公空間または公的空間をウィキペディアで見ると、一般に公開された空間、図書館などと簡単に記述されている。英語版では、多少詳しくかかれているが、物理的な空間にほぼ限られている。
ここでは公空間と民主主義の関係を短く論じるが、その場合、精神的空間としての公空間を定義する必要がある(補足1)。つまり、民主主義社会の維持発展には各個人が、公的活動に対する義務感を持つことが必須であるということである。君主制では一般民衆にとっての公的空間は物理的なものに限られ、それを維持するのは君主側であり民衆側ではない(補足2)。つまり、一人一人が公的貢献を意識すること、つまり心の中に公的空間を持つことは、民主主義と不可分である。
現在すべての国民は、選挙活動、社会福祉、社会奉仕などの面で一定の公的活動をしている。その際に義務感を持って自発的にそれらの活動に参加しているだろうか? もし答えがYESなら、心の中に公的空間をもっていることになる。
時として私的な利益や感情と衝突する公的活動を遂行するためには、一定の公的貢献意識つまり精神的公空間を持つことが必要である。ここで言いたいことは、それが民主主義社会における市民として必須要件であるということである。
一般に用いられる公会堂やら市民会館、それに図書館などの公的空間は、単にそのような公的活動を行ううえに必要な物理的空間である。つまり、精神的な公的空間がなければ、物理的な公的空間は私的な用途にのみ奉仕する行政によるバラマキに等しいことになる。
補足:
1)従って、宗教の意味が重要である。民主主義と宗教は両立するのか、両立するとしたらどのような宗教なのか。それについては別途考える。
2)君主側が物理的公空間の管理を民衆側に命じるだろうが、それは責任が民衆側にあることを意味しない。
