1)日本語は日本人にも使いこなせないほど、難しい言語である。難しい例はたくさんあるが、そのひとつに助詞の使い方がある。私は日本人として生まれて60年以上になる。しかし、私にもよくわからない。ひょっとして日本人として大恥をかくことになるかもしれないが、敢えてそれを覚悟の上で、以下の文章をかく。

ここでは、「が」と「は」の使い方について考えて見る。助詞の「が」と「は」など、わかっていた筈であるが、広辞苑やウィキペディアを見ると、読むのが嫌になるような説明がなされている。素人的提言だろうが、日本語の文法を英語的に整理して、日本語を大改造できないだろうか。まあ、無理だろうと思うが。(補足1)

2)「私は、この春大学生になります。」という文章があった時、助詞「は」は主格を表すのではない。この文章は、英語での表現「I become a university student this spring」とは、厳密には一致しないのである。

助詞「は」の説明として、広辞苑第6版(カシオの電子辞書Ex-word)には、「①(係助詞)体言、副詞、形容詞や助詞などを受けて、それに関して説明しようとする物事を取りあげて示す」とある。助詞「は」は広辞苑第二版には無く、助詞「わ」として第6版の「は」の説明が書かれている。

「私は、この春大学生になります。」の意味は、「私について説明しますと、この春大学生になる人間です。」という意味になる。(と思う。)
次に、「私が、この春大学生になります。」の助詞「が」を考える。

助詞「が」についてはウィキペディアに以下の様に書かれている。“最も基本的な格助詞である。動作や状態の主体/要求や願望の対象を示す”と説明され、例文として、「花が咲く」「水がのみたい」があげられている。私が所有する広辞苑の第二版にも説明があるが、私の日本語能力を超えるので補足にゆずる。(補足2) だいたい、上の二つの例文の助詞「が」が同じ範疇に入る分類など、何のためにするのか不思議である。「水が飲みたい」という文章だけでは、水は一体何がのみたいのか?人を飲んで溺死させたいのだろうか?と思ってしまう。

「私が、この春大学生になります。」であるが、広辞苑第二版に、主語を表す助詞「が」は、「古くは、下の用言が終止形の場合にはほとんど用いなかった」とある。とにかく、日本語は分かりにくい。英語を参考に、国語文法をもっと簡単にできないものだろうか。

その後見つけたサイトを引用します。


補足:
1)未然形の中に、私は書かない(否定形)と私は書こう(意思を表す形)を押し込んで、文法学者は納得しているのだろうが、一般人は未然形なんて忘れている。
表題の文章の「彼」を「私」に変換した文章は両方とも会話の中には出てこない。特に助詞「が」を使った「私が」は、もし「誰がやったのだ?」という疑問文がその前になければ、用いられない。つまり、日本語では主語の座りが悪いのである。しかし、未来永劫、そのような言葉で良いのだろうか?(11/17朝追加)

 未然、連用、終止、連帯、仮定、命令という活用形も分かりにくい。
「私は書く。」の文章の、「書く」は次のように活用する。上記国語文法のサイトより借用。
①「私は書かない。」「私は書こう。」②「私は書きます。」「私は書いた。」③「私は書く。」④「私は書くことがある。」⑤「父が書けば上手だ。」⑥「君が書け。」 

2)広辞苑第二版(昭和47年に印刷)では、「①格助詞 名詞を承けて所有、所属、同格、分量、類似などの関係を示して、下の名詞を修飾する。妹が家、撫子が花。。。」また、主語を表す「が」は格助詞の中で5番目に説明されている。例文は「雀の子をいぬきが、にがしつる」である。第6版(カシオ Ex-word上に搭載)でも似たような記述である。日本語辞書の筆頭に挙げられる広辞苑だが、日常話す言葉の意味を探すには、助詞にかんする限り、適さない。