1)時々テレビで、毒舌先生として有名になっている夏井いつきさんの俳句教室を見る。俳句を知る上でたいへん参考になる良い番組である。情景あるいは感情を17文字で如何に能率的に伝えるかという意味で、日本語の教室でもあるように思う。
その番組で何度も出てくるのは、散文調になってはいけないという言葉である。つまり、通常の論理的な文章では、情感などを17文字の中に含ませ、他人と共有する句にならないというのである。
俳句は言葉の外に如何に意味、情景、感情を絡ませるかという芸術のように思う。芭蕉の句に、「夏草や 兵どもが 夢の跡」という句がある。芭蕉は中国の詩を思い出して、その句をつくったのだが、それは言葉による絵画というべき作品である。夏草の強い生命力と戦場に消えた兵の命とが、その句を読んだ瞬間に頭の中で重なり、そして、両者を隔てる時間は、我々の命も時間に支配されていることを教える。
2)ところで、俳句が発生した背景は何かと考えると、私は日本語の型にはまらない性質なのではないかと思う。
日本語の文章は、文節を入れ替えても意味が通じる場合が多い。つまり、「わたくしは/ 昨日/ 非常に怖い/ 夢を/ 見ました。」は、「昨日/ わたくしは/非常に怖い/ 夢を/ 見ました。」「昨日/非常に怖い/ 夢を/ わたくしは/見ました。」「非常に怖い/ 夢を/昨日/わたくしは/見ました。」のような入れ替えが可能である。これは、文節が文章を形成する時に、ブロックとしてかなり独立していることに関係している(補足1)。
例えば、蕪村の句に「五月雨や 大河を前に 家二軒」という有名な句があるが、これを想像を追加して普通の文章にすれば、「二軒の家が、梅雨の大雨(五月雨)に濡れながら、増水する大河の際に心もとなく鎮座しています。」となるだろう。これを「五月雨に濡れながら、増水しつつある大河の前に、家二軒が鎮座しています。」と語順を入れ替えることができるから、このような俳句が可能になったのだろう。
日本語のこの文節の入れ替えが可能であるという特徴は、情報伝達の能率という点では不便であり、欠点であると思う(補足2)。他にも同音異義語があまりにも多いという欠点は、川柳や和歌の中で利用されている(補足3)。俳句や和歌の文化を、日本語のすぐれた点として宣伝する人がいるが、わたくしは全く反対の意見を持つ。つまり、日本語の欠陥がそれらの文化を作ったのである。
補足:
1) 例えば、上記文章を英語にした場合、「夢を」という文節に相当するところはa dreamとなるだろう。このa dreamには、助詞「を」に相当する意味が含まれていない。したがって、英語ではa dreamの入る場所で、目的語「夢を」の意味を表す。つまり、語順を換える訳にはいかない。そのかわり、(複雑な用法の)助詞を省くことができる。
2) 英語などでは、情報として重要な言葉が先に出てくる。例えば、相手の意見に反対なら、NOが真っ先に口にされる。そして、次に重要な行為の主体である主語がくる。更に、語順が動かないので、聞き取れなかった場合でも、欠けている情報の種類が明確である。
3)有名な、「花の色はうつりにけりないたずらによにふるながめせしまに」とい歌では「ふる」には降る(雨が)と經る(時が経つ)、「ながめ」には「長い雨」と「眺める」の掛詞になっている。
(11/19、追加と編集)