高槻市で起こった12歳の女子中学生の殺人事件が、ここ数日テレビのニュースやワイドショウなどで、新しく出された情報を少しずつ加えながら細かく報道されている。私は何時もこの種の事件が生じるたびに、この執拗とも言える報道のあり方を不思議に思ってきた。
この種の事件の報道は、事件が起こった時と、事件が解決したとき、それに一般の協力が必要な時に、それぞれ必要最小限の情報だけを報道すればよいと思う。
特に、友人や関係のある人たちの、被害者の優しい性格などについての紹介などが、何故事件の報道に必要なのか解らない。まるで、被害者の性格は優しく、真面目でなければならないという定義があるかの様である。
しかし、そこには何らかの計算が働いている様に、邪推してしまう。言いにくいのであるが、事件に無関係な日本中の人々に、謎を推理して頭の体操をする材料として、或いは残忍なショー番組として、テレビはその報道を提供している様な感じを受ける。報道の合間に流されるコマーシャルの裏に、視聴率と宣伝効果の計算をする人がいることを考えると、恐ろしく残忍なこの社会の有り様を感じる。
被害者の親族のことも考え、静かにしていることが本当の思いやりではないだろうか。