなければならない。 
 
 
①の場合、現在の延長線上で考えれば、米国に協力して米国覇権のフロンティアになることが、活性化エネルギー(つまり超えるべき峠の高さ)が最少の道である。しかし、その場合、日本が米国と同盟関係を本質的なレベルまで深化させることが可能かどうかについて、考察する必要がある。つまり、米国が日本を仮想敵国から永久除外し、真の同盟国と考えることができるかどうかである。それは、米国が日本での核兵器の共同管理に同意できるかどうか、或いは、日本の核武装に同意出来るかという問題とほとんど同意である。 
 
真の日米同盟には、歴史問題の克服が必要である。日本は、中国や朝鮮と歴史問題を抱えているので、相互理解が困難だと言う言葉は頻繁に聞くだろうが、日米の間の歴史問題についてはテレビや新聞ではあまり語られない。しかし、日米同盟の深化を達成するための日米間での歴史問題の克服は、中国とのそれよりも遥かに困難だと思う。 
 
歴史問題を簡単に言えば、それは終戦前の半年間に行われた都市部空襲、中でも原爆投下に関して、日米両国間に存在する不幸な歴史である。更に、東京裁判という形での米国の日本に対する復讐劇とその判断の正当性を押し付けた戦後占領政治は、両国間関係に消し去る事ができないほどの傷を残した。それは現在、日本では乗り越えられている様に見えないことはない。しかし、米国在住の政治思想家の伊藤貫氏によると、池田内閣以降、日本政府は忘れた振りをし、経済を優先する道を選択しただけだと説明している。 https://www.youtube.com/watch?v=Xx_tsuvu9i4 (補足4) 
 
 
②のケースでは、西太平洋の覇権を埋めるのは中国である。この場合、中国の覇権内で日本が生きる道を探し出さなければならない。そして、米国覇権内の属国的身分から、どのような身分で中国の覇権内に移動するかが問題である。その際、米国は日本から吸い取れる利益は全て吸い取ろうと努力するだろう。もし、米国が②のケースを想定しているのなら、その対日政策は既に始まっているかもしれない。 
 
以上、問題点の整理をしたが、夫々についての考えについては、今後出来れば書いていきたい。 
 
 
補足: 
1) http://www.econfn.com/iwadare/page157.html にその4つの敵が解説されている。田中角栄は、毛沢東に本音をぶつける気にさせたのだった。
2)中国にとっては、第一の敵はアメリカ、そして、ソ連、ヨーロッパ、インドとなっただろう。 
4)伊藤貫氏の「核武装なき憲法改正は国を滅ぼす」という本に記載されているとおり、自主独立には核武装は必須である。 
5)伊藤貫氏と西部邁氏の討論、「国家に必要な3つの要素」において、経済力、軍事力、価値観をあげている。価値観とは、国民が持つ形而上の価値、或いは哲学と言えるだろう。人間に必要な形而上の価値としての、独立心(independence)、尊厳或いは自尊心(degnity)、完全性(integrity)を現代の日本人忘れていると分析している。