スマホやパソコンでのインターネット利用の危険性については、広く知られている。
その原因について、「インターネットは現実の社会と異なり匿名性があるため、仮想的な世界となっている」との指摘が良く聞かれる。しかし、匿名性があれば何故仮想的な世界になるのか?或は、分析者は“仮想的”ということばをどう定義して用いているのか?などの疑問が残るのである。そこで、今回改めてこの問題を独自に考察した。(注釈1)。
インターネットの危険性は、一言で云えば、どのサイトもクリック一つでアクセス可能である点だと思う。つまり、地上の生活においては、全ての場所(サイト)は離れて存在し、そこへのアクセスは何らかの交通手段を要する。その場所には何らかの全体的イメージがあり、個々の場所に至るまでに場所(サイト)毎に異なった、実質的及び心理的エネルギーが必要である。(勿論、負のエネルギーの場合もある。)
更に、地上の場所では、地理的に同じでも昼の世界(表の世界)と夜の世界(裏の世界)などの区別も加わる。更に、何よりも重要な差は、インターネットでは厳密ではない個人の表と裏(の顔、人格)が、地上の世界では峻別されることである。
我々は社会生活をする上で、外に出るときは表の顔で出る必要があり、それは幼児教育から一貫して教え込まれている。この公の社会空間が、人類が漸く到着した民主主義という政治システムにおいて必須である。(8/18; 8/19のブログ記事、民主主義の要諦参照)
表の世界は更に、公的会合とその他のオープンな場の区別、客とホストの別など、我々が用いる”表の世界での顔或いは仮面”にはいろんな区別がある。 それら世界の表と裏、心の内と外、昼と夜、などの複雑で多様な世界を、一様に伸しイカの如く平面に広げてしまうのがインターネットの世界である。
内面の欲求と関連したイカガワしい(と表のことばで表現される)ページも、社会人としての勉強のために見るページも、全てワンクリックでアクセス可能である。このような世界を、法と正義を看板に挙げた我々の民主主義社会と共存させて良いものなのか?
社会を構成する個人として、幼児期から教育され形成した“表と裏”の切り替えのチャンネル(細胞膜にあるイオンチャンネルのような)を破壊し、人間社会を死に導くかも知れない。 丁度、人類の歴史において猛威を振るった伝染病の様に、この病は既に広がっているのかもしれない。
それを防ぐ為には、全体的な議論をもっと大きなスケールで且つ強力に行う必要があるだろう。規制が必要だと思う(注釈2)が、病原菌が目に見えないのと同様に、このネットの危険性は見え難いため、経済界を始め、方々から反対の嵐がおこるかもしれない。それらをのり超えるには、精緻且つ分りやすい論理で武装し、その危険性を訴えるしかない。
この種の問題を考える時に、私の頭をよぎるのは、「文明の崩壊はいろんな方向からやってくる、それは人類にとって運命的なものかもしれない」という、どなたかの託宣である。
注釈:
1)このブログ開設前に別のサイトに記載したものを小幅に修正した後、掲載します。
2)地上の世界のように、”場所や人(年齢や性別)がことなれば、アクセスには夫々異なったエネルギーを要する様にする”、などの規制が必要だろう。