最近捏造が話題になることが多い。現代のベートーベンやスタップ細胞なども、その“捏造疑惑”によってテレビのワイドショーに大きく貢献した。また、より深刻な例としては、袴田事件における検察の証拠捏造(疑惑)がある。
2)ここで特に言及したいのは、マスコミ報道によく現れる、“社会の根幹に拘るので、公機関によるこの種の捏造事件は、絶対あってはならない”という趣旨の意見である。私は、この発言に、マスコミに生きる人たちの知性の無さ、或いは、無責任さを感じる。(補足1)それは、「現実に、我々は捏造(と偽造)の中に産まれ、そして、生きている」、或いは別の表現を用いれば、「捏造と真実の明確な区別のできない社会空間に生きている」からである。
3) 我々が生まれたのも、神が創造した“愛”の結果である。その“愛”も多くの場合、勘違いか捏造或いは偽造の産物に過ぎない。つまり、愛は本来他者を大切に思う感情であるが、自己の欲望と利益を他者に求める為の物乞行為を、愛として捏造する場合も多いだろう(補足5)。また、我々の国家の歴史を記した、日本書紀や古事記も多くの捏造を含む書物であると考えられる。(補足6)そして、“万世一系”の天皇を頂く2674年の歴史を捏造し、その偽りの誇りの中でナショナリズムを醸成している。
政治や司法において捏造を産むのは、我々が期待する、平和、安全、機会均等などの社会の諸機能と、社会を構成する全ての個人の生活や権利という、二つ実体の持つべき機能や権利が、同時に毀損することなく実現できるのかどうか、という根本的な問題と関係していると思う。
社会における捏造は極力少なくすべきである。つまり、上記表現での"平和と安心という住処の構造"を強化すべきである。しかし捏造や捏造的なものを、完全に無くすることが可能であると考えるのは幻想であり、常に捏造の危険性に対して緊張感を失ってはならないと思う。
補足:
1) 同じ様な感覚を、政治問題における所謂左翼の方々の意見を聞いた時に持つ。
2)人は内部でいろんな捏造や誤摩化しにより、心の平安を保って生きていると思う。多くの”納得”は真実の徹底的追及を放棄して自分が痛むことを防いでいる。そのプロセスの中には必ず或る種の捏造が存在すると思う。
3)社会の安定は、社会に一定以上の信用が無ければ成立しない。そして信用が不足しそうな場合、ここでは国家の司法の、”世の中の正義を護ると言う信用”が不足した場合、事件解決の(捏造を積極的にする訳ではないが)圧力が生じるのだと思う。他にも、国の政策では官僚達が立案し国会議員が審議する振りの後、採決して決めている。あたかも民意によって国が運営されているように民主主義を捏造し、社会の安定を保っている。また、戦争時には国家あっての個人であるという国家主義を国民の頭の中に捏造して、徴兵した。そのための道具が靖国神社ではないだろうか?古来、下級武士を神社に祀った例等無い。
4) ちょっと仏教的臭いがする理解です。
5) 自分の利益を考えて、他者を大切に思うことを、愛と感じる場合が多い。しかし、本当の愛は、自分の利益に無関係に他者にむけられたいつくしみの感情だと思う。或いは、本物の愛(アガペー)は、人にとっては夢想か誤解の類いかもしれない。
6) 岡田英弘著、「歴史とは何か」(文春新書)参照。私には非常に優れた学者に感じられるこの著者は、一般の理解と異なって古事記は日本書紀を元に書き換えられたものと解説している。