先ほど、久しぶりに在米のchuka氏のブログサイトを訪問し、最近の記事を読ませてもらった。5月7日の「吉田清治は本当に日本を貶めたのか?」と題する記事である。https://blogs.yahoo.co.jp/kiko10da/archive/2019/5/7?m=lc#18876160
内容は直接サイトを訪問して読んでもらいたいが、内容は吉田清治の履歴と朝日新聞に掲載された彼の済州島での慰安婦狩りの捏造証言を巡る出来事などである。その記事に関するコメントをここに再録する。
 
私の記事を引用していただきありがとうございます。上記記事読ませていただきました。詳細にまとめられており、この問題を考察する者には大いに役立つと思いました。サハリン訴訟のところで述べられた、「吉田清治が偽証したのなら、偽証罪で告発されるべきだった」というのは、重要な指摘だと思います。また、吉田清治個人でなく、彼の証言を報道した朝日新聞が攻撃されることなど、米国では考えられないという指摘も、意味のある指摘だと思います。
 
今日でも、例えば学校で課外活動の指導者が生徒を殴ったなどの事件が起こると、校長以下の学校の上層部がテレビカメラの前で深々と頭を下げるという異様な光景が頻繁に見られます。この場合も、「校長にあなたは殴ってまで生徒を指導するように指示したのですか?」と問うと、「そんなことする筈ないでしょう」と反論するでしょう。
 
おそらく、日本文化では、個人を攻撃することはタブーのようです。そのような文化の国では、社会の上層部に居る人物はほとんど論理的思考が極めて苦手なようです。つまり、頭の悪い人が出世するのです。
 
上記コメント最初の”私の記事”とは、先日書いた「従軍慰安婦問題追加:元凶・吉田清治は背乗りによる半島人の成りすましか?」という記事である。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43925569.html
 
 もう少し詳細な感想は、上記記事の続編 https://blogs.yahoo.co.jp/kiko10da/archive/2019/5/16 を読んだのちアップしたい。
 
追補:下記chuka氏のコメントへの返信を以下追補として書きます。
 
> chukaさん

 

私を含めて日本人は言葉を使って戦うことが苦手なようです。コンセントの壁側(日本ではメスという)とコード側(オス)を繋ぐように、簡単な手続きのために言葉を用いるのが一般的です。そこには西欧の様に、ある目的を達成するために戦略を研ぎあげるような言葉の使用法はありません。言葉は暗号であり、論理の表現ではないのです。つまり、般若心経は唱えるだけで、それを受け取る用意の出来上がっている仏様に伝達され、その魂は救われるのです。
 
その原因は、文化的背景の異なる人との真剣な言葉の接触が、民族学レベルの時間スケールであまりなかったことなどが考えられます。クマラスワミ報告も、その背景や目的を想定せずに、読んでしまうところがあります。その結果、表面の印象だけで右脳だけでなく左脳(論理を担当と言われている)も拒否反応で麻痺してしまうのです。(引用いただいた記事https://ysugie.com/archives/3315 は大変参考になりました。)
 
言葉尻を捉えて口論する様子は、尻尾だけ見てネズミを追いかける猫に似ています。以前高知白バイ衝突死についての報道という記事を書きましたが、その際、日本の検察や警察などもそのレベルだという考えを持ったことを記憶しています。(その結果、犯罪捜査を自白に頼ります。カルロス・ゴーン氏の件も同じように考えて逮捕したのでしょう。自分が犯罪を犯したのなら、簡単に自白する方がおかしいなどと考える日本人は少数派です。)

 

おそらく、高木弁護士には強烈な反日の動機があるでしょう。それを探し出して、反撃するという知恵など、日本の多くの人は持っていません。もしそれをおこなっていたなら、日韓&日朝関係も今日のようには悪化していなかったと思います。(拉致被害者家族&その応援団のように、被害者意識だけで相手を攻撃(口撃)する日本には、いつまでたっても国家の防御体制など構築できません。)

 

ちょっと飛躍しますが、国連に関して一言:タルムードにはついて良い嘘という項目があります。彼らにとって言葉が、自分の利益を追求する道具でしかない証です。自分とは、彼らにとってはユダヤ教徒あるいはユダヤ民族です。世界はそのユダヤの資本とその取り巻きが牛耳っています。国連もその一つです。(5月25日)