新国立競技場の予想建設費の高さから、設計やり直しの必要性が世論の指摘する所となり、それに押されて安倍総理がそのように決断した。この件、政治が機能することの確認を国民に示した点で、安倍総理は点数をあげたと思う。
2012年にデザインを国際公募した際に「1300億円程度」という条件があったが、採択されたデザインを基に試算された総工費はふくれ上がり、6月29日の文科省の正式発表では2520億円になっていた。
公募作品の審査にあたった安藤忠雄さんの会見があったが、その内容は”私には責任がない”という言い訳だけだった。しかし、デザインの条件である1300億円程度の経費が、結果として殆ど無視されていた作品を選んだことになり、その責任はある筈だ。勿論、設計とデザインは違うという言い訳があり得るが、経費が倍になったのでは1300億円程度という条件は死文化する。問題になりだした当初は、もっと高い経費が報道されていたので、最終的にはもっと高くつくと疑う人は多いだろう。
絵を書くだけなら、夢のようなものを書ける人は多いだろう。ただ、建物の外形だけでなく、内部構造とその経費の概算を含めた、その道のプロが参加するコンペだった筈である。
無責任国家日本の典型的出来事であるが、それから学ぶことはないだろう。昨日のテレビ報道では、八ッ場ダムの設計段階と実際にかかるであろう経費の間にも、一桁の差があったという話があった。その際の経験から何も学ばなかったから、今回の様な失態があるのだから。
否、もう一つの別の考え方が正しいだろう。つまり、この件も八ツ場ダムの件も、その計算した経費の変化するプロセスは、その件の中心に位置する関係者には予定のもので、それにより誰かが大きな利益を上げるのだろう。
更に、それが実際の政治と(いままで)矛盾しなかったことは、上記中心に位置する人物達の権益と、政治的決定の間に密接な関係があることを示しているのだ。つまり、確信犯なのだから、学ぶことがあるとしたら、初期のもみ消しに失敗したという点からだけだろう。