ドナルドキーンさんが司馬遼太郎さんに尋ねた。「おとうさん、おかあさんという言葉は何時頃できたのでしょうか?」司馬さんが答えた。「明治時代、文部省が決めたのです。」この話は、何処で読んだか忘れた。ひょっとして、書棚にある「日本人と日本文化(司馬遼太郎とドナルドキーンの対談)」にあるかもしれない。明治時代に多くの単語が創られたことは知っていたが、お父さん、お母さんという基本的な人間関係を表す言葉まで明治政府製だとは知らなかった。 父上と母上という言葉はあっただろうが、その“上”という接尾語がつかない言葉が必要だと日本政府が思ったのだろう。日本政府の試みは、少なくとも関西圏では成功していない。私をふくめ、関西人が「おとうさん」を用いることは少ない。私は子供の頃、父と母を呼ぶ際、地方の方言を用いていたが、その後、それらが幼児語的であることを知り使えなくなり、父と母を失う前に、父と母を呼ぶ言葉を失ってしまった。こんなことを、外国の方に説明できるだろうか?
 一般に、日本語は話をする相手と自分との上下関係が、名詞、動詞、接尾語などの選択を要求し、その結果文章全体が複雑に変化する。例えば、「言う」という動作を表す動詞では、話す、話される、仰る、仰せになる、言う、言われる、喋る、などと変化する。 これらを臨機応変に選択できなければ流暢には喋れない。何故このような複雑な言語体系を必要とするのだろうか? それは、国内のあらゆる組織が共同体(ゲマインシャフト)的色彩を帯びている国だからであると思う。社会が色んな共同体で作られた国では、存在する上下関係は仕事上だけでなく、永続的であり、従って、それに相応しい言葉を持たなければならない。仕事場での上司は私的なあつまりでも尊敬語の対象となる。このような情況は、おそらく儒教文化圏に共通なのだろう。つまり、日本社会は人間集団を“身分”で多層状に分け、その間の意見交換を(言圧を弱める)敬語で制限し、争いのない社会(「和」を保つ社会)を完成した。そして、個人は分をわきまえ、所属する“層(身分)”での責任を果たすことで、共同体全体のパーフォーマンスを挙げるのである。方向が決まっておれば、この争いによって能率の低下を防ぐ方法も良いかもしれない。

 上下方向に多くの層状構造で構成された社会では、人事なども常にその層を意識して行われ、入省何年後で課長といった適材適所とはかなり遠い基準が用いられている。 後輩に追い越されないので、その組織は安定化し活動度は上がるという考え方なので、当然の人事基準である。その結果、それほど有能なトップを選べないのが普通で、“つつがなく任期を全うする”ことを最善とするトップの下、前例(創業者や混乱時代の英傑により創られた)を、ただ踏襲する“結果としての保守主義”が支配するのである。特に、消滅の危機のない組織、例えば全国の地方公共団体や国立諸機関では、その傾向が著しい。ただ、この様な共同体組織では、変化の時代には困難に直面する。変化すべき時に舵を切れずに、益々情況が悪くなるのである。そして、カタストロフィーが起こる。その段階になると、その共同体は英雄を必要とする。そのような人物は、共同体の全階層を見れば一人や二人必ず居るので、一端瀕死の状態になった共同体の身分構造が破壊され、その英雄の下に再建が図られる。その英雄は前例を破壊し、新しい共同体運営モデルをつくる。実は、何もしなかったトップの時代の前例もそのようにして創られたことを、完全に忘れていたのである。その後、2-3世代トップが交代して行く中で、新しく創られたものが踏襲すべき前例となり、何もしない保守主義が復活するのである。注1)

 明治時代は変化の時代であった。そこで活躍し新しい政治形態を創った英雄達は、この複雑で風通しの悪い層状社会を改善(敢えてそう呼ぶ)することを考えたのだと思う。そして、父上、母上に代表される上下でフランクな対話を妨げる言葉に代わって、おとうさん、おかあさんという言葉を創ったのだろう。母上、父上ということばはほぼ追放できたが、それに代わるものには「お母さん」「お父さん」はなっていない。明治の英雄達もこの日本の社会構造までは変えることができなかったのである。
 私は、日本語の構造を変えること無しに、日本の層状社会構造を変えることはできないと思う。依然として「和を以て、貴しとなす」が、日本国を縛っている。分を弁えて保つ和、対話でなく沈黙で保つ和に価値はないのにである。
注1)「売り家と唐様で書く3代目」という川柳がある。
8/10初稿、8/11改訂